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書くしかない人にとって、「書くこと」は箱庭療法的な営みだった。

ある批評家が「自分にとって文筆は箱庭療法のようなものだと気づいた」と言っていた。自分にとっても書くことは癒しの側面があると思った。

このテキスト編集画面をひらいているということは、なにかに傷ついていて、きっと助けを求めているのだと思う。しかし、誰かが癒してくれるわけでもないので自ら慰めるしかない。そうすると、自分の内面を文字として外部へ出力し、切り離し、視認できるものへと変換することで自分を客体化させようとするのである。

自分だけが抱えていた痛みやツラさや寂しさなどは自分だけのものであると特別視すれば誰にも理解されないと思って孤独に苛まれるが、自分から切り離してしまえば、他のものと比較することが可能となり、誰かと共有することができる。

こういう行為は手紙を空き瓶に詰めて海に流すようなもので、宛先は決まっていない。書いている瞬間は誰に読まれるかよりも、書くことによっていかに自分から離れることができるかが重要なのだ。

近い距離にある脅威から離れて、書くことによって秩序を生み出し、その世界に自分を住まわせる。書いている瞬間は誰かを傷つけることもないし、誰かになにか横槍をさされることもない。この居心地のよさを切望しているとき、名前を与えられることもない程度の病を患っていると自覚する。

そうして書かれた文字の羅列が他者の目に留まることもあり、想像に及ばなかった感想をもらうこともある。最近は僕の一連のnoteを読んだと思しき方から「誰かに宛てた手紙を書かないか?」と提案を受けた。けれど、自分にとってたいていの書くということは上記した箱庭療法的な効用を望むものであって、誰かになにか伝えようとか、ひいては作用させようなんて思いは微塵もない。そもそも、見知らぬ誰かに頼まれて本来プライベートな手紙をパブリックに書くという営みに意味を見いだせなかった。

こうやってテキスト編集画面を文字で埋めているうち、たとえそれが駄文であったとしても、身体に走っていた鈍い痛みが解されたような錯覚に陥り、本来の感覚がもっていた輪郭を見事にぼやかし、捻じ曲げ、蒸発し、忘れ、もう二度と思い出せないように自分だけの言葉を失うのである。

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