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事件

ちょっと経緯を書いてみる。
小学生になった上の子は、昔っから癇癪もちだった。気に入らないことがあると、手が出る、足が出る、八つ当たりする。
そんな子なので、小学生になって一人で登下校するようになって、ご近所でやらかしてきた。
そんなこともあろうかと、私は近所のママと個人的に話す機会を作ってきた。親同士の人柄がわかり、子どもの個性を説明できれば大丈夫だろうと思っていた。
が、ある日、久々に近況を伺う連絡をしてみたら、我が子の素行、そして親の私自身が子どもと対話できていないという内容の長文が返ってきた。
うすうす避けられていると思っていたものの、そこまで気持ちをこじらせていると思わなかったので、子の素行については謝り、登下校の見守りを再開することを伝えた。

今は気持ちが落ち着いているものの、それはそれは驚いて、悲しくて、孤立を味わった。”子育て”というケアを担っているからといって、保護者が皆同じことを重視しているとは限らない。それを思い知った。

たとえば、子どもの見守りにおいて、私はあまり口出ししないでいようと思ってきた。
以前、公園で小学校中学年から高学年くらいの子どもたちが遊んでいた時のこと、彼らは遊んだ後の水風船を片付けなかった。我が子が一時一緒に遊んでいたので、私は子にだけ「ごみは拾おう」と話し、実際拾って帰った。行動で示そうと思った。見られていなかったらそれまでで良くて。でも、きっと彼らは分かっていたと思う。というのも、そのうちの一人が「片付けないと」と他の子に言っていたから。彼らは馬鹿じゃない。ごみを拾わないといけないことくらい、知らない人にわざわざ注意されなくても知っている。そして今は悪びれたり、仲間と過ごすことに夢中になってごみを拾わなくても、いつかはそうするようになる。
これが私の見守りスタンス。
私に長文の抗議をしてきた人は、私とスタンスが違うのだ。ちょっと恨みをこめていえば、自分の子が守れればそれで良いのだと思う。

公平に、は無理にしても、ちょっと彼の人の弁護を試みる。
我が子はたしかにちょいちょいお宅のお子さんをいじめてました。それは不快だったろう。
しかし私の弁護人は言う。私は我が子にものの善悪を教え、自分の感情を制御する必要を教えてきました。ただそれは我が子に分かりやすい効果的な方法でなかったかもしれない。それは考慮されても良いでしょう。

この出来事を話したら、友に言われた。
―この世には二種類の親がいる。菓子折りを送り続ける親と、受け取り続ける親や
ほんに。
”我が子を守りたい”
子育てにおいて、唯一共有できる思いがあるとしたら、これだと思う。結果、やる側とやられる側は、分かり合えないのかもしれない。

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