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まだ就活が辛い

本稿には自傷行為に関する記述があります。
具体的な描写はありませんが、苦手な方はご注意ください。





はじめに


就活が始まる前は、不採用はただその会社に馴染まなかっただけのことであり、就活に失敗したとて人生が台無しになるわけではないと、きちんと理解していたはずだった。
だが、不採用通知のメールを受け取る度に不必要な人間であると告げられたように感じ、孤独と貧困に喘ぐ、死に損なった数十年後の自分の姿ばかりが浮かぶようになった。

「就活が辛い8の理由」というエッセイを書いてから2か月ほどが経過した。

その頃から何が変わり何が変わらないのか、同エッセイを念頭に置きつつ書き進めていくこととする。



ようやく慣れたパンプスと交通費


パンプスには慣れた。足の裏が痛くなることは稀にあるものの、指の皮が剥けることはなくなった。

交通費については、かさみ続けているものの、他を切り詰めることで対処している。
うねる髪を疎ましく思っている者にとってこれからの季節に欠かせない縮毛矯正も諦めた。湿度の高い日は、頭頂部を排水溝と見紛うほどアホ毛が大暴れするが、整髪料をベタベタに塗りたくることで梅雨及び夏を乗り越えざるを得ない。



ことごとく落ちる人見知り


行き過ぎた資本主義に馴染まないなど上等だと思っていたが、30社近くから経済市場並びにそれに基づいて設計された社会に不適合であると言われるとさすがに深く傷つく。

できることはやってきたつもりである。面接の度に溢れる改善点の一つ一つに向き合い、自分なりに是正を図ってきた。受け答えの内容はもちろんのこと、目線や身振り手振りなど、試行錯誤を繰り返している。

しかし、人見知りだけはどうしても直すことができない。面接はかなり手応えがあったにもかかわらず、その後の職場見学でどうしても言葉が出てこなくなり不採用となったこともある(合否の理由や背景は知る由もないが、それ以外に原因が見当たらなかった)。

私は生まれながらに人見知りで、それが15年以上前からのコンプレックスであり、改善を図り続けてきた。しかし克服するどころか悪化の一途を辿るばかりだった。つまり、人見知りは私を形成する要素の中でもかなり大きな割合を占めている。それを否定されれば、人格否定された気になるのも無理はないだろう。

人見知りを抜いても、他者と比べれば非常に劣っている。しかし、私として生きている以上、自分より優れている者に近づく努力をしたとて、同レベルに達することや、まして上回ることなどできるはずもない。そのため、他者との比較は精神的な落ち込みをもたらすだけであると考えている(とは分かっているもののつい比べてしまうが)。

昔から何をやっても赤点というレベルだった。勉強も得意ではないし、運動や芸術のセンスも皆無である。人とのコミュニケーションに関しては自分より不得意な人間に出会ったことがない。生き方も手先も不器用で、メンタルクリニックにも通っている。そしてこれらを劣っているとする優生思想に囚われている。
致命的なのが、努力が全くと言っていいほどできないことだ。甘えた言い訳だと思う。それでも、昔からどうしてもできなかった。

多分に漏れず、就活においても十分な努力はできていない。本来であればESを書き続け、面接を受け続けなければならないはずだが、ナビサイトを開くことすらできない日も多いし、面接をキャンセルしてしまったこともある。

文章を書くことだけは人並みにできると自負しているが、それ以上に人見知りの影響が大きく、話すとなるとその能力が一切発揮されない。すなわち、ES通過後は能力や魅力を何一つ持たない人間が採用されることを目指すのである。何とも滑稽である。

このように考えれば面接に落ちるのは当然であり、その都度落ち込むことが馬鹿馬鹿しいような気もしてくる。ただ、論理的に考える前に感情が動いてしまうため、気がついたときには涙が出ている。そもそも論理的に考えることも苦手だ。



精神的・肉体的自傷行為


号泣・希死念慮・息苦しさ・過呼吸・自傷行為という抑鬱ビンゴが1列達成されることは決して珍しくない。先日は面接中に涙をこぼしてしまったし、バイト中に自傷をしてしまった。
就活以前から処方されていたSSRIの量も増えた。精神的な不調が身体に出にくい方であると思っていたが、最近は早朝覚醒にも悩まされるようになった。

自傷は、私にとってはストレス発散法である。
幼い頃から自分に罵詈雑言を浴びせ続けてきた。なお、前回のエッセイでも述べたが、周囲の人間は皆優しく、他者から罵倒されたことは一度もない。
言葉の暴力だけでは満足できなくなり、高校生の頃から肉体的な自傷をするようになった。その頃は多くても年1回程度で、頻度が急激に増加したのは大学1年の夏、今の精神状態の礎ともいえるような抑鬱状態に陥った時期であった。

ストレス発散法であるならば、それは生きるための行為であると思う。今の私が生きるためには自傷が必要なのだ。死にたいのに生きるための自傷をしているという矛盾について、何年も考察してきたが未だに解消できていない。

暴言について、自分の中だけで行うことに留まらず、無意識に周囲への自虐を通してストレスの発散を図っていた時期はかなり長かった。先日、大切な人に「あなたが悪く言われるのを聞くと私も悲しくなる」と言われ、人に多大な迷惑をかけてきたことに気がついた。遅すぎる。
また、自虐するとそれを否定するお世辞が返ってくることが多い。その場合にはストレス発散が成り立たなくなるため、あまり効果的な方法でないことは火を見るよりも明らかだった。それなのに最近気がついた。遅すぎる。

周囲に現状(希死念慮はまだしも、自傷はおそらくスタンダードではないため言えやしないが)を伝えれば、就活を一度休めば良いと言ってもらえるかもしれない。
しかし、私はすでに休んでいる人のスケジュール感で動いているのだ。これ以上休むことは就活の中止とニアリーイコールで結ばれる。

プライベートが充実していれば精神的に安定する傾向にあるのだが、それが崩れると四六時中希死念慮に苛まれてしまう。端的に言えば、恋人と上手くいっており、かつデートをしている間は希死念慮を忘れられることがあるのだ。まるで恋人に依存しているようであり、それが褒められたことでないのは認識しているが、現実逃避をせずに生き延びる方法が分からない。



おわりに


抑鬱状態が酷い時期は読み書きのスピードや精度が落ちる。本稿については、最後まで書けたはいいものの、文字が上手く頭に入ってこず、数回ほどしか読み直せていない。
また、前回のエッセイでは社会の構造に目を向ける余裕があったものの、今回は紛うことなきただの愚痴になってしまった。しまった、といっても形式は自由なのだが。

頑張っていないが、もう頑張れない。疲れた。楽になりたい。就職できたとて働きたくない。

今後自分がどうなるか分からない。この状態のまま就活を続けるかもしれないし、それでも卒業までに決まらないかもしれないし、休学するかもしれない。明日死んでいるかもしれない。

もうどうでもいい、と口にしてみたが、就職を一大事と捉えているからこそこれほどまでに落ち込んでいるのである。本当はどうでもいいはずないのだ。

死にたいにもかかわらず食事をし、生きるための自傷をする。
このような矛盾と莫大な不安を抱えながら、日曜日である今日も面接を受けるためスーツに身を包んだ。

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