ラケット

「最愛の亜寿美さんへ。
 
 今日十一月十一日は亜寿美さんの誕生日であり、同時に僕たちの結婚記念日でもあります。早いもので今年で結婚二十五年目、世間では銀婚式なんて呼び方をします。
 どれだけの時間が経とうと、僕は亜寿美さんを愛しています。これだけは胸を張って言えます。
 亜寿美さんと出会ったあの日のことを、僕は今でも忘れません。亜寿美さんからしたら何度も聞かされた話かもしれないけど、何度でも話させてください。
 
 物心ついたころから野球少年だった僕は、小学生の頃から地域の野球クラブに入り、中学生になってからももちろん野球部に入りました。
 でも好きな気持ちだけではどうにもならないこともあります。練習しても練習してもレギュラーになれなかった僕は野球をやめる決意をしました。
 高校では全く別のことに挑戦しようと思いましたが、別にやりたいことが見つかるわけでもなく、ただただ友達と遊んだりして毎日を過ごしていました。でもあの日、僕は亜寿美さんと出会い、人生が変わりました。
 
 夏休み直前、テスト最終日。友達みんなが部活に行ってしまって暇を持て余していた僕は何の気なしに野球部を見に行くことにしました。今思えばまだ未練があったんだと思います。
 その日はグラウンドでの練習だと聞いていたので、僕は向かうことにしました。
外を歩いていると久しぶりの部活動ということもあってかみんなの張り切る声が聞こえてきました。みんな青春してるな、そう憂いている僕の耳にひと際元気な声が聞こえてきました。
思わずその声のする方に目をやると、そこには真剣な表情でテニスラケットを振る女の子の姿が。一目ぼれでした。
 
その日のうちにテニス部に仮入部した僕は練習に励みました。野球の才能こそなかったけど、運動神経には自信があった僕はそこそこ上達していきました。でも男女が別々だったこともあり、その女の子とは話すことすらできませんでした。
 
夏休みが終わって二学期が始まった頃、外れくじを引いた僕はテニスコートの掃除をすることになりました。とっとと終わらせよう、そう思っていたところに誰かが近づいてきました。
『私、手伝うよ。』
 そう声をかけてくれたのはまごうことなくあの女の子でした。
『あ、ありがと。』
 ちゃんと感謝の言葉を述べられていたかも今となっては思い出せません。何か話さなくては、そう思ったのに僕は自己紹介をしていました。
『俺、松野勇作。君は?』
『私は白崎亜寿美。よろしくね。』
 亜寿美さんはほとんど話したことのない僕にも優しくて、いつもはとても退屈なコート清掃がとても楽しく、気づけば終わってしまいました。
『やっと終わったね。早く片付けて帰ろ。』
 亜寿美さんはにっこりしながらそう言いました。
『うん、そうだね。』
 清掃用具を片しながら、これで終わって本当にいいのか自問自答し続けました。
 いやダメだ、ここでいかねば男が廃る!、そう思った僕は一世一代の大勝負に出ることにしました。
『白崎さん、ちょっといいかな。』
『うん、どうしたの?』
『実は俺、白崎さんに一目ぼれしてテニス部に入りました。でも話しかけることもできなくて。もしよかったらお友達になってくれませんか!』
 僕は右手を差し伸べながら頭を下げました。しかし、いくら待てども返事はありません。
 失敗したか、そう思って顔を上げると亜寿美さんは両ほほを夕陽くらい紅潮させて立ち尽くしていました。
『白崎さん?』
『その、突然のことだから何にも言えなくなっちゃって。』
『あ、そ、そうだよね。』
『その、松野くんの気持ちは嬉しい。でもまだ松野くんのことほとんど知らないから……』
『だよね。』
 僕はあきらめて帰る支度をはじめようとしていました。
『だから、この後マックでも行かない?』
 この時ほど喜んだことは数えるほどしかありません。亜寿美さんと結婚した時と、俊作と勇樹が生まれた時くらいです。
 
 付き合い始めてすぐに十一月十一日がやってきました。お金も知恵もなかった僕は、亜寿美さんのテニスラケットによく似たストラップを渡しました。今にしてみればなんて稚拙な誕生日プレゼント何だろうと思いますが、あの時は最良の選択だと思ってました。
 亜寿美さんはそんなプレゼントにもかかわらず、とても喜んでくれて、ああこの人を一生大事にしよう、と思ったのを今でも覚えてます。
 
 ここまでいろいろと書いたけど、あの日の気持ちは今も全く変わりません。あなたに出会えて本当に良かった。
 
 勇作より』
 
「亜寿美さん、お誕生日おめでとう。そして結婚二十五周年、これは二人におめでとう。」
「勇作さんたら。」
「これ、もらってください。」
 僕は手紙と一緒に、純銀製のテニスラケット型の指輪を渡した。

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