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就活が辛い8の理由


はじめに


ついこの間生まれたと思っていたが、気がつくと大学3年になっていた。
参加が必須となっている5限の就職ガイダンスに嫌々ながら出席し、「自己分析をせよ」という圧に負け、夏休みにアリバイ作りのように1~2日間のインターンに参加しては、親しくない人との共同作業という最も苦手なことの一つを強いられたストレスで壊れそうになった。
 
春休みに学内企業説明会が開催されてからは、あっという間に本選考の荒波が押し寄せ、逃げ惑うのにも疲れて静かに流され、かといって上手く泳ぐことなどできず、今に至る。
 
このように2025年4月の就職を目指し就活をしているのだが、辛くてたまらない。
本格的に始めてから2か月ほどしか経っていないが、毎日やめたいと嘆いている。近頃はストレスが身体にも出始めている。
 
常に無気力な私は最低限のことしかしておらず、いわゆる「就活ガチ勢」とは程遠いが、それでもめちゃくちゃしんどい(言葉を選ぶ気力もなくなってしまった)。
 
辛さの正体を突き止めれば、少しは楽になるだろうか。
面接の待ち時間に裏紙に書いたメモをもとに執筆してみよう。



1.パンプスと交通費


まず単純に、足と財布が痛い。
最近はパンプスが足に馴染んできたものの、就活が始まったばかりの頃は毎回指の皮が捲れて出血したり足の甲が赤く腫れたりしていた。
パンプスを日常的に履くようになり、「#KuToo」への連帯の思いがより一層強くなった。それ以前もパンプスの強制は許されないことであると思っていたとはいえ、自身が苦しまないとその痛みが分からないというのは何とも情けない。
 
そして、いつの間にか蒸発している交通費。
行きたくもない、メンタルも選考にも落ちる場所に赴くために、私にとっては大金をはたいている。面接の日程が読めないため、バイトのシフトも増やしにくい。
 
そんな私を見かねて、一人娘を非常に甘やかしている親が交通費を渡そうとしてくれたことがある。しかし、受け取るからにはそれ相応の結果を出さなければならない気がして断った。
 
安いルートは乗り換えや徒歩で足が痛くなるし、足が楽なルートは高い。
葛藤を抱えながら、足に絆創膏を貼り、家から適当に持ち出したお菓子で昼食を済ませるなど節約に勤しんでいる。



2.選考に落ちる


これも単純な話で、就活を経験した多くの者が打ちひしがれてきたことだろう。
 
書類や適性検査の時点で落とされるのは、まだダメージが小さい。
問題は、二次選考以降で落ちるケースだ。
魅力を感じたのに、もう一度考え直してみたら「やっぱり違った」なんて、位置エネルギーを持たせてから落下させれば痛みが増すに決まっているではないか。
 
就活が恋愛に例えられることはままあるが、それになぞらえてみれば、マッチングしメッセージのやり取りにも手応えがあったのに、1~3回目のデートでフラれた、といったところだろうか。
しかし、就活生と企業の間には圧倒的な力の差がある点で、フェアな関係性が望ましい(と私は思っている)恋愛とは大きく異なっているだろう。
そもそも、恋愛は純粋な関係性である(そうでない場合もあるだろうが)のに対し、就活は経済活動を目的としているという大きな相違点があるから、どう考えても就活は恋愛ではない。恋愛であってたまるか。
 
不採用通知の「ご期待に添えない結果となり」という文言もやめてほしい。
こちらが勝手に期待し、分不相応な夢をバカみたいに見ていたようで恥ずかしくなる。それが落ちたことによる惨めな気持ちを増幅させるのだ。
 
散々簡潔な返答を要求してきたくせに――というのは言いがかりで、その方が好まれるという暗黙の了解にこちらが勝手に従っているだけなのだが、それにしても突然文学的な婉曲表現を用いられると調子が狂う。
もう、「不採用」の3文字で構わない。
 
ただ、就活が本格化するまで、自身の打たれ弱さから考えるに開始早々潰れるのではないかと憂慮していたが、現時点では不採用となること自体による気分の沈み方は想定していたほど派手ではない。
理由は2点あると考えている。
 
1点目は、自己評価が低い(妥当な評価であると考えているが)ために、就活が上手くいくと思っていないためだ。むしろ、こんな無能を選ぶ会社があれば、よっぽど人手不足に悩んでいるのだろうと、その背景を想像し震えてしまう。
短大卒で一足先に就活を経験した友人は「『私を採らないなんて見る目ないな、ざまあ』って思いな」とアドバイスをくれたが、私を落とした企業はしばらくは安泰だと思ってしまう。なお、受ける企業の経営より自分の将来を心配すべきだということは百も承知である。
 
期待しなければ、それが裏切られてショックを受けることもない。だからこそ「ご期待」していることにされるのが不快なのだろう。
 
2点目は、次節に続くことである。



 

3.働きたくない


そりゃあそうだ。こちとら、怠惰で、内向的で、頭が悪くて、責任を持つことが嫌いなクソガキなのだ。しかも、それらは「傾向」レベルの生ぬるさではなく、頭に「超」が必要なほどである。
 
これまで、進学する際には、莫大な不安に圧倒されつつも耳かき1杯ほどの期待を抱いていた。
高校入学時は「スカートを折って制服を可愛く着こなす(中学の校則が厳しかったため)」、大学入学時は「大好きなジェンダー論の勉強を思う存分する」といったように。
 
しかし、現在、そのような期待が全くないのだ。耳かき1/2杯分もない。
実態を知らないのだから当然といえば当然なのかもしれないが。
 
このように、私はとんでもなく堕落した人間だが、働きたくない理由はそれだけではない。次項に続く。



4.行き過ぎた資本主義及び新自由主義への迎合

経済についてきちんと勉強したことはない。それでも、社会問題に触れる中で、その原因が新自由主義にあるのではないかと感じることが多々ある。
 
資本主義のシステムに嫌気が差すことはあるが、かといって共産主義が最善であるとも思わない。というか、これまで共産主義が正しく実現された例はあるのだろうか。
共産主義体制とされている国々の実態は権威主義であると思う。経済分野の考え方と国家体制としての考え方は両立し得るのだろうが、それでも権威主義が優位となっているように感じるのだ。共産主義が権威主義に呑み込まれている、といったところだろうか。
 
翻って、現代の日本では、資本主義が新自由主義に呑み込まれているのではないだろうか。
資本主義を突き詰めた先に新自由主義があるのではないかと考えている。つまり、本節のタイトルにもある「行き過ぎた資本主義」だ。
 
これらの認識は、経済分野に関してド素人の私がふわふわと考えたことに過ぎないため、誤っている可能性は大いにある。
 
しかし、より多くの富を得るために熾烈な争いが繰り広げられ、国が規制緩和などでそれを後押しする新自由主義的な社会で、「弱者」とされている人たちが切り捨てられる様子を見ると、この状態が豊かであるとはどうしても思えないのだ。現体制が続けば、「弱者」の増加も「強者」との二極化もより一層進むだろう。
 
また、市民の間にも自己責任論が蔓延している。パイをたくさん与えられているように見える人をバッシングせず、パイ自体を大きくし他者も自分も豊かになる社会を望めばいいのに、しかもその他者のパイが実際は小さい場合もあるのに、攻撃的な人が少なからず存在している。
生活保護バッシングや排除アート、またミソジニーと結びつけば女性支援団体への攻撃など、それらが平然と行われ、困窮者がいないものとされているのだ。
 
そのような社会に、適応も加担もしたくない。
 
「弱者」を切り捨てない政治が行われていたら、多少は労働に希望が持てたかもしれない。
こればかりは、声を上げ、投票に行くしかない。



5.大切な思い出を脚色して道具にする


「ガクチカ」と言うと就活に染まり切っている感覚になるため、意固地になって「学生時代に力を入れたこと」と言い続けているが、いずれにせよ、これを問わないESや面接はそうないだろう。
 
学生時代に楽しかったことはある。複数の好きなことに、ほどほどの熱量で取り組んできた。
だが、それらを発表するだけでは「学生時代に力を入れたこと」とはならないらしく、取り組み始めたきっかけ、壁にぶつかった経験、それを乗り越えた経験、そこから得たものが必要になるという。
 
楽しそうだから始めただけだし、向上心がないに等しかったから高い壁は見当たらなかったし、大切な思い出や作品を生み出しただけだ。それの何が悪いのだ。
 
そのように考えても、選考を突破しなければならないため、心を無にしてフィクションの物語を練り上げる。ありもしなかった壁を創り上げて乗り越え、備わっていない能力を身につけたことにする。
 
そしてその半ば偽りの経験に続ける言葉は、「この経験を活かして成長します」「この力で御社に貢献します」である。
 
気持ち悪いにもほどがある。
 
何物にも代えがたい思い出なのに、汚い装飾を施したうえで踏み台にしているのだ。
損得を考えずに楽しんでいた取り組みを、収入を得ることに繋げている。換金しようとしているともいえるだろう。
 
ESや面接での応答の流れはキャリアカウンセラーの方に教わったものであるとはいえ、この愚行を繰り返している自分に吐き気がする。



6.嘘をつきまくって自分を見失う


前節で述べたように、大切な記憶を企業側に好まれそうな(私からすれば醜い)型に押し込んで変形させたり、時に捏造したりしている。
簡単にいえば、自分を良く見せるために多くの嘘をついているのだ。
 
私は嘘をつくことが苦手である。頭が悪いためすぐに辻褄が合わなくなるし、何より変に真面目な性格のせいで必要以上の罪悪感を抱えてしまう。
 
しかし、面接ではきちんと対策をしているから綻びが目立ったことはないし、憎悪している就活と、敵とみなしている面接官に対して誠実であることも馬鹿馬鹿しくなった(それゆえに肯定的なコメントを返してくれるような優しい面接官の前では罪悪感を覚える)ため、就活においての苦痛は和らぎつつある。
 
今恐れているのは、自分のために嘘をつくという行為が身に馴染んでしまうことだ。
 
私には何の能力もない。強いて言えば、これほど無能でも20年以上生きられるほどの恵まれた環境と運を呼び寄せる力は持っているが、いかんせん努力をしていないから話にならない。無論、努力をせずとも人並みにできるという器用なタイプではなく、できないことはできないままで誤魔化しながら生きてきた人間である。
 
一般化された他者(面接官)に好まれそうな、かつエピソードを改変すれば繋げられそうな能力を長所としてアピールする。短所についても、嫌われなさそうなものを最低限述べるに留める。前者は0~1を10に、後者に関しては10を1にしている。
 
これにより日常生活でも良く見られるために嘘をつくようになったら、自身の能力を過大評価し痛い目を見たら、と不安が膨らみつつある。
 
実際に、先日友人に日常の報告をする際、話を盛り成果を強調しようとしていた。
口に出す前に気づき慌てて呑み込んだが、就活を始める以前にはなかったことであり、大きなショックを受けた。



7.貧しい文章しか書けなくなる

 
ESや面接の受け答えの文言は、一度自分で考え、キャリアカウンセラーの方に添削してもらい、それを自分で再度調整したものをテンプレートとして、様々な文字数や質問内容に対応できるようにしている。
常にそれに沿って文章を考えているため、文章力が落ちることを危惧している。
そこから外れようとしても採用率が上がるわけではなさそうだ。また、かけられる時間や労力に限りがある中で、テンプレートに従うのは「コスパ」が良い。
このように合理性を第一に考えた「コスパ」の追求は、新自由主義的と相性が良いように感じる。私も蝕まれつつあるのだろうか。
 
このようなエッセイを書く暇があればESの1本や2本でも書いたらどうかと思われるかもしれない。
 
だが、私には何でもない文章を書く時間が必要だった。
 
私は人生の半分以上原因不明の自己嫌悪に苦しめられているが、本名と自分の文章に限っては好きであると言える。前者は親のセンスであるから、実質文章だけだ。
また、希死念慮に苛まれる日々の中で、好きな文章を書いている間は生きている実感を得ることができる。なお、希死念慮を抱えることは以前からあったため、就活はそれを助長させたにすぎない。
 
これ以上自分を嫌いにならないため、死ねないなりに生き延びるため、このエッセイを書いて良かったと心から思う。
 
締めに向かう雰囲気を醸し出してしまったが、あと1節ある。



8.今より残酷な地獄が続く


端的に言えば、現在、地獄のような日々を送っている。
就活が常に頭の中を牛耳っている。それによるストレスは、他のことをしている時間も動悸や不安感などを通じて身体にその存在感を見せつけてくる。
だが、現在大学生であることに変わりはない。人生で最も時間と心に余裕があると言っても過言ではない時期であるはずなのだ。
このように、生きやすい環境に置かれているにもかかわらず莫大な生きづらさを抱えている私が、より過酷で終わりの見えない労働という地獄に耐えられるわけがない。
 
労働を抜いても、人生に希望などない。この悪政はいつまで続くのか、親はいつまで元気でいてくれるのか(実母を介護する母親を間近で見ており、その地獄を自身に置き換え泣いたことは一度や二度ではない)、私はいつまで生きることになるのか…。就活では5年後や10年後の自分を考えるよう促される場面があるが、考える度に希死念慮が膨張し、それに伴い就活への不安も増幅した。
 
これには、癖づいていることにすら長年気づけなかった、いわゆる0-100思考も関係していると思う。
1つでも嫌なことや苦しいことが起きれば、全て台無しで、最悪で、終わりだと思ってしまう節がある。そのため、人よりも地獄の判定が甘いのかもしれない。



おわりに


ここまで辛さの原因を列挙する中で、就活の理不尽さを改めて実感した。
学生は溢れる不文律に支配されており、温存・再生産することによってそれらはさらに強固なものとなっていく。
ほぼ全員同じ色の髪とスーツ、学生の本分であるはずの勉強より課外活動が重視される自己PR、それに伴い就活予備校化する大学…。
 
就活工場に自ら飛び込むよう仕向けられた学生は、知らず知らずのうちに個性や反骨心を取り除かれる。そのレーンを潜り抜けると、たった数種類の部品が用意されており、それを組み合わせて紋切型の個性をアピールする。出荷される頃には「社会人」の初期設定が完了している。
 
ちなみに、労働市場のみを「社会」とする考え方に大きな違和感を覚えているため、「社会人」という言葉を用いることには消極的である。人間が2人集まればそこはもう社会であるのだから。「社会人」に代わる言葉はまだ見つかっておらず、探しているところだ。
 
しかし、どれだけ嘆いても、批判しても(例えそれが的を射ていたとしても)、就活をせざるを得ないのが現実である。
 
今後も、就活に向き合ったり、やっぱり逃げたり、希死念慮にぶん殴られたり、周囲に甘やかされたりしながらゆっくりと進んでいこうと思う。
 
市場に何の影響も及ぼさない、面接官に評価されるどころか目に入ることすらない文章を書けて満足した。このエッセイ、かなり好きだ。

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