クライアント

 時刻は午後七時を回ったところ。敦はいつもの何倍もかっちりしたスーツに身を包み、慣れない場所に座っていた。
 指定された場所は、自分では当然入れないような高級なレストラン。入口に書かれていた店名も何と読むのかわからず、とりあえず入ってきたのだ。
 敦の座っている席からは大きなガラス張りの窓が見えたが、そこからは東京の夜景というものが一望できた。
 待ち人が来ない以上、何もすることができず、時たま水の入ったグラスを震える手で持ち、口元に運ぶことしかできなかった。ちなみに当然ながら、この水もそれなりの値段がするのだが。

 どれくらいの時間が経っただろう。時間にしてみればせいぜい5分10分なのだろうが、敦には何時間にも感じられた。
「ごめんね、待たせたわね。」
 待ち人来る。果穂がやっと来たのだった。
「ああ、全然。」
 敦は緊張してない風を装った。
「どうしたの、緊張してる?」
 しかし、すぐに見抜かれる。
「いや……」
「まあいいけど。いや、本当ごめんね。クライアントがなかなか帰ってくれなくて。」
「ああ、大丈夫だよ。」
「ありがとう。まあ、とりあえず食べよ。」
「うん。」

 少しずつ緊張が解け始めたところで、果穂が切り出す。
「んんっ。」
 果穂が少し咳払いをする。
「ちょっといいかな。」
「ああ、うん。」
 敦も姿勢を正す。
「今日敦を呼んだのは、少し話したいことがあって。」
「うん。」
「私この度、結婚することになりました。」
「おお、マジ?」
「マジ。」
「おめでとう。」
「ありがとう。」
「姉ちゃんも結婚かあ。」
「まあね。」
「え、同業の人?」
「まさか!弁護士同士で結婚してみなさい、すぐ別れちゃうんだから。」
「いやそれは分かんないけど。」
「私の周りなんてそんなのばっかなんだから。」
「ああ、そうなの?」
 敦は苦笑いを浮かべた。
「で、相手の人は何をしてるの?」
「お医者さん。」
「おお、それはすごい。弁護士と医者の夫婦か。」
「まあそうね。あ、そう。だから名字も、三上から真田になるの。」
「ああ、そうなんだ。」
「真田果穂です。」
「ああ、そう。」
「何よ、その反応。」
「いや……でも本当おめでとう。」
「ありがとう。」
「てか、それなら何もこんなところでしなくても。」
「たまにはいいじゃない。どうせ普段はろくなもの食べてないんでしょ。」
 そう言われると敦はぐうの音も出なかった。
「弟が芸人やってます、って言ったら興味持ってくれて、だから敦も今度会ってね。」
「ああ、分かった。」
「いい人だから安心して。」
「別に悪い人だと思っちゃいないよ。」
「まあ、そういうことだから。今日は一杯食べて。」
「うん、ありがとう。」
 姉の結婚。もうそんな年齢である。思えば、友人の中にも結婚する者が増えてきた。
 おめでたい限りであるが、果たして自分はどうなるのだろう。少しばかりそんなことを考えさせられるのであった。

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