トラック

「なんか今日は嬉しそうだね。」
「そりゃあそうよ。前回の授業で跳び箱が終わったんだから。」
 勇樹は声高らかに言った。
「本当、最高だよね。」
 英一も満面の笑みで同意した。
「でもそう言えば、今日から何やるか言ってなかったよね。」
「そうだなあ。でもまあ、跳び箱より嫌なことなんてなんもないから安心しろって。」
「いや、安心というか、僕はそもそも不安になってないんだけど。」
 陽介は手を横に振りながら言った。
「外集合って言ってたし、球技とかじゃないかな?」
 英一が答える。
「おお、それなら安心だな。」
「久しぶりにワクワクする体育だね。」
陽介は興奮している二人を尻目に、毎回凹まれるよりはいいかと思うのだった。
しかし、二人の笑顔がこの直後にまた絶望の表情に変わるとは、このとき誰が予想できただろう。

「前回までは体育館で跳び箱をやってきたわけだが、今日からはまた別のことをする。」
そう生徒たちに向かって大きな声で説明していたのは、この学校で体育教師を務めている西条 晋平(さいじょう しんぺい)だった。
バスケ部の顧問を務める彼は、バスケ部員からは怖がられていたが、授業中は優しいため生徒からは割と慕われている方だった。
「えー、この学校では冬にマラソン大会が開かれるわけだが……」
この時点で生徒たちの表情が曇り出す。
「いきなりマラソン大会というのもなかなか大変だろう。」
「おい、嘘だろ……」
絶望の声を上げる勇樹。
「まあ普段から運動部で練習している生徒は大丈夫だろうが、そうじゃない生徒からすればなかなか酷なものだ。」
「酷って、今からさらに酷な宣言をしようとしてるのに?」
 クラスの誰かがそう呟いた。
その言葉でさらに、勇樹も英一も、それに他の生徒も顔面蒼白となっていく。
「だから今日から定期的に、体育の時間にランニングを行う。」
「「「えー!」」」
声を上げて落胆する生徒、ただただ俯く生徒。
運動部で普段運動している生徒からしたって、せっかくの体育の時間がただ走るだけではなんとも言えない。
「よし、じゃあ今日はまだ初回だから、まずはこの300mのトラック、これを5周して、そのタイムを測ろう。」
「5周も?1.5キロだぞ?1キロ以上あるんだぞ?」
 勇樹が大きな声でそう言うと、周りにいた生徒たちまで絶望の表情を浮かべた。
「まあまあ落ち着け。みんなの気持ちも分からなくはないが、健康な体を作るのは大事なことなんだぞ。」
 西条のそんな言葉は既に誰の耳にも届いていなかった。
「とりあえず、みんな軽く一周しよう。それで、そのあとで計ろう。」
 皆足取りが重く、動こうとしない。
「バスケ部、扇動できるか?」
「「「はい!」」」
 顧問からのお達しである。バスケ部は声を揃えて返事した。
「行くぞー。」
 バスケ部の誰かの声掛けで、皆いやいや後ろに続いて走り始めた。
「はあ、最悪だよ。」
「まあまあ、仕方ないって。」
 愚痴をこぼす勇樹をなだめる陽介。
「陽介は嫌じゃないのか?」
「うーん、意外と好きだよ。始めは嫌でも、走ってるうちに楽しくなるんだよね。」
「陽介、は、すごい、なあ。」
 英一は既にゼイゼイしていた。
「英一、俺たちのペースで行こう。」
「うん。」
「じゃあ、僕先行くよ?」
「おお、生きてまた会おう。」
「大袈裟だなあ。」
 陽介は笑いながらそう言うと、どんどんと前へ走っていくのだった。

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