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もやもや

 noteが、心の整理の場になっている。
 書く場は、リビングが多い。ちょっと前まで、書斎兼夫のリモートワーク部屋だった。
 夫が復職準備に入り、今日ついに復職したので、子らを見ていなければならず、You Tubeのゲーム実況や、「うんちー」「だっこー」「ぎゅうにゅうー」という要求や、ドスン!バタン!という音にまみれて、引っ張っていかれるという中断もありながら、それにも負けじと書いている。

 連れ合いの主治医は、復職に際し、「クソの役にも立とうとするなよ」と言われたそうだが、私もそうしようと思っている。
 人の気持ちに鈍感で距離感がない子の対応、そして幼児の二人を抱えているということは、絶え間ないケアが必要なわけで、彼らを受け止めるだけで心が死にかけてしまう。
 心を病んでいたとはいえ、連れ合いが休職して居てくれて本当に助かった。「子らのケア時間が減る」ということ、「一緒にケアを考えてくれる人がいる」ということその二つが、子のケアをメインに担っている人には絶対に必要だと分かった。
 連れの休職がなければ、次に倒れるのは私だった。連れの休職は、全員共倒れを食い止めてくれた。

 そして今、私は再び一人でケアを担う立場に戻ってしまった。
 そして、早速”もやもや”している。

 そろそろ、子らの夜のケア(風呂、晩飯、勉強、医療、寝かしつけ五時間コース)に入らなければならないが、もう、夕飯の支度などしている場合ではない。もう冷凍食品でも温めようと思っている。作ったところで食べてもらえるとは限らないものに時間を割くより、心の整理をしなければ。

 今一番のもやもやは、親の私が子らの教育環境に安心していないことだと思う。
「子の個性を認め、伸ばしてあげたい」は、親の共通理念だと思っていた。でも、いざ学校に入ってみると、親同士理解し合えない場面があることを知る。
 それについては、以下に書いた。

 以前暮らしていたところでは、共通理念を持って親同士のコミュニケーションが取れていたので、居心地が良かった。子育てを通し、親友といえる人たちと出会えた。
 引っ越しを経て、今は孤立してしまった。そういう中で上の記事の出来事があったので、今は学校の保護者と関わるのが怖くて仕方ない。
 そして、そればかり気になり、目立ちたくないので、周りがやっていることはやらなければという気持ちになり、自分も経験して嫌で仕方なかった「横並び」にいかに合わせるかばかり気になっている。

 今朝、子が、クラスのあまり勉強が好きでない子の話をしていた。その子の親御さんとはちょっと話したことがあるし、子同士遊んだこともある。わんぱくな子だった。元気に走り回って、気になることはなんでもやってみて、そして大人には怒られるという子だと、ちょっと見たところだが推察した。
 その子は、書いたり、計算したり、そういうちょっと面倒なことをやらないので、クラスの子に「大人になって困る」と注意されているそうだ。
 伊達におばさんになっていないので、私はかつてそうだった同級生たちが、かえって自由に自分の道を切り開いていることを知っているし、恩師が「そういう子たちほど立派になっている」と言っていたこともよく覚えている。子らに、そう言ってやりたかった。
 子も、そしてクラスの子も、その子のちょっと苦手なところにばかり目がいっているらしいことが、子の話しぶりから分かり、ちょっと考えてしまった。

 集団生活で学ぶことも沢山あるのは知っている。人との違いを感じてみないことには、他人の立場など分かりようもない。でも、保護者からして、同じように、同じように、と育ててしまっているのだから、子どもが他人の立場を理解するようになれるんだろうか?

 子の教育環境を、明らかに整えられていない自分がいる。

 私がやるべきなのは、
冷静になる。(別の保護者からの指摘に必要以上に怯えない)
子の気持ちを尊重する。(話しやすい雰囲気を作りと傾聴)
子の成長を見守る。(説明できない気持ちのラベリングを助ける)
子が居心地悪く感じ始めたら、環境を変えることを検討する。
 と、書き出してみればそんなものなのだが、集団に馴染みにくい個性のお子さんを育てている方は、きっと分かってくれると思う。
 育児書などに書いてあることは、方法ではない。親の心構えであり、その上で、では実際に何をするか、その手段を決めるという細かくて気の遠くなるような作業は、すべて親に委ねられているのだ。

 私の場合、たとえば、昨日まで連れ合いが行ってくれた登下校の見守りを、私がこれからも続けるか決めなければならない。
 今日、私が行ったら、子は「来てほしくなかった」と不満を言い、下の子に八つ当たりした。私は、下の子をいじめてしまった気持ちのラベリングを助け、気持ちを受け止め、それを否定しない形で見守るのか、それとも見守りをやめるのか決めなければならない。

 しかし、ここで問題になるのは、そんなことができるほど、親が心身ともに健康かということだ。
 私は、今、安心できない環境で、不安に怯えている。自分の気持ちを整理できない者が、子の気持ちのラベリングを助けられるはずもなく、こうしてすべてを放棄してnoteを書いている。

 そうすると、今度は、私自身の気持ちを整理して、その対処を考えて……ということになる。

 恨み言になるが、子のケアに忙殺されながら……

 気が遠くなる。

 今、考えているのは、引っ越しという現実的ではない逃避行動だ。安心できた場所に帰りたい。

 逃避はこれくらいにしたい。子のために、現実を直視している人たちがいる。

 

 ちょっと開いただけでも、こうした記事に出合えるのがnoteの良いところだと思う。

 心を整理して、現実的な行動を考えていきたいと思う。

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