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#26 娘でも、姉でもない姿で

昨日書かなかった、シェアハウスについての話を少し。


誤解を恐れずに言うと、私は家を出たかった。家にいる時間はできるだけ短いほうが自分が楽に息ができると思っている。


家で蔑ろにされているわけでもない。居場所がないわけでもない。家族が嫌な奴であるわけでもない。

でも家を出たかった。

家にいるときの自分があまり好きではなかった。


家にいるときの私は娘であり姉である。もちろん一人で暮らしている訳じゃないから、家族の一員として、その立場で生きるのは当然だと思う。でも、大学生になってより一層、家の外で生きる自分に肩書がなくなってきて、その生き方が楽しいと感じるようになってきた。その方が自分が縛られないで息ができると思った。そう思えば思うほど、家での私は「自分勝手」に写るようになっていってしまった。「今まではたくさんお手伝いをしてくれる長女だったのに、変わっちゃったね」そう言われたことがショックだった。その肩書なしに、生きてみれたらどんなに楽だろうかと思う。

そんなことを思いつつも、家に帰ると無意味にだらだらしてしまうことが多い。「あれも、これもやろう」と帰り道には思うのだけど、家に帰って自分の部屋に行くと、スマホを手に長い時間だらだらしてしまう。自分の部屋は格好の「隠れ家」になってしまって、今や勉強をしたりする場所としての認識はだいぶ薄れてしまった。ハッと時計を見て深く後悔する。ああ、またこんな時間の使い方をしてしまった。


そういった訳で、家の外で自分のペースでやりたいことをやれている自分の方が好きになった。だからぎりぎりまで外にいたいし、早く帰りたいとも思えない。

もちろん、家族と話したりする時間も楽しいし、大事にすべき時間だということも分かる。だけど、家での自分が好きになれないから、素直にその時間を肯定できないでいる。いらいらしてしまうことも多いし、自分の忙しさゆえに険悪な感じになったりすれ違ったり、それも嫌。


だから、実家以外の帰る場所が欲しかった。一人暮らしをすればその場所も作れるかな、と思ったけれど、シェアハウスという選択肢があることを知って、この方がもっと面白く暮らせると感じた。一人ではできないことに挑戦できる可能性が広がると思えた。家族ではない人と暮らすというのは、「当たり前 」がない生活をするということ。それは大変なことだと思われるかもしれないけれど、私は「当たり前」がない、からこそ惹かれている。そこでの自分は「当たり前」で想定されているレールの中で生きなくてもいい。当たり前はないから、自分で作れる。信頼できる人とワクワクする暮らしが作れる、最高だなあと思う。


そうすれば、家という場所が私の中で変わると思う。

「そんなに忙しくしてて、シェアハウスに入った時に家のこととか、同居人の人たちとうまくやっていけるの?」

そう聞かれたけど、帰りたいと思える場所だったら、私は早く帰る。共に高められる仲間がいれば、家でやりたいことを追求しようと思える。早く家に帰って暮らしを作ろ、と思える。

毎日を丁寧に生きられる。

そうして心が潤っていけば、実家に帰った時の心境も変わっているかもしれない。娘でもなくて姉でもない時間で自分を解放しておけば、実家に帰った時に素直に娘や姉を取り戻して仲良くできるかもしれない。


だから私は家を出たい。シェアハウスで暮らしを作りたい。そう思っています。