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レズビアン・フェミニストと深夜ラジオリスナーは両立できるか

本稿ではタイトルの通り、レズビアンであること及びフェミニストであることと、深夜ラジオのリスナーであることは両立し得るか、ということについて綴る。


「レズビアン」と「フェミニスト」


まず、レズビアンとフェミニストは両立できるか。これに関しては、人によるという前提はありつつも、私には可能であると思っている。
 
1本前のエッセイでも書いたが、私は生まれたときに割り当てられた性別、性自認、性表現、恋愛対象・性的対象となる性別のすべてが女性である。
つまりシスジェンダーのレズビアンなのだが、自身のSOGIEを言葉にするならば「女性が好きなシス女」という表現が最もしっくりくる。
 
レズビアンには、女性であることと同性愛者であることのマイノリティ性が重なり、壮絶な差別を受けたりそもそも可視化されなかったりしてきた歴史がある(現在も続いているといえるだろう)。

連帯するために、自分たちのもとに取り戻すために使われてきた「レズビアン」という言葉を、その時代を知らず勉強もまだ不十分な私が使って良いのだろうかと、自称することを躊躇ってしまうのだ。

無論、どのような言葉を使おうが個人の自由ではあるし、私が使うことがレズビアンの存在を可視化する一助となるかもしれない。それでも、自分で引き取る決意が固まるまでは、「女性が好きなシス女」を使用したい。
 

 
また、フェミニストと名乗ることもあまりない。
 
日々ジェンダー不平等である現実を嘆き憤っているため、客観的に見ればフェミニストであるだろう。
 
しかし、「レズビアン」と同様に、生命をかけて戦ってきた女性たちと同じ「フェミニスト」を、必死に抗ったこともない、勉強すら十分にできていない私が名乗って良いのだろうか、と思うのだ。
 
そのため、「ジェンダー平等を心から望む者」とでもしておこう。
 
ただし、本稿では便宜上、私はレズビアンでフェミニストとする。
どうかこの約600字が無駄だったとは思わないでほしい。レズビアンやフェミニストの先輩方への敬意と葛藤を言葉にしておきたかったのだ。
 
 
 
この社会で長い間権力を持ち続けてきたのは、シスジェンダーの男性である。
 
ヘテロ女性もレズビアンもトランス女性も(というかシス男性以外、厳密にいえばシスヘテロ男性以外は…いや、シスヘテロ男性の一部も)、男性優位社会で何らかの被害に遭ってきた。
 
そのため、レズビアンでありフェミニストであるということは十分に成立し得る。
 
過去には、女性を恋愛・性欲の対象とする点でレズビアンがフェミニストの敵とみなされたこともあったようだが、現在はそのような主張はほとんど見受けられない。
 
また、レズビアンよりゲイの方が目に見える排除を受けやすいように感じるが、これにはやはり男性性が大きく関係しているのだろう。
 
 

深夜ラジオのマチズモ


さて、レズビアンかつフェミニストであることと深夜ラジオリスナーであることは両立し得るかという問いだが、結論からいえば人によるだろう。
 
あまりに雑な答えだ。もう少し丁寧に述べれば、「人によるが、私の場合は困難でありながらも無理矢理両立させている」といったところだろうか。
 

 
私は7年以上芸人の深夜ラジオを愛聴している。
 
ラジオ自体は、ヘビーリスナーである母の影響で物心つく前から聴いていたのだが、中学2年のある日、眠れない夜にたまたまつけた深夜番組に衝撃を受けた。
この世にはこんなに面白く、過激で、自由な番組があるのか、と。
 
今日までずっとリスナーであり、いつからか他の番組にも手を出すようになり、現在では4番組(ちなみに昼間の番組はその倍ほど)を聴いている。
 
私が好きな深夜ラジオについて、具体的な番組名を記すことは避けるが、その特徴を以下に列挙する。

 
 
・男性器に関する「イジり」をする
・何の脈絡もなく女性器の部位を叫ぶ
・リスナー(女性の場合もあるが大半は男性)が性的興奮を覚えた場面を紹介するコーナー
・パーソナリティの「ヤリチン」キャラ

 
 
並べてみて、思わず呆れてしまった。どの番組も、女性を性的に消費する側であるという男性の優位性に基づき、「男らしさ」を証明している。
 
私はなんてマッチョな番組を聴いているのだろうか。
 
2020年にとある芸人が深夜ラジオで女性蔑視発言をしたのは記憶に新しいが、その問題と紙一重である。明確な違いを説明するのは難しい。
 

最近では、「今はジェンダーのことがあるから」「コンプラが厳しいから」と、出演者が自身のした発言を省みる場面も増えている。
 
ジェンダーに関する問題発言は以前から存在しており(しかも現在のそれより過激で)、最近ようやく問題として取り上げられるようになったにすぎないし、人権侵害になり得るから、差別だから不適切なのであって、「コンプラが厳しいから」ではない。
そのような認識の甘さにも辟易とするのだが、ひとまずは前進といえよう。

 
しかし、ここでは性別二元論や異性愛中心主義が採用されていて、シスヘテロ以外の人間はいないものとされている。
このことはずっと変わっていない。
 
 
それでも私は深夜ラジオが好きで、聴き続けている。あまりの面白さに、人目も憚らず吹き出してしまうこともある(夜型でないためついradikoのタイムフリー機能を利用してしまう)。
これはなぜなのだろうか。
 
 
おそらく、深夜ラジオの基本的な性質が「童貞向け」であるためだ。
 

明言されているわけではないが、モテるどころか人と話すことも得意ではない若者や、そのまま年を重ねた中年がメインターゲットとされており、パーソナリティは(既婚者も多いが)モテない先輩のような立ち位置であるように思う。
 
前述の深夜ラジオの特徴について、3つ目までは童貞の悲哀のようなものを感じさせるし、4つ目の「ヤリチン」キャラについても、「童貞のお前らとは違って」という空気がある。
 
童貞は、女性を客体としたり消費したりすることはあっても、実際に手を出すことは(でき)ない。「男らしさ」を誇示することはあるが経験が伴わず、その点がマチズモを希釈しているのではないだろうか。
 
童貞に彼女ができない、つまり男女が結びつかない点で、異性愛主義の暴力性も薄れているように感じる。

なお、恋愛至上主義的な考え方を肯定する気は一切ない。
 


ここで、新たな疑問が生まれる。
社会全体と比較すれば男性の優位性も異性愛主義の圧力も緩和されているとはいえ、決してなくなっているわけではない。また、いわば童貞同士のホモソーシャルな関係性が築かれているとも取れる。
そのような中で、女性で同性愛者の私はなぜそれらを楽しめているのだろうか。
 

何とも情けないことだが、恋愛・性的対象が女性であるのを良いことに、ホモソーシャルの輪に加わろうとしているのだ。
 
我ながら最悪で最低だと思う。

 
ただ、一つだけ言い訳をさせてほしい。
 
日頃暮らしている中で、女性というマイノリティ性と同性愛者というマイノリティ性により、不快な思いをしたり不利益を被ったりしているが、それを忘れることができる数少ない場所が深夜ラジオなのだ。
 
自分が女性であることも同性愛者であることも、その他の生きづらさも何もかも忘れ、最もフラットな状態でくつろげる時間になっている。
 
もっとも、シスジェンダーであるという特権は深夜ラジオでもその外でも享受しすぎているのだが。これについては反省する他ない。


葛藤と共に

 
深夜ラジオがジェンダーや人権の観点から問題がないとは到底思えない。それは重々承知しているし、長い目で見れば自分に振りかかる生きづらさを自分で再生産しているともいえる。自分だけの問題ではなく、他者や社会全体にも間接的に悪影響を及ぼしているのかもしれない。
 
それでも深夜ラジオが大好きだし、深夜ラジオを聴いている時間は最もリラックスできるひと時だ。
 
葛藤を抱えることは苦しいが、これがせめてもの贖罪だと思って苦しみ続ける。
 

繰り返しになるが、レズビアンかつフェミニストであることと深夜ラジオリスナーであることは、人によるが、私の場合は困難でありながらも、そして激しい葛藤をしながらも無理矢理両立させている、というのが結論だ。


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