セッションの狂気

映画、セッションを観ました。
まだ熱が体に残っていますね。。。
ぶつ切りでエンディングのせいで、その慣性系から体がまだ抜け出せていない感じがします。


これも教授とのzoomで話に上がり、観るきっかけになりました。もともと上映当時から気にはなっていたので、ワクワクはありましたね。

内容ですが、鬼気迫るとはまさにこのことですね。こういうのが狂気と呼ぶにふさわしいでしょう。しかし、彼らから見れば、音楽をしていない私たちの側こそ狂気なのかもしれないですね。

JKシモンズとマイケル・テラー、二人の頭おかしい奴が、至高の音楽を創り上げるために全てを捧げます。

数時間前に壺コピペの記事を書きましたが、彼らの壺にはジャズという岩しか入っていないのかもしれません。

学生としてみれば、これほどの悲劇もないでしょう。
退学になり、恋人も失い、将来も危うく、家族との中もあまり良好ではない。そんな状況に追いやったのはあの憎き教授。あいつのせいで、と。これは悲劇と観て取れるでしょう。

しかし、その渦中にいる当人はどうでしょうか。

彼には、音楽をやる理由しかなかったのでしょう。そのために全てを捧げる判断を下せること自体、他の人間からみれば狂っています。彼にとっては、それは当たり前でしかなかったのですね。

全てはジャズのために。それ以外は何もいらない。



自分に振り返ってみてみると、私にもかつてこのような鬼教官的な人から指導を受けていた時はありました。人権もクソもありません。当時の私には耐えられませんでしたが、耐えてる友人たちに対して羨ましい気持ちを抱いたことを覚えています。
私には”音楽をやる理由”がなかったですね。脚本の中で言えば、タナー的ポジです。あいつは医大に行った、挫折しやがったと。それでもいいじゃないかと思いますし、誰かが他人の人生に介入したとして、その責任を取れるのか、と理性的な問い詰めも考えることができます。しかし、セッションのような場合では、そんなのは二の次になってしまうのですね。

もう一度、セッションの世界に戻れと言われたら、私は嫌だなと思ってしまいますね。だってあまり良い思い出がないですもの。理由もなく、そこに立つのは流血しか生まないでしょう。今後の就活次第では血の雨が降る可能性の0ではないのが怖いところです。

ただ、観ていて思うのは、こいつら性格悪いなーってことと、命をもっと大事にしろよってことと、こいつらはそういう人なんだなってことです。

普通に仕返しとか、氏ねよとか、クソ野郎とかが飛び交います。その人間的な発想力があること自体、なんかちょっと気持ち悪いと感じてしまします。人間だろお前ってなります。人間のくせに、そんなの追い求めてんじゃねぇよってなります。だったら、その人間性も捨てろよって思うんです。言葉を発するなと、思ったりもしてしまいますね。

あとは、別に頭が良いとかそういうわけではないということです。目標とか、結果を残すためにどうするべきかとか、そんなのは一切なしで、美学とセンスだけで戦っているような感じがします。そこはいただけないですよね。まぁ、どっちが狂っているのかはわかりませんけど。ただそれで死ぬのは、どうなんでしょうか。理性とか合理性とか、彼らには存在しないのでしょうか。感情と、動物的本能と、それだけでやりあって、血を流して、血を血で洗って、ただただリズムを刻む。大義も名誉もあるわけではない。己の信念のために。

そういう生き方をする人間もいますよね。

でも、指導者がそうだと、今ならパワハラ と言われるのは避けられないでしょう。それを、そう思わないやつに強制したところで、血が流れるだけです。中にはショーンのように自殺まで行くんですから、流血を生まないためにもパワハラ って言葉はできたんでしょうね。

理解なき指導者というか、決めつけでくるやつ、こうすりゃうまく行くよ、ハイハイ、そういう人ならこうしておけばいいよってメッセージが言外にこもっているやつ。なんだか、少年時代に出会ったそういう大人たちを思い起こせるようで思い起こせない感じがあります。
向き合おうとしない、というのか。わからないという現実に対して、わからない、と思えないというのか。それに気づけない、というか、、、
あぁそうだ、J.S.ミルの「自由論」がアンチテーゼとしていたパターナリズム的な態度をとる大人って感じかな。そういう人は、本当に好きじゃなかった。鬼教官も、美学とかはわかるけど、強い個人として力を振りかざすのは、まじで、吐き気がするほどマザーファッカーってことで。

まぁ思うのは、憎しみをエンジンにしても限界があるよってことですね。これは身の上話でもあります。
コロしてやるよって純粋な思いは、時にすごいエネルギーになります。なりましたね。絶対コロしてやるって思い。主人公は、そういった憎しみを主にエンジンにしてかっ飛ばしていた感があります。血が流れても、血が流れても、止まらずに走りました。それで結果、上手い感じにはなりませんでした。人生の難しいところですよね。全てを捧げてもうまくはいきませんよ、と。神様がいるのなら、こういう人に対して何を思うのでしょうね。戒律も、善き行いもクソもないです。
でも、そういうエネルギーは前に進むにはめっぽういいエンジンになると思いました。でも、諸刃の剣なので、自分を大事にしたい時はあまりオススメしないよなぁって感じです。
なんだか、憎しみに身を焦がしている主人公を見て、憎しみに身を焦がしていた自分がフラッシュバックしました。



映画冒頭の、普通の少年から、どんどん目がイッちゃいはじめていく様は引きつけらましたね。序盤の日常からそういう人間に変わっていくまで、どうやってこの日常が壊れるんだろうと、怖かったですね。まだこの段階では自分の過去と結びつけられたりもするので、うまくいってる風だけど、絶対うまくいかないよなぁ。うまくいかない時、こいつはどんな判断をするんだろうなぁって思ってみていました。結果、クソほど練習し始めるので、あぁ、俺とは違うパターンの人なのね、ってなりましたけど。

主人公の教授をみる、鬼気迫る目。あの憎しみの目には、いつかの自分が抱いていた、社会や大人に対する憎しみと同じようなものを感じました。お前のせいで、と。でも、今は結構マイルドになったというか、許している部分もあるんで、今からあの目をするようになるにはだいぶ大変な目に合わないとなれないでしょうね。

そもそもですが、この映画を進めた教授は、論文を書くモードにはいいんじゃないのと進めてくれたのでした。

何か、モノづくりをするときの作り込みは、時として狂気にしかならないと。それは確かにそうだと思います。そして、そうだと思いました。ゼミや、映画を通して。


自分にはこれから人生を台無しにするほどの狂気はないと思います。

けれど、研究に対しては、違うかもしれません。でも、憎しみは少ししか宿っていないかもしれませんが
”熱”は持っていたいと思うのです。これは間違いない。
そういう意味では、先のことなど考えない彼らと同等の存在なのかもしれません。


この映画を観たことで、良い研究ができるようになれていたらいいですね。



レイジ、レイジ、レイジ、、、。


とは言っても、先のこと考えないと人生詰むので、考える理性は残して生きていきましょうね笑
壺の思考は活性化させていきましょう。。。
もう、自分だけの人生ではないのです。それがわからない歳ではなくなりました。

ただ、理性だけでは語れないのが人間なので、その点を呼び起こしてくれるのは良かったと思いました。

サンキューセッション

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