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『サンクチュアリ -聖域-』にシーズン2は要らない

奇数月になると、夕方近くの時間帯はソワソワしてしまう。

好角家にとってこの時間帯は、たとえ仕事をしていてもどこか上の空。
トイレに駆け込み取組速報をスマホでチェック…なんてこともままある。

自分がそんな奇特な人種に成り下がったのはもう18年も前。
当時朝青龍の背中を追いかけていた名大関・琴欧洲。
一般のアジア系力士とは少し違ったアスリート然とした佇まいと、彼の破壊力抜群の右四つの相撲に魅せられ、すっかりこの「異世界」の虜になってしまった。

琴欧洲 (出典 : 日刊サイゾー)

土俵上での様々なドラマや人間模様、一方で時代との衝突や摩擦も孕みながら、なんだかんだで数百年以上この国の「国技」として君臨する大相撲。

Netflixで配信中のドラマ『サンクチュアリ -聖域-』は、そんな大相撲の世界を見事に舞台化した、これまでになかったタイプの映像作品だ。
これまでにも「相撲」をテーマにしたドラマは幾つか発表されているが、あくまでアマチュア相撲を題材にしたものであったり、デフォルメしすぎてリアリティに欠けたりと、表現の難しい題材ではあった。
そんな中で、プロとしての「大相撲」をここまで真正面からぶつかって表現したドラマは史上初と言っても良いだろう。

※以下、ネタバレあり※

(出典 : ひとシネマ -毎日新聞)

具体的なあらすじや制作背景、出演俳優の演技の凄さなどについては、数多上がっているネット記事や各種ブログなどをご覧いただければ理解できると思うのでここでは触れない。

が、あえてこのドラマの魅力を語るとするなら、「リアリティとファンタジーの曖昧な両立」といったところか。
すなわち、そこまで大相撲の世界を知らない視聴者にとっては、凄まじいリアリティを追求したものに見えるし、長年大相撲を観てきた人達にとっては、そういったリアリティも担保しつつ、まるでジャンプの漫画を読んでいるかのようなアクション活劇としても楽しむことができるのだ。
大事なのは、その境界線が(おそらく)意図的に曖昧にされているところ。

例えば、大関・龍貴の師匠でもある父親が怪しげな新興宗教にハマっている場面や、怪しい記者が静内の過去をネタに彼を脅す場面、さらには親方衆がかつての星の貸し借り(いわゆる八百長)に言及し、現在の力関係を匂わす場面。
これらは好角家であれば「兼ねてから噂にはなっているけど、誰も真実をはっきりとは証明できていない事柄」であることがすぐにわかる。

土俵外の人間模様に加え、土俵内の場面でもその曖昧さは際立つ。
主人公の猿桜は、腕を極められた状態で頭突きを連発して相手を倒し、優勝インタビューでは「角界ぶっ壊す!フォー!」と中指を立てる(これは普通協会が怒る前に親方が首にしそうなもんだが笑)。
果てには静内との取り組みでは、あろうことか張り手合戦の末に右耳を落としてしまう。
このように、この作品は「あり得ない、けど角界ならなんかあり得そう」という微妙なラインを視聴者に突きつけ、この上なくワクワクさせてしまうのである。

ということで、内容としては非常に面白く、その後YouTubeなどで配信されている特別映像も大好評。
世界中でこのドラマが注目されていることも、長年の大相撲ファンとしては嬉しい限り。
ネット上には「絶対シーズン2をやってください!!」という声が所狭しと並ぶ。当然だろう。

だが、この声に対してだけは異を唱えたくなってしまう。
続編は作らなくていい、というか、できることなら作って欲しくない。

きっと皆気になっている部分があまりにも多いからこそ大きい声なのだろう。
静内は家族を失ってからどのような人生を送ってきたのか。
龍貴の師匠と猿将部屋のおかみさんとの間に何があったのか。
七海が過去の自分の写真を塗りつぶしたほどの心の闇とは何なのか。
そして何より、猿桜と静内の取組の結末は…?

わからないことが多すぎる。曖昧なままになっていることが多すぎる。
そう、曖昧なままだからこそこのドラマは魅力的なのだ。
そしてその魅力は、実際の大相撲そのものの魅力でもあるのだ。

全てを定量化し、白黒はっきりつけることこそが正義であるかのような風潮がこの国とこの時代に根を張りつつある。
そのせいか現代の大相撲の世界は、「曖昧であること」がしばしば批判の槍玉に挙げられる。

「横綱・大関の昇進基準をもっと明確にすべきだ。」
「あの横綱は8場所休んでも何も言われなかったのに、この横綱は5場所で批判されるなんておかしい。」
「負け越しや連敗をだらだら続けるような序の口力士に現役でいる価値はあるのか。」
「太りすぎてる力士は不健康なので体重制限をつけるべきだ…。」
5分考えただけでも山ほど浮かぶ。

こういった批判については、山ほどおられる有識者の方々がすでに綺麗に反証してくださっているのでこれ以上は触れない。
だが、こういった面も含めた、ある種の「前時代性」をあえて真正面から引き受け、時代と連動しつつも時には乖離する「異常さ」にこそこの世界の魅力はある。
まさに時津記者の言う、「異常の上に成り立つ異世界、それが角界」なのだ。

異常であり、曖昧。
大相撲の根底にあるそれを共有しているからこそ、『サンクチュアリ -聖域-』はファンタジー的描写も多くありながら見事に説得力を持つドラマになっている。
逆に、続編を続けてしまうことはその魅力を半減し、いわば「普通のドラマ」になってしまうのではないか、と不安な気持ちを持ってしまう。

ちなみに、ラストの猿桜と静内の取組。
あれを敢えて立ち合いの当たりだけで終わらせた演出はこの上なく素晴らしいと感じた。
初戦ではあっさり吹き飛ばされていた猿桜がここでは互角の当たりを見せる。
それだけで分かるでしょ?十分じゃん!

と、観るものにその後の全てを委ねる見事な幕切れであったと思う。

挫折を乗り越えた猿桜の相撲人生はこれからも続く。
それ以上も以下も無いのである。




まあ、シーズン2やるんなら観るけど(小声)。


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