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【小説】藍色とノクターン - Yayuki【ヒューマンドラマ】

- 序 -

フィクションにほんの少しの体験を混ぜて、黎明風味にしてみました。

- 本篇 -

 深く長く覆いかぶさっていた闇が明けるころ、空は鈍い藍色を映し出す。藍々はこの空の色が好きだった。何にもなれない自分を唯一受け入れてくれる場所。藍々は、冷たい地面に座り込んで、もう何回見たかも思い出せない藍色を見つめた。はじめのうちはこの藍色を見るたびに心の隅に罪悪感を抱いた。今では後悔していない。ただただ美しい藍色だった。少し肌寒さを覚えだした秋の夜明け、藍々は混沌とした街を見つめた。

「この前さー、担当がマジきもくて、切ろうかと思った」
「えー、分かる分かる」
 若者で混み合う広場で同じような服装の二人が話していた。黒と白のモノトーン。至る所にリボンをつけて、これでもかと言うほどに厚底の靴。これがここで生きる者たちの制服だった。
「ララの担当は?」 
 急に話を振られて藍々はスマホから顔を上げる。まるでこの先の人生を暗示するかのように下げられたアイラインと蛞蝓のような涙袋が目に入った。
「私、ホスクラ行かないし」
 かくいう藍々もはたから見れば同じような見た目だ。
「ララは本当に男に興味ないよね」
 かなりの頻度でホストクラブに通うルナがため息をつく。
「ララはまだ子供だからね」
 とアイも笑うが、アイとてかなりの童顔だ。童顔なだけなのかはたまた本当に幼いのかは定かではない。
「そういやさ、昨日ここ来てた、レンくんが今朝自殺したらしいよ」
 ルナが声のトーンを下げた。
「え、マジ? 確かにめっちゃ病んでたくない?」
 アイは少し面白がっているようだった。
「どうでもいいよ。どうせ明日にはみんな名前も忘れてるでしょ」
 自分でもびっくりするくらい無機質な声だと藍々は思った。命は軽い。藍々がこの場所にきて一番に学んだことだった。一瞬の風に煽られて藍に溶ける。本名も年齢も知らない。悲しくもなかった。
「すぐそんなこと言って、ララも死んじゃダメだよ」
 アイが抱き着いてくる。仄かに煙草の匂いがした。
「死なないよ。今のところはね」
 ここにいるルナもアイも私が死んだとして、何日覚えていてくれるのだろうか、と藍々は考えた。それからホストクラブでの愚痴を言いあう二人を横目に藍々は小さなカバンから小瓶を取り出した。白い粒が瓶にあたってカラカラと奏でる音は今日も美しい。藍々は少しだけ胸を高鳴らせながら、瓶を開けた。この甘い粒が藍々の唯一の楽しみであった。多量の粒が喉を通る音はいつ聞いても不気味だ。それから一時間ほどその場で座り込んでいたかもしれない。突如襲ってきた熱は、藍々の思考を埋め尽くした。

 歩いた。

 足が地面についていることに藍々はほっと息をつく。今どこに居るのかと辺りを見回した。ビルの壁に赤く光る大きな文字が見えて、藍々は安堵した。あまり遠くへは行っていないようだ。ふわふわとした足取りで、先ほどの広場へと戻る。列をなしていた客引きの女の子たちの群れは、ほとんどがいなくなり、道路は閑散としていた。広場には知らない顔が集まっている。なんとなく居心地の悪さを感じ、藍々は人通りの少ない道を目指した。まだ少しだけ言うことを聞かない足を引きずって、藍々は細い道を歩く。時折明かりのついたバーの横を通るとき、騒がしさに少しだけ現実に引き戻された。歪んだ視線の先に移るのは地面に倒れた酔っ払いと派手な服装の男女。しばらくして、藍々はこれ以上進むのが億劫になった。どのみち行先も決めてはいない。藍々は道端の酔っ払いから少しだけ距離をとると、地面に座り込んだ。星を数えようと上を向いたが、何も見つからなかった。スマホの電源ボタンを押してみたが、とうの昔に充電は切れている。たとえ充電が残っていたとしても何のメッセージも期待できなかっただろう。涼しい風が心地よかった。
「なーにしてんの? 寝てる?」
 突然知らない声が降ってきて、藍々は顔を上げた。金髪と派手なメイクが街灯の光を反射していた。
「え、誰?」
 思わず聞き返した藍々は、自分の呂律がうまく回っていなかったことを恥ずかしく思った。おまけに声も枯れている。金髪の少女は少しだけ首を傾げると、
「もしかして、酔っ払い?」
 と眉をひそめた。
「ちょっと休んでただけだけど、何か用? ここじゃこんなの珍しくないでしょ」
 綺麗な顔立ちの少女だったが、仲良くする気はなかった。
 少女は藍々の顔をまじまじと見てから、少し笑って藍々の隣に座り込む。
「お酒の匂いしないし、やっぱ薬かー。てかめっちゃ可愛いね。あ、そうそう、うちルイって言うんだ」
 急に話始めたルイに藍々は不快感を抱いた。ブラウンの瞳にすべて見透かされた気がして、嫌気がさした。自分がどうしようもないクズなのは藍々自身が一番よく知っている。
「だったら何なの? どうだっていいじゃん。うざいんだけど」
「別に何も責めてないって。一人だし暇だったから声かけただけ」
 ルイは楽しそうに笑った。藍々はルイの心の内を読み切れず、もやもやとしていた。この場所では他人に干渉することもなければ、干渉されることもない。どんな快楽も失態も一夜のうちにこの街に込みこまれて消える。ここはそういう場所だ。
「うちさ、今日初めてここに来たんだけど、なんか自由な場所だよね。なんていうの? 何でも許されそうな感じ!」
「みんなその自由が欲しくてここに集まるからね」
 藍々はため息をついた。悪い人ではないのかもしれない。ただ少しここでの生き方に慣れていないだけだと思った。どちらにせよ、自分の人生が嫌になりこの場所に足を運ぶのは皆同じだ。
「それで何? 何か聞きたいことでもあるの?」
 藍々はルイに問いかけた。
「そんな怖い顔しないでよー! てか何の薬やってたの? 気になる!」
「怒ってるつもりはないよ。笑い方を忘れただけ。さっきしてたのはレタス」
 言葉にしてから藍々は悲しくなった。薬の抜けた体は魂まで抜けてしまったようで、さっきまでの高揚感は消え去り、笑うのすら億劫になる。人生にはもう何も期待していない。それでも口にするだけ少しの不安と罪悪感が沸き上がった。そんな自分にもまた嫌気がさす。
「えっと……レタスって何なの?」
 ルイが首を傾げた。ルイもまた、人生に嫌気がさしてこの場所にたどり着いたのだろうか。明るそうな子なのに、と考えてから藍々は、この場所では見た目など何の当てにもならないことを思い出した。ここは、酒の缶を片手に楽しそうに笑う人間が次の日にはあっけなく自殺する場所だ。
「レスタミンっていう薬。ODに使うやつ」
「OD? なんか聞いたことある! 薬いっぱい飲むやつだよね?」
 確かに藍々とてこのような用語を知ったのはここに来てからだった。教えない方がよかったかもしれないと、藍々は先ほどまでの自分を振り返って後悔した。
「ねえ、うちもやってみたいって言ったらダメかなぁ?」
 ルイは笑った。悲しそうな笑顔だった。全てを諦めたような表情に藍々は自分と似たものを感じて嫌悪した。
「また今度でいいかな? 次会ったら色々と教えるよ」
 藍々は藍色に染まった空を横目で眺めながら答えた。夜はもう終わりかけだ。藍々は座り込んだルイをその場に残して立ち去った。連絡先は聞かない。また縁があればどこかで出会えるだろう。ここはそういう場所だ。
 始発の電車は死んだ目をしたサラリーマンで賑わっていた。そんなサラリーマンを小ばかにしたように席を占領する泥酔した男。いつも通りの風景だった。電車が進むにつれて藍々の気分は重くなった。聞きなれた電車の発車ベルはまるで藍々をあざ笑っているようだ。後ろで閉まる電車のドアが藍々をせかす。帰りたくもない場所はすぐそこだ。藍々は重い足取りで帰路に就いた。 
 自宅のドアを開けた瞬間、ゴミ捨て場のような悪臭が鼻を刺した。藍々は袖で鼻を抑え、靴を脱ぎ捨てる。一、二時間もすればこの匂いにも慣れるだろう。藍々は床に散乱したゴミを避けながら部屋の奥へと向かう。洗面台で顔を洗っていると、唐突に後ろから髪を引っ張られた。水滴を垂らしながら振り返ると、煙草を咥えた女がめんどくさそうな表情で立っていた。
「どこ行ってたんだよ? 今から寝るんだからうるさくしたら、追い出すよ」
「しないから、早くどっか行って」
 物心着いてからずっとこの調子だ。いつからか、口論する気も起きなくなった。藍々はため息をつく。
 父親の顔は覚えていないし、知りたいとも思わない。それから藍々はかび臭い自室の布団にくるまった。布団は酷く冷えきっていた。
 藍々は金切り声で目を覚ました。部屋は西日で朱色に染まっている。このまま燃え尽きてしまいたいと思った。思い残すものは何もない。少しだけルイの顔が頭をよぎった。あの場所に行けば、また会えるかもしれないと期待した。リビングの方から一層激しくなった金切り声と物音を聞きながら、藍々は無表情でスマホをいじった。やがて、声がぴたりとやんで、しばらくの静寂があたりを包んだ。もうすぐ来るかなと藍々はため息をつく。一瞬の間があって、泣きはらした目の女が部屋に入ってきた。市場で売れ残った果実のようだと思った。あとは腐っていく一方だ。
「なんか用?」
 藍々はスマホから顔を上げずに聞いた。特に興味はなかったが、そこに立ち尽くされるのもまた迷惑だった。
「今夜さ、出かけることにしたから。千円置いとくから、好きなもの食べな」
 吐き気がするほどの猫なで声で女は言った。今は機嫌がいいらしい。普段はねだったとしても一円だってくれたことはない。
「あっそ。早く出てって」
 言ってからしまったと思った。薄ら笑いを浮かべていた顔は一瞬にして鬼のような形相に変化する。
「親に向かってなんて口きいてんだよ!! 育ててやってんの、忘れてんじゃねぇよ」
 腹部に強い衝撃を感じて、藍々はスマホから手を離した。激しい吐き気を催して、藍々はその場に蹲った。
「せっかく、優しくしてやってんのに、なんか文句あるのかよ。やっぱ産んだの失敗だったわ」
 女は藍々のベットに腰かけると煙草に火をつけた。
「お前なんかいらねえんだよ。早く出てけよ。居なくなった方がせいせいするわ」
 独特な煙の臭いが鼻を突く。藍々は素早くベットから起き上がった。このままここにいては、また女の灰皿にされるとわかっている。藍々は痛むお腹を抑えながら、荷物を持って家を出た。背後から耳をつんざく金切り声が聞こえる。藍々は感情を押し殺したまま、駅への道のりを足早に歩いた。駅に入る電車のブレーキ音が聞こえる。自分が死ぬのと、家を追い出されるのはどちらの方が早いだろうかと考えた。藍々は電車の窓から、闇に溶け込む街を眺めた。

「お、ララじゃん。最近見なかったけど、どうしたよ」
 藍々がいつもの広場へ入ると、すぐにルナから声をかけられた。ごてごてと飾り付けられたピンクの爪が夕日を反射する。
「もしかして、学校行ってたとか?」 
 隣にいるのは、見たことのない顔だ。藍々の視線に気づいたのか、少女は口についた銀色のピアスをいじりながら笑った。
「初めましてだよねー。ユキですー。仲良くしてね」
「ユキとはねー、ホスクラで出会ったんよ。なんか、担当被っててー、最初は何こいつ、うざって思ったんだけどね」
「それな。でも結局うちらの担当、他の被りと仲良くしてた上にアフターまで行きやがって」
「そうそう。で、なんか意気投合した的な? むかつきすぎて、二人で担当切ってやったわ」
 仲良さそうにホストクラブでの愚痴を言いあう二人を横目に藍々は広場を探した。ルイは来ているだろうか。来て居たら、あの眩しい金髪に気づかないはずはないと、藍々は少しだけ落胆した。
「ララ、今日は行くの?」
 ルナが聞いた。
「多分ね」
 いつも通り最悪の気分だ。
「ララじゃん! おひさ!!」
 振り向くとルイが笑っていた。あの日と変わらないルイの姿に藍々は今日の憂鬱な気分が晴れるのを感じる。一週間ぶりだというのに、まるでずっと長い間あっていなかったような気がした。
「ララの知り合い?」
 ルナの問いかけに藍々は頷いた。
「この辺ではあんまり見ない顔だね」
 ユキが品定めするかのようにルイを見つめた。ユキの下げられたアイラインとルイの跳ね上げられたアイラインが対照的だった。
「よろしくー!」
 ルイが長い爪をひらひらと振る。
「ねえ、ララ! 今度会ったら教えてくれるって言ったよね?」
 ルイが藍々の隣に座り込む。
「いいけど、私今日行かなきゃいけないとこあるから」
 藍々は小さなカバンから、小瓶を取り出した。そして、自分とルイの間に置いた。
「おぉ、これSNSでよく見るやつじゃん」
 ルイが珍しそうに小瓶を見つめる。藍々は、瓶をあけて片手いっぱいに白い粒を取り出した。数分の末、全てを飲み込むと、藍々は持っていたミネラルウォーターをルイに手渡した。
「初めは少量からの方がいいよ」
 ルイは頷くと神妙な顔でペットボトルを受け取った。暗くなるにつれて、広場は賑わってくる。藍々の周りにも座り込む人が増えてきた。中には見たことのない顔や名前の知らない子も大勢いる。藍々とルイの様子を見て、何かを察したように離れていく人。隣に座り込み同じように白い粒をばらまく人もいた。そんな中、藍々とルイはお互いに手を取り合って座っていた。
「なんかちょっと酔ってるみたいじゃん」
 ルイがつぶやく。ルイの声が遠くから聞こえたような気がした。
「そうだね。水の中を漂ってる感じ」
 藍々はすっかり闇に包まれた空を見上げた。そろそろ時間だ。
「ルイ、私ちょっと行かなきゃいけないから、ここに居て」
 藍々は立ち上がった。
「うちの事、置いてくの?」
 ルイには似合わないくらい寂しそうな声だった。
「一緒には行けないからね。周りにもたくさん人がいるし寂しくないよ」
 藍々がそういうと見かねたように、隣に座っていた子がルイにお酒の缶を渡して言った。
「一緒に飲も。ララちゃもしばらくしたら帰ってくるよ」
 藍々はその子に軽く会釈すると広場から立ち去る。何度か話した気もするが名前は憶えていなかった。
 広場から少し離れたところに位置する公園が藍々のバイト先だ。藍々と同じような恰好をした女性や、大人っぽい服装の美しい女性が公園の外周を取り囲むように並んでいる。藍々は公園の周りを一周してから、空いている場所を見つけてそこに座り込んだ。そして、SNSをチェックしながら、周りの様子を伺う。その時は突然訪れた。
「ねえ、お姉さん、いくらですか?」
 スマホから顔を上げると、年配の男性が目の前に立っていた。藍々はわずかに臭う加齢臭に顔をしかめた。
「ホ別5」
「いいね。めっちゃ可愛いじゃん。てか何歳なの?」
 急になれなれしい様子で男性が話しかけてくる。藍々は何も答えず立ち上がった。平衡感覚がつかめずにふらつく。それから藍々は男性について公園の奥へと歩いて行った。

 数時間後、藍々は再び公園へ戻ってきていた。先ほどまでの不快な感覚を落としたくて身震いした。吐きそうだ。重い足取りで広場を目指す。しかし、その途中で急に虚しさを感じて地面に座り込んだ。これもまたいつも通りの日常。涙はずいぶん前に流れなくなった。藍々は仰向けに寝転ぶ。どんよりとした空は星の一つも見せてはくれなかった。藍々は急激な眠気を感じて、目を閉じた。

「ララ、ララ!! 起きてって」
 遠くで声が聞こえる。藍々は現実に呼び戻されて目を開けた。街灯の明かりに輝く金髪が目に入った。ルイが藍々のすぐ隣にしゃがみ込んでいる。藍々は鈍痛のする頭を押さえながら起き上がった。体が鉛を詰められたかのように重い。
「ごめん、置いて行っちゃって」
 心配そうな顔をするルイに言った。ルイの表情を見て藍々は悟る。おそらく自分のいない間に藍々がどこに行ったのかを誰かが教えたのだろう。今更、同情も嫌悪も気にならないと藍々は自分に言い聞かせた。
「大丈夫? 心配してたんだよ! 無事でよかったー」
 ルイがにっこりと笑う。その笑顔からは一つの嘘も読み取れなかった。
「触らない方がいいよ。私、汚れてるから」
 安堵した表情で手を貸そうとするルイに藍々は言い放った。半分以上は本心だった。今は自分自身にすら触れられたくはない。
「汚れてなんかないって! ララはかわいいよ」
 ルイはそういって藍々を抱きしめる。その瞬間、先ほどまで自分を抱いていた毛むくじゃらの太い腕を思い出して、気持ちの悪い汗が流れ落ちるのを感じた。ルイの白くて細い腕を見つめて気持ちを落ち着かせる。それでも震えは止まらなかった。そんな藍々の震えを感じたようで、ルイは立ち上がると、手を差し出した。
「ララ、ネカフェでも行こっか」
 広場のすぐ近くに位置するネットカフェは深夜にも関わらず賑わっていた。清潔感のない男性客から、終電を逃したサラリーマン、藍々と同じくらいの少女まで、幅広い年齢層の客が過ごしている。ルイが受付を済ませている間、藍々は通路を通る人々をぼんやりと眺めた。それから、自分は本当にこの人たちの中に紛れられているだろうかと考える。藍々が、ここにいる人たちの素性も仕事も知らないように、他の人たちもまた藍々のことを知らない。そう頭ではわかっているものの、何故か強い疎外感を感じてしまう。自分の両手が一夜のうちに酷く汚れてしまったようだ。こんなことを考えてしまう自分が嫌だったが、いつかこの気持ちがなくなり、平然と体を売るようになってしまうのも嫌だった。
「ララお待たせ。部屋行こ」
 ルイが藍々の前に立って手を差し出した。
「……ありがと」
 藍々はしばらく迷った後に、手に残る不快な感覚を上書きしたい一心でルイの手を取った。
 狭いシャワールームの中で藍々はルイと見つめあった。熱いお湯が体に残ったけだるさを落としていく。藍々は自分の腕に引かれた傷が熱で灼けるのを感じて、ルイにばれないようにと隠したが、ルイはとっくに気づいていた上に特に気にしていないようだった。変に説教をされたり、気を使われたりするよりはマシかと、藍々はため息をついた。風呂から出た後、机の上に置かれたルイのスマホの画面が明るく光った。ちらりと目をやった藍々だったが思いがけず届いたメッセージの内容が見えてしまい、すぐに目をそらす。自らの目を疑ったが、確かにスマホの画面には“瑠衣、どこに行ってるの、すぐに帰ってきなさい”と書かれていた。やがて、藍々の視線に気づいた、ルイがスマホを裏返す。顔には何も聞かないでと書いてあった。普段の明るい笑顔からは考えられない表情に驚く。その日、藍々はルイとネットカフェの固いソファの上で語り合った。最終的にほとんどが藍々の愚痴になってしまったが、ルイは優しくうなずきながら最後まで藍々の話を聞いていた。正解やアドバイスが欲しいわけではなかった。ただ、話を聞いてくれるだけで良いのだと藍々は気づいた。

 一週間後、藍々がホテルを出るとその日は雨だった。もう始発の動き出す時間だったが、空は分厚い雲に覆われ、朝日はなかなか顔を出さない。藍々は折り畳み傘に隠れるようにしながら駅へと向かった。体は酷く重い。雨でなかったら、この冷たいアスファルトに今にも倒れこみたい気分だった。雨にも関わらず、道路にはちらほらと人影が見られる。
「ねえ、お姉さん、今暇? ちょっと休んでかない?」
 不意に話しかけられて、藍々は顔を上げた。派手な見た目のホストのような男が、藍々の行く先を塞いでいた。藍々は何も答えなかった。男を無視すると足早に駅へと急いだ。男はしばらく追いかけてきたが、やがて諦めたように他の女を探し始めた。こんな時間に雨の中、凄い精神力だと藍々は思った。広場は閑散としていたが、その隅に見知った少女が蹲っているのを見かけて、藍々は足を止めた。濡れた金髪が見える。驚きに目を見開いた。藍々はその少女の正体を確かめるように駆け寄った。
「ルイ!」
 ゆっくりと少女が顔を上げた。泣きはらした瞳が見える。普段とは似ても似つかない姿に藍々は慌ててルイのそばにしゃがみ込むと座り込むルイを傘の中に入れた。
「どうしたの?」
 藍々は問いかける。とても大丈夫そうには見えなかった。ルイの手を握る。細い指は雨に濡れて氷のように冷えきっていた。
「ちょっと、親と喧嘩しちゃった」
 ルイがぽつりと話し出す。雨と涙で落ちかけたアイラインは、いつも元気そうなルイを弱々しく見せた。
「ララは、将来の夢とかあるの?」
 急に話を振られて藍々は黙り込む。正直な話、将来についてなど考えたこともなかった上に、自分に明るい未来があるとも思えなかったからだ。現状を変えるつもりも変える勇気もなかった。
「私は、もう諦めてるかも。将来については考えないようにしてる」
 静かに言う。考えるだけ虚しくなってきた。
「うちはさ、なりたいものがあったんだ。もう少しだけ諦めてるけどね」
 ルイが話し始める。幼いころから英才教育を受けてきたこと。中学の時に勉強で挫折してから学校に行かなくなったこと。それでも諦めずに学校に誘ってくれた先生に憧れていたこと。
「親が心配してくれてるのは、分かってんだけどね。今更、もう勉強の仕方も思い出せない」
 ルイは悲しそうに首を振った。
「勉強も出来ないし、学校にも行ってないのに先生になりたいだなんてバカみたいじゃんね」
「そんなことないと思うけど。何歳からでも人生やり直せるし」
 泣きそうな声のルイに藍々は慌てて言った。泣いているルイを前に藍々はどうするべきか分からずに、困っていた。藍々は普段から人に慰められることこそ多かったが、慰めた経験はほとんどなかった。慰め方が分からない自分が悔しい。藍々は生まれて初めてそう思った。誰かを慰めたいと思ったのもまた初めてだった。
「そうなのかな? うちもまだ頑張れるかな?」
 辛そうに聞くルイに藍々は言った。
「頑張ってほしいけど、もし辛かったらいつでもここに来ていいんだよ。死んじゃったら全部終わりだからね」
 藍々はこの広場から消えた、多くの子たちを思い出そうと思ったが、誰一人浮かばなかった。ルイの悩みは将来を諦めた藍々からしてみれば、共感できないものだったが、正解のない問いに悩み続ける辛さはよく理解できた。それから、仄かに明るくなってきた空と増えてきた通行人を見て、藍々とルイは帰路についた。駅から歩いてくる人並みに逆らうように歩き続ける。会話はなかった。お互いが自分の人生について考えていたからかもしれない。

 数週間後、藍々はいつもの広場へ来ていた。久々に見る広場の光景は前回訪れた時と全く変わらなく、混沌としている。しばらく、自宅の狭い部屋の中で腐っていた藍々には街灯の明かりは眩しすぎた。広場の隅にはルナを含む、いつもの顔ぶれが地面に座りたむろっていた。中には見たことのない顔もいる。
「久しぶり」
 藍々はそう声をかけて隣に座った。ルナは藍々を見るや否や、抱き着いてくる。
「めっちゃ久しぶりなんだけど! まじで死んだかと思った。すごく心配したよー」
「ごめん、ちょっとしんどくて」
 そう言いながら藍々は広場を見回す。見たかった顔は広場のどこにもなかった。
「そういえばさ、」
 ルナの隣に座っている少女が藍々に気づいて言う。
「あなた、ルイって子と仲良くなかった?」
 思いがけず出てきたよく知る名前に藍々は頷いた。
「うん。たまにここで会ってたよ」
「私この前、ここでルイにあったんだけどさ、ルイ来年から高校行くらしいよ」
 少女が笑顔で言った。その言葉を聞いて、良かったと思う気持ちともうルイには会えないのかもしれないという虚しさが同時に訪れた。素直に喜べない自分が少し嫌だった。
「ふーん、そうなんだ」
 興味のないふりをした。喜べる心境ではなく、悲しむのもまた変だと思ったからだ。ルイが来なくなってもこの場所は変わらない。藍々の人生も変わるわけではない。いつもと同じ空の色だ。明日の朝にはまた、変わらない藍色が映るだろう。それでも藍々の心は今まで見たどの空よりも暗く曇っていた。夜はまだ明けない。


- 評言 -

ノクターン:夜想曲のことで、語源はラテン語の「夜に属する」という意味からきている

サークル・オベリニカ|読後にスキを。

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