親の遺品整理は親という人を知る貴重な最後の機会
知っているようで知らない「家族」という存在。遺品整理を通じて知った、家族が知らない父の横顔。親もひとりの人間。遺品整理はその生き方を知ることができる最後の機会だと思いました。
先日noteに書きましたが、父が急逝しました。
高齢の親が亡くなると子供にはやらなければならないことが沢山あります。仕事や子育てに忙しくて手続きや部屋の整理を業者に頼むこともあると思いますが、それは貴重な機会を逸してしまうような気がします。
反発した親であったとしても、ひとりの人間として親を客観視し、その人がどう生きたのかを最後に知ることができるのが遺品整理だと思いました。
私は父と性格が対照的で合わず、思春期には随分ぶつかったりしました。
社会人になってからは対等にやりとりできる関係で、家族でよく飲み食い、旅行したりしていましたが、奔放過ぎて自由過ぎる父には正直、生前は呆れることも多かったです。
でも今は父の隠れた側面を知り、「ああ、こういう人だったんだ」という気持ちと、楽しい思い出しか残っていません。
葬儀や行政や金融機関やら膨大な手続きなどのために、高齢の母に代わって仕事の合間に父の部屋を整理していると、父が何を重んじて生きていたのかがいろんなところに足跡のように残っていました。
とうの昔に忘れていた子供の時に不思議だったこと、納得できなかったこと、それらの父の行動も、その時々の経済情勢、社会環境と我が家の事情などを照合すると、その時々の父の心境や言動がわかるような気がしました。
思っていた以上に繊細で、人が好きで、楽しいことが好きで、自由奔放なようで、実は父は父なりに結構周りに気を遣っていたんだなということもわかりました。
思春期には、家族を顧みず、自分中心に生きる父に随分意見したりもしましたが、それは無駄なこと、余計なお世話だったことが今はよくわかります。
自分に正直に自由に生きた父は、自分に優しく、というより自分に甘く(笑)、干渉されることも好まなかったけれど、その分、他者に対しても寛大で優しかった。どんなときも機嫌よく、人と楽しく宴会することを好んだ人でした。
仕事をしている父、会社の人や地域の人との父のやり取り、全く知らなかった父の横顔が書類や写真の整理を通じて見えてきました。
正直、亡くなった後は遺族は悲しんでいる暇がありません。やることいっぱい、手続きいっぱい。何も言わずに急逝した父の部屋では書類を探すのも一苦労でしたが、遺影の写真を選ぶ、行政や金融機関諸々の書類を探す、そのひとつひとつ、いろんなところに父の足跡が感じられました。
本人ですら自覚していないであろう、無意識にとっていた行動の中に、故人の価値観、大事にしていたものが垣間見える気がしました。
親の遺品整理は親という人を知ることができる最後の機会だと思います。
仕事や育児で忙殺されるなか、外注に出すのもやむを得ないかもしれませんが、可能な範囲でよいからやってみると、親の生き方がわかり、自分の生き方も考えることができる、貴重な機会になると思います。
歩く好奇心。ビジネス、起業、キャリアのコンサルタントが綴る雑感と臍曲がり視点の異論。