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#7 「大手会社員」が30代後半で“独立”した理由

インターネットは始まって間もない頃から続くオンラインショップの会社・NUTSは、どうやって存続してきたのか。また、その創業社長は、どんな考えでどんな働き方をしてきたのか——。

20代の編集担当が抱いた疑問から始まった本連載。これまで90年代から時代の流れにそって、NUTSという会社の軌跡を執筆してきました。ここからは少し視点を変えて、その経営者として働くヌマオさんの考え方を中心に取り上げてみたいと思います。

長い会社員時代を経て起業したベテラン社会人は、その人生でどんなものに影響を受けてきたのでしょうか。今回は、ヌマオさんが影響されたという書籍や人物について話を伺い、私の考えを書き残していきます。

Fossilの創業者のお話も出てくるのですが、多分これ、少なくとも日本では知っている人はほとんど居ないんじゃないかと思います。面白いのでぜひ最後まで読んでみてください。

独立を考えていた会社員の「背中を押した人物」

私はヌマオさんと仕事でご一緒させていただくようになり数年経つのですが、印象的なのが本からのインプットを大切にされていること。だから、ヌマオさんの人生の中で最も影響を受けた本ついて訊いてみました。

「リチャード・ブランソン*って知ってる?イギリスのヴァージンアトランティックっていう航空会社や、レコード会社のヴァージンレコードなどを経営してる、ヴァージングループの創業者。

その彼の伝記が書かれた『ヴァージン〜僕は世界を変えていく』(TBSブリタニカ 刊)という本には1番影響を受けたかな。SEIKOの会社を辞めたいと考えているときも、その本が決断材料の一つになった。

ブランソンは18歳のころ、学生について取り上げる雑誌『スチューデント』を発刊して、若くしてビジネスを始めた。ヒッピーのような生活を送り、音楽も好きだったから“ヴァージンレコード”という小さなレコード会社を設立したの。それが次第に大きくなり、次は航空会社を始めた。

イギリスにはブリティッシュエアという、世界でも有数の大きな航空会社があるじゃない。で、リチャードはそれに対抗するように会社を立ち上げたんだけど、それがユニークで。

例えば、機内にバーカウンターを作った。今はファーストクラスとかで、当たり前のようにあるけど、80年代の当時はまだ誰もやってなかったの。

彼の名言はいくつもあるんだけど、例えばこんなことを言っている。

『私は仕事を仕事だと思わないし、遊びを遊びだとも思わない。それは生きるということなんだ』
ーーI don’t think of work as work and play as play. It’s all living

つまり“挑戦しないことは、生きていないことに値する” と常に言ってるの。

挑戦を楽しんでやってみよう。失敗なんか絶対にする。でも別にそんなこといいじゃないかって。

僕には彼のそれらの言葉が1番しっくりきた。こうやったら儲かる、とか、もっとお金儲けしてやろうというのではなくて、“こうしたら面白いんじゃないか”という考え方。

リチャード・ブランソンのことは会社員時代から好きで、この本をきっかけにもっと好きになったんだよね。

誰でも大なり小なり、何がしかの選択を前に生きています。今までとは違う道を選んでみようというとき、不安や恐怖はつきもの。

だから、自分にとって支えになる誰かの言葉を、心のお守りとして持っておくといいと思うんです。ヌマオさんにとってリチャードの言葉や生き方は、悩んだときの心の拠り所でもあったのではないでしょうか。

個人的には、それを物質として持つことが大切だと思います。どういうことかというと、そんな影響された言葉を紙に書き残しておくこと、あるいは本があれば紙の本で持っておくということです。

何かで迷ったときに、受け身の多いデジタルの世界から離れて紙という手触りのあるものに言葉を拾いに行くって、けっこう意味のあることだと思うんですよね。

* サー・リチャード・チャールズ・ニコラス・ブランソン
1950年生。イギリスの実業家。ヴァージングループの創設者で会長を務める。近年宇宙事業にも力を入れており、2021年7月には宇宙旅行を成功させた。

Fossilの創業者・トムと仕事をして

ヌマオさんには、影響を受けた人物がもう1人いるそう。

アメリカの時計メーカーに“Fossil(フォッシル)”ってあるじゃない。その創設者にトム・カーツォティスという人物がいるんだけど。実は僕のSEIKO時代の最後は、セイコータイムテックというOEMをやる会社に所属していて、その取引先の一つがフォッシルだったの。

その頃(90年代後期)フォッシルは自社ではなく、OEMで時計作りをしていました。まだ今みたいに大きくはなく、従業員も3、40人くらいだったかな…。ちょうど僕はフォッシルの担当で、アメリカのダラスに本社があるから、ダラスまで商談しに行ったりしてた。

トムは1958年生まれで、僕と同い年だった。ものすごい身長の高い男性で、2mくらいあったのね。

僕が商談でアメリカに滞在していたある時、ディナーの後にボーリングに行こうという話になりました。アメリカ人ってほら、ボーリングが好きなんだよね。アメリカ発祥のアクティビティだし。

トムは日本人はボーリングが下手だと思っていたみたいでね。でも僕は日本でボーリングブームの頃、幼少期から練習場に行ってて割と上手だったの(笑)

それでトムとのボーリングでも、けっこう良いスコアを出せた。僕が300点中、210点くらいで、トムは130点くらいだったんじゃないかな。それでトムはもう面白くなくなってきちゃって、“もうやめる”って言い出したね(笑)

そんな適当なやつで(笑)まあ一緒に仕事をしていくうちに仲良くなったから、“どうしてフォッシルを始めたのか”聞いてみたんだ。

すると、フォッシルの設立は若かりし彼の成功体験がきっかけだったことを話してくれた。

彼は大学を卒業して、1年間、世界放浪の旅に出たんだって。あらゆる国を巡り、帰国する直前、最後に香港に寄った。そこでアメリカにいる友人、家族にお土産を買おうと街を散策していたら、ある路面販売が目に留まったらしい。

そのお店では、オメガとかロレックスなど高級時計の偽物が500円とか1000円とかで売っていたんだって。

まあ品質は価格相応で、3ヶ月くらい使うと壊れてしまうみたいだったんだけど。でも、その時計に興味を持ったトムは、20個くらい買って帰って皆にお土産として配ることにした。そうしたらみんな物凄い喜んでくれたみたいで。

たしかに、偽物とわかっていても、ロレックスのような高級時計があったら嬉しいよね(笑)

そうやって偽物でも大勢が喜ぶ光景に大きな関心を抱いたんだって。だからもう一度香港に行って、今度は100個くらいその時計を買って帰った。

その大量の時計を、ニューヨークのヤンキースタジアムっていう球場の前で道端に並べて、試合の日に1個1000円とか2000円で売ることにした。そしたらなんと、1日に100個全て売れちゃったんだって。

そこで彼は『これは商売になる』と思い、また香港に行って1000個単位で買い付けして、また売れて。その商売を何回か繰り返すうちに、自分でブランドを立ち上げたくなり、フォッシルを始めたらしいの。

7、80年代ならではの、インデペンデント感ただようお話に胸が高鳴る。現代でトムさんのやり方でビジネスをしたらそれなりの罰はあると思いますが…。だからこそ面白みがありますね。

また、お話から伝わるトムさんの自由奔放さは、私が想像していた実業家や経営者そのものでした。私のような素人目で恐縮ですが、ビジネス界の前線に生き残る人物の傾向として、“自分独りで1から10まで完結させてしまう行動力”を持っていることが挙げられると考えています。

それは“人を頼らないこと”じゃなくて、浮かんだアイデアと同時進行で身体が動き出してしまう、みたいな。トムさんの話で言えば、売れる時計があるから遥々香港まで買いに行く、みたいな。

これ、誰にでもできそうだけど、多くの人にはできないんだと思います。なんだか自己啓発書でありそうな話ですが、私はそうなるべきだと啓発したいわけではなく、一つの観点として書き留めたいと思っています。

会社を辞める「最後の決め手」

「トムは打ち合わせでも、とにかく決断が早い。例えば、“この広告やりますけどデザインは…”って社員が見本を見せると、間髪いれずに即決する。その回転の速さで、どんどん大きくなっていったの。

約2年間フォッシルと取引があったから、トムの様子を間近で見ていたんだけど、どうして彼は適当で余裕そうなのに上手くいっているのか不思議に思った。僕は同い年だったから、すこし悔しくも感じたんです。

その頃はさっきも話したように、リチャード・ブランソンの本を読んでいたりで、独立してみたいとも思っていたの。トムも当時の自分にとって大きな刺激になった。言い方はあれかもしれないけど、“こんなヤツでもできるんだ”って。だから『もう会社を辞めよう』と決めた。

それからトムさんは、経営陣として入ってきたお兄さんとソリが合わず、2010年にフォッシルを後にしたそう。しかし、その後もデトロイト初のShinolaという時計ブランドを立ち上げるなど、存在感を放っています。

(取材・編集 カタヒラ)


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