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国内異文化考察:農耕民の流儀と狩猟民の流儀

はじめに

異文化コミュニケーションが喧伝されて久しいが、異文化を持つのは遠い国の人とは限らない。隣人であったりも、自分であったりもする。無用な異文化摩擦を避けるため、そもそもの文化差を原則というかたちで心得ておくことは有用だと思われる。本稿では農耕文化と狩猟採集文化に着目し、両者が起こす軋轢と、今後考えられる融和について考察したい。中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)および老松克博『空気を読む人 読まない人』(講談社現代新書)を参考に論をすすめる。

わが国の「農業文化」

わが国は、少なくとも弥生時代から農業立国であった。戦後の高度成長期にも、農業と同じ精神性がうまく活きたように思う。農業で一番大切なことは同調であろう。これは精神科医・中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)にも文化描写として記されていた記憶があるが、暦を守り清潔にし、皆で歩調を合わせる。また不純物(雑草など)も排除する。これらをほぼ暗黙のうちに守らねば、農作物はうまく育たない。農業国では生きていけなかったのである。

ただし昨今わが国で問題になっている「イジメ」や「同調圧力」を考えても、どこか農業文化の影が感じられる。農業国で農業を営む場合は、社会集団からも作物からも「不純物」を排除しなければうまくいかないためだ。つまりそれらの問題は「間引き」と呼ばれる、農業立国における必然性を孕んでいたのである。

ただ最近、日本のこういった風潮に違和感を覚えたり、異を唱える人々を見かけるようになった。ただそういう異を唱える人々の理屈は空転しがちで、それは日本がそもそも暗黙のルール(暦や季節、気象条件なども含まれるだろう)を重んじる、非言語的な文化の国だからであろう。主に言葉の理屈でやり取りするという文化基盤が、少なくとも弥生時代に農耕が始まって以来の日本では弱いのである。

日本の「アイデンティティ」

この文脈で推測するのだが(あくまで推測である)、農村における「寄合」(「よりあい」:村のミーティング)というのもやはり、農業を効率よく勧めるために「歩調を合わせる」ことが趣旨だったのではないか。だとすれば寄合は「議論を戦わせる」のがメインの場ではない。現代日本で「会議のための会議」という謎行事があるが、あれも歩調を合わせるためにやっていると考えると納得できる。ある大学では「会議のための会議」があまりに多くて、外国人教授たちが辟易していたのを思い出してしまう。彼らには「日本は農業国だったので、暗黙のルールに従って歩調を合わせるため顔を合わせる習慣なのです」と説明するしかないだろう。また日本においては職業がアイデンティティとされ個人は二の次である(「◯◯商事で☓☓をしております〇〇です」と名乗る)が、これも農業に即して言えば「所属する村と、その村における役割」を先に述べているのだろう。つまりアイデンティティが集団に規定されるのを前提とした社会であるからこそ、個性をあまり大切にしてはならなかったのだと思われる。

異を唱える人々

こうした日本の同調文化に対して、異を唱える人々もいる。端的な例はホリエモン、ひろゆきなどであろう。歯に衣着せぬ物言いは、言葉でのやり取りを文化的に封じられた日本人にとっては憧れなのかもしれない。だが耳目を集める彼らもルールを破ったとして収監されたり、海外生活を余儀なくされたりしている。二人とも辛い幼少期を過ごしているが、それは果たして彼らの非日本文化特性の結果なのか、あるいは原因なのか、それとも両方なのだろうか。というのは中井久夫が前掲書において、興味深い気質類型論を展開しているためだ。

異を唱える人々の正体? 中井と老松の類型論をつなげると

中井の示した類型は大きく下の二つである。
①執着気質者:万一心の調子を崩すと、「うつ病」になりやすいタイプ
② S 親和者:万一心の調子を崩すと、「統合失調症」になりやすいタイプ

面白いのは中井(前掲書)による、②のタイプは狩猟民的な特性を持ち、「微分回路」というべき察知能力を有することが多いという指摘である。またこのタイプは過去に蓄積されたデータを活かすよりも、「未来への先取り」と言うべき直感力に似たひらめきに基づいて行動するということらしい。大雑把に言えば①は努力で成功するタイプであり、②はひらめきで成功するタイプだと言えるだろう。

中井の類型論に加えてユング派分析家の老松克博は、著書『空気を読む人 読まない人』の中で次のようなタイプ分けをしている。
①人格系(人格障害系):空気を読む人。日本では多数派。
②発達系(発達障害系):空気を読まない人。日本では少数派。

中井と老松の分類を眺めて思うのは、両分類の共通点である。上記中井分類の①は老松分類の①に重なるところがあるし、②に関しても同様である。そこで大胆に、両方をドッキングさせてみようと思う。

◯中井の①(執着気質者)≒ 老松の①(空気を読む人)≒ 農耕民特性
◯中井の②(S 親和者)≒ 老松の②(「発達障害」者)≒ 狩猟民特性

大雑把に、この2タイプに整理できるだろう。人類は大昔、広く狩猟採集を営んでおり、その後で農耕や牧畜が始まった。牧畜については現在学習中で詳しくないが、ヨーロッパやアメリカの礎でもあるキリスト教などは、羊飼いの話が頻出したり牧畜文化であろう。新約聖書にも「初めに言葉ありき」とあるように、やはり言語表出を重んじる文化だと言える。いずれにせよホリエモンやひろゆきのようなタイプは、上の分類では狩猟民タイプに分類されると言えよう。

狩猟民と「発達障害」特性の共通点

いわゆる「発達障害」も、狩猟民の特性に即して考えれば理解できるところがある。狩りの間、獲物を見つけるまでは周りに「注意を分散」させたほうがよい。獲物を見つければ「過集中」して捕まえるしかない。獲物は捕まえるか(100)か逃すか(ゼロ)であるから、最後の最後まで追い続ける「完璧主義」なども必要だろう。もちろん罠を利用した狩りもあるので、これが全てではないが、ある意味で賭けの要素がある。現代で言えば堅実に会社勤めで暮らすのは農業的とも言えるが、ホリエモンなどの実業家の仕事は賭けの要素がある狩猟的なものだ。株が上がるか下がるか、この商品はヒットしるかしないか。察知するのに必要なのが、中井の言う「微分回路」という先取りの能力だろう。大昔の狩猟は集団で行うにせよ少人数だったが、現代は狩猟的なリーダーが大勢を率いなくてはならない。それが世界でもワンマン経営者が頻発する、構造的な欠陥かもしれない。

農耕民タイプと狩猟民タイプが争わないために

おそらくではあるが、農業が発明・導入される前(日本では縄文後期以前)の世界では、こうした狩猟民が一般的であり、狩猟民の属性を持つほうが社会でも有利だったのだろう。では現代の農耕民タイプと狩猟民タイプの軋轢をどうするか。大切なのは先ず「文化の違い」だと認識することだ。お互い日本人だと、どうしても「考え方は同じ」だと勘違いしやすい。

農耕をする人と、狩猟で生計をたてる人との考え方が異なるのは当たり前である。生活パターンが違えば、発想も異なるからだ。また外国も含めて、文化に優劣はない。それぞれの文化に、長所と短所があるからである。次に、長所を取り入れること。空気を読むことの長所は、それこそ「和を乱さない」ことだし、空気を読まないことの長所は「自分の意見を言えること」であろう。集団に強制することではない。ひとりひとりが少し心がけるだけで(あるいは本稿を思い出すだけで)、社会の移り変わりも若干穏やかになると思われる。

(追記その1)
農耕民タイプは定住を、狩猟民タイプは移住をそれぞれ好むであろう。そのほうが食糧を得るのに適しているからだ。必然的に前者は安定を、後者は変化をそれぞれ好むのではないだろうか。

(追記その2)
芸術家・岡本太郎の思想はしばしば、統合失調症的だとされるらしい。彼を、中井の言う「S親和者」だと捉えてはどうだろう。岡本は縄文文化の愛好者であったが、縄文の文化とはほとんどが狩猟採集文化だったのである。「S親和者」という概念と「狩猟民タイプ」との符号を、ここにも見出せるのではないかと思う。

私の拙い記事をご覧いただき、心より感謝申し上げます。コメントなどもいただけますと幸いです。これからも、さまざまな内容をアウトプットしてゆく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。