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【5-5】狭山茶の繁栄を願う "勝海舟"ゆかりのスポット「狭山神社」[瑞穂町]

みなさんこんばんは。バックスリーです。

春が待ち遠しい季節ですが、東京でも雪が降ったりと、寒さがまだまだ続きそうです。

さて前回のナッツでは、地域の歴史研究と関連させて郷土資料館”けやき館”を紹介いたしました。

そして今日紹介するのは、瑞穂町の特産品”狭山茶(さやまちゃ)”と関係が深いスポットである”狭山神社”です。

この狭山神社はあまり知られていないですが、意外にも近代日本の礎を築いた勝海舟ともゆかりのある神社です。

それでは見ていきましょう!

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■狭山神社とは?

狭山神社はJR八高線箱根ヶ崎駅から歩いて大体15分ほどの距離に位置しています。近くには以前紹介した狭山池公園もあります。

狭山神社の詳しい創建についてはわかっていないことが多いですが、境内の看板によると、平安時代末期、源義家(みなもとのよしいえ)が奥州(東北地方)征伐に向かう途中に狭山池の周辺に陣営した際に、霊夢(お告げ的な夢)を感じて、箱根権現(現在の箱根神社)を勧請したのが、由緒とされています。

旧箱根ヶ崎村の鎮守社でもあり、地域を古くから見守ってきてくれてた神社でもあります。

※源義家とは?
源義家(別名:八幡太郎義家)は鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏の祖先にあたる人物で、のちの時代に”武神”と呼ばれ、神格化された伝説的武将です。
前九年の役で父の頼義と共に東北の豪族安倍頼時(あべのよりとき)を討伐し、その後、後三年の役の際で東北で起きた清原氏の内紛を平定するなど活躍しました。
後三年の役の際には、武士たちに私財を投じて報償を与えたことで、関東の武士たちの信望を高めたとされています。

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参道は少し長めの急階段。散策疲れの足で登るのは少々辛かったです笑

ただ木々に包まれた境内はとても静かで、心が洗われるような感じがしました。社殿も立派です。

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■狭山茶の繁栄を願った石碑

狭山神社の一番の見どころは、境内にひっそりと佇むこちらの石碑。

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この石碑は”狭山茶場之碑(さやまちゃじょうのひ)”といい、明治11年に建立されたものです。

石碑は、日本の開国後、貿易が活発化する中で、狭山茶産業が盛んになるようにとの願いが込められて、建立されたそうです。

江戸末期、ペリー来航などの幕末の動乱の中で、開国した日本の当時の輸出品目は、生糸と茶が主流であり、明治に入ると政府も殖産興業の一環として茶の生産を奨励しました。

当時、茶の輸出に関しては横浜港がメインで行っていたため、地理的に横浜に近かった狭山茶は隆盛を極め、明治14年から明治15年にかけて狭山地方の茶葉栽培は空前の黄金期を迎えたと言われています。

■お茶の歴史と狭山茶の起源

ここでは狭山茶も含めたお茶の起源について少し紹介します!

お茶はもともと、中国で始まり発展したとされ、日本では平安時代初期に、中国(唐)に渡った留学僧たちがお茶の種子を持って帰ってきたのが始まりとされるそうです。

その後、鎌倉初期に、鎌倉新仏教の1つ臨済(りんざい)宗の開祖である栄西(えいさい)が宋から帰国する際に、お茶を日本に持ち帰ったことで本格的にお茶の文化が広まったとされています。
栄西は帰国後に、日本で最初のお茶の専門書『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著し、お茶の効用やお茶の製法についてまとめています。

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瑞穂町の特産品として有名な狭山茶は、瑞穂町だけでなく埼玉県の入間(いるま)市など狭山丘陵を中心とした地域で作られています。

「色は静岡、香りは宇治、味は狭山でとどめさす」と歌にされるほど、全国的にも有名なお茶です。

ちなみに瑞穂町など都内で作られる狭山茶を、特に埼玉県産と区別して”東京狭山茶”と呼んでいます。

狭山茶の起源は、中世に作られていた河越(かわごえ)茶と言われていますが、江戸時代後期に百姓の村野盛政(むらのもりまさ)吉川温恭(よしかわよしずみ)が協力して、京都の宇治茶の製法を取り入れたことが始まりみたいです。

現在瑞穂町は都内一の茶栽培面積を有する茶どころであり、東京狭山茶も瑞穂町の特産品として人々に愛されています。

■意外な関係!? 勝海舟と茶栽培

先ほど紹介した”狭山茶場之碑”
実は題額部分の「狭山茶場之碑」は、勝海舟(かつかいしゅう)が書いたものと言われています!
なぜ石碑の題額を海舟が書くことになったかは不明ですが、どうやら海舟が茶に関係ある人物だったから題額を書くことになったという説が有力みたいです。

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ちなみに勝海舟って結局どんな人物なの?と思う方も少なくないと思うので、すごく簡単におさらいしておきます!

勝海舟は1823年(文政6年)、江戸で旗本の子として生まれます。
家は貧乏ながら、剣術に打ち込み独学で蘭学を学ぶなど文武両道の青年でした。

その後ペリー来航の際に、幕府に海防についての意見書を出したことをきっかけに、幕府に登用。長崎に派遣され海軍伝習所(かいぐんでんしゅうしょ)で、西洋兵学や航海術を学び、さらにアメリカの条約批准使節の護衛として、咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに渡ります。

アメリカに渡った海舟は、民主主義や資本主義などアメリカの社会制度に感銘を受け、日本に帰国後は幕府側の立場でありながら、藩を超えた海軍の創設など日本を変える必要性を説きました。この時期に海舟は、坂本龍馬や西郷隆盛とも接触しています。

さらに江戸幕府の大政奉還後、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際には、幕府軍側に立ち新政府側の西郷隆盛と交渉を行い、戦争を平和的に終わらせ、江戸城を無血開城(むけつかいじょう)しました。

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ここまでは日本史で習う内容ですが、その後海舟は意外なことに徳川家と静岡に移住します。
そして海舟が静岡で行ったことが静岡茶の生産奨励です。

江戸幕府崩壊後、失業した徳川家の家臣たちは、生きる術を失い、金銭的にも疲弊していました。

そこで海舟は徳川家の家臣たちの働き口を作るため、茶畑を開墾を奨励しました。

静岡の気候はお茶の生産に大変適していたため、その後茶産業が発達し、現在につながったとされています。

勝海舟、本当にすごい人物です!

こういうエピソードを知った後に、「狭山茶場之碑」を改めて見てみると、また違った発見がありそうですね!

■さいごに

今回は狭山神社にちなんで狭山茶の歴史や、お茶に関連する偉人”勝海舟”について取り上げてみました!

瑞穂町に来た際には、歴史ある狭山茶をぜひ一口味わってみてください!

そして次回のナッツは

食事も楽しめる和洋折衷のおしゃれな教育施設

を紹介!

それでは次回の更新もお楽しみに!

参考
『瑞穂町史』(1974・瑞穂町)
瑞穂町図書館/温故知新 ― 瑞穂町を旅する地域資料

文責 バックスリー

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