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夏目漱石『坊っちゃん』解説#1

#1 『坊っちゃん』の概要




作者夏目漱石

 『坊っちゃん』の説明に入る前に、作者である夏目漱石について話していきたいと思います。近代文学では作者と作品の関係がとても重要で、作者について知ることでその作品の理解に役立つことが往々にしてあり、『坊っちゃん』も例にもれず、作者の経験が反映されていたり、作者が登場人物と似ていたりします(1)。

 これを読んでおられる方の中でも「東野圭吾の作品が好きだな」とか、「他はあまり読まないけれど村上春樹だけは毎回買って読んでるなあ」というように作者で読む本を決めている方は多いのではないでしょうか(かく言う、僕もお気に入りの作者の作品ばかり読む一人です)。小説と作者は不可分の関係にあります。

 夏目漱石は1867年の江戸に夏目家の五男として生まれます。明治時代のはじまる前年に生まれ、大正五年になくなるわけですが、「明治の精神に殉死する」といって自殺を決意した『こころ』の先生と重なる部分があります。まさに明治時代を象徴する文豪です。
 漱石は六番目の末っ子として生まれましたが、両親が高齢の時の子どもであり、当時高齢での出産は恥ずかしいという考えがあったらしく、生後まもなく里子に出されました。一旦は実家に戻りますが、一歳の時に養子に出されます。八歳で養父母の離縁を期に夏目家に戻りますが、両親とは馴染めなかったそうです。坊っちゃんも両親には愛されていなかったと考えている節がありますが、漱石との共通点といえるかもしれません。

 漱石は学問に秀で、十代の頃には漢学を、二十三歳の時に帝国大学に進学してからは英文学を中心に学びました。漢学と英文学という二つの大きく異なる文学について深い知識を持っていたことが漱石の文学の特徴です。

 帝国大学進学の前年には、親友として長きにわたって交流する、俳人の正岡子規と出会います。正岡子規と夏目漱石のお互いのお互いに対する影響は深く、漱石の小説に正岡子規的な俳諧の影響が見て取れると評価されることもあります。
 ちなみに、正岡子規の代表作「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、夏目漱石が詠んだ「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」を意識したとも言われています(2)。

 帝国大学を卒業した漱石は、二十八歳の時に愛媛県の松山中学に英語科教師として赴任します。松山中学での経験が『坊ちゃん』において多く見られます。
 しばらくして子規が松山に戻ってきたため、二人は数十日ほど漱石の下宿先で同居することになります。このとき、漱石は子規に入門し、俳句を本格的に創作するようになります。漱石は生涯で二千六百ほどの俳句を創作しましたが(3)、ここから約五年のあいだに俳句の創作が集中しています。当時の文壇で、漱石は「余裕派」と呼ばれていましたが、子規に影響を受けた俳諧的余裕を持って世間を眺める態度に起因するのではないでしょうか。

 三十三歳の時に、漱石は文部省の命で二年に渡るイギリス留学に向かいます。漱石は当時、最先端の文学を学んだ日本人でした。なお、留学の期間中に正岡子規を亡くしています。
 留学から帰った漱石は東京帝国大学の講師になりましたが、神経衰弱に悩むようになり、神経衰弱の療養として、子規の流れをくむ俳人で、交流のあった高浜虚子の勧めで小説を書くようになります。そうして書かれたのが『吾輩は猫である』で、この作品によって漱石は人気作家になります。二年後に『吾輩は猫である』の連載を終えるわけですが、その頃には大学の講師をやめ、朝日新聞に入社し、作家として執筆に打ち込むようになります。
 漱石の作家としての活動期間は約十年程度で、書きはじめたのも四十歳手前と比較的遅いといえるかもしれません。

当時の文壇

 次に、漱石が小説を書きはじめた頃の文学界の状況を、時代を追いながら見ていきましょう。
 文学の小難しい話は嫌いだという方は、次の章まで飛ばしていただいて構いませんよ!
 難しくて結構、むしろもっとディープに来い!という方は、ぜひお付き合いくださいな!

 先ほど明治二十年頃から日本の文学は西洋の小説を受容し、文学の「西洋化」「小説化」がなされたと述べましたが、具体的には坪内逍遙や二葉亭四迷らの写実主義が「西洋化」「小説化」を決定づけました。坪内逍遙はフランスの写実主義に影響を受け、明治十八年に『小説神髄』で近代的小説の方法論を説き、二葉亭四迷は坪内に触発され、明治二十年に写実主義の方法論に乗っ取った小説『浮雲』を執筆しました。『浮雲』は近代的小説の先駆的作品であり、以降、写実主義は文学界に波及していきます。

 『坊っちゃん』の作品論とも関わってきますので、『小説神髄』の内容も簡単に紹介させてもらいます。
 坪内逍遙の主な主張としては、「言文一致体での創作」「写実主義」「勧善懲悪ものの否定」といったところでしょうか。「言文一致体での創作」は、当時は分かれていた「書き言葉」と「話し言葉」を統一し、話し言葉に近い口語体で文章を書くことです(4)。現代の文章も口語体で書かれているので、現代文に近付いたというわけですね。

 「写実主義」と「勧善懲悪ものの否定」はワンセットなのですが、噛み砕いて言えば、説話文学のような「善い行いをすれば救われますよ」みたいな話や「正義の味方が悪者を懲らしめる」みたいな作品ではなく、もっと現実的な内容をそのまま書こうぜ、といった主張です(5)。
 少しニュアンスは異なりますが、ハッピーエンドの作品はリアリティーが薄かったり、作られた物語であるような気がしたりしませんか? どちらかといえば少しバッドエンドな作品の方がリアリティーがあり、高尚な作品に感じるのではないでしょうか(考えてみれば、バッドエンドの方がリアリティーを感じる世の中は、嫌な世の中だなあと思いますが・・・・・・)。
 写実主義は浮世離れした物語を書くのではなく、現実を描写していこうとするものです。

 また、坪内逍遙は類型的な登場人物を書くことにも否定的でした。坪内は『南総里見八犬伝』を勧善懲悪ものの典型として批判する(6)のですが、『八犬伝』の主人公たちは道徳性を具現化した性質を持つ聖人君子として描かれています。
 いわば典型的なジャンプ漫画の主人公のような「正義」として書かれているわけですが、坪内からすればそんな人間は存在しない、というわけです。

 写実主義の説明が長くなってしまいましたので、少しペースアップ。
 写実主義は近代小説の成立に多大な影響を与えました。そして、漱石が文壇に登場するようになる明治三十年代末頃には、写実主義を極端化させた自然主義が隆盛を極めていました。
 特に日本の自然主義は田山花袋『蒲団』に代表される退廃的な個人の現実暴露的になっていきます。これが日本特有の小説ともいわれる「私小説」へと向かうわけです。

 漱石は森鴎外と共に、反自然主義の作家として登場しました。漱石は東京帝国大学で学び、公費でイギリス留学をしたように当時の日本の最先端の英文学者といえます。
 それだけでなく、前述の通り漢学に造詣が深く、俳句作家でもあるなど、漱石は旧来の伝統的な文学にも精通していました。イギリス・中国・日本(江戸)といった文学的背景を持つ漱石であるからこそ、フランス文学発祥で当時の文壇に支配的だった自然主義から距離を置くことができたのかもしれません。
 ちなみに、漱石と同じく当時の文壇から距離を置き、独自のスタイルで確固たる地位を築いた森鴎外は、ドイツ留学者です。

『坊っちゃん』のあらすじ

 それでは、『坊ちゃん』に話を進めましょう。『坊っちゃん』は『吾輩は猫である』の連載中に書かれた、初期の中編小説です。この頃はまだ東京帝国大学で教鞭を執っていました。

 一応、ここから先はネタバレも含みますので、先に読んでおきたいという方はお気を付け下さい。
 『坊ちゃん』のあらすじをごくごく簡単に述べると以下の通りです。

「親譲りの無鉄砲で、直情的な江戸っ子である「坊ちゃん」が、着任した松山の中学校で、人間のなっていない生徒や、エリートで頭でっかちで人情を介さない嫌な奴である教頭たちを相手に大立ち回り。教頭・赤シャツの悪巧みに業を煮やした坊ちゃんは、無骨な正義漢・山嵐と共に、赤シャツに勧善懲悪を遂行し松山を去る。親にも愛されなかった自分のことを、ただ一人愛してくれた下女・清のもとに帰っていく。」

あらすじ制作者:Number.N

 二百字程度のようやくにしては上手くまとめられた気がしているのですが(誰も二百字にしろといってないけど)どうでしょう? 松山を強調しすぎ? うらなり先生はどこ行った? まあ言いだしたらきりがないんでご容赦を。

 さて、ここまで読んでこられた方ならお分かりかと思いますが、『坊ちゃん』という作品は坪内逍遙の『小説神髄』に見られる創作理論や、当時主流であった自然主義作品群とは明らかに異なる文学性を持っています。『坊っちゃん』は坪内逍遙ら明治の作家が忌避した、「勧善懲悪」ものの作品で、極めて江戸時代的な戯作文学の影響が色濃く出ている作品なのです。

 物語の造りが戯作文学的であるだけでなく、登場人物の造形も「近代小説」的ではありません。先ほど『小説神髄』に関連して言及したように、坪内にとって類型的な登場人物は御法度でした。類型的な人物を書くことは確かに人間の一側面を描いてはいますが、人間はもっと複雑であり、本当の意味でその人となりを描けてはいないからです。

 一方で、夏目漱石は俳句によって鍛えられた(んじゃないかなあと僕は思います)アイロニーな目を持って類型的な人物を面白おかしく描写してみせました。
 類型的な人物造形という特徴は『吾輩は猫である』のような作品にも見られる傾向ではありますが、実は漱石の中期・後期の作品群には見られない特徴です。初期で社会をアイロニカルに眺めていた漱石の興味は、年を経るに従って「社会の中の個人」の描写に注がれるようになります。

 近代小説は人間の内面の感情を正確に描くことが大きな目的の一つですが、『坊ちゃん』という作品は人間の内面を写し取ることよりも、物語を面白く展開することに重点を置いた作品です。近代最大の文豪が書いた、近代小説らしからぬ代表作、それが『坊っちゃん』です。『坊っちゃん』は日本人から最も親しまれた漱石作品でありながら、漱石の作品の中でも異端な、物語性を重視した作品といえます。

 

 本日の解説はここまでになります。
 ここまで読んでいただければ、十分に夏目漱石や『坊っちゃん』の知識が身についていると思いますが、よろしければ、あと二回ほど『坊っちゃん』解説にお付き合いいただきたいと思います。

 次回のお話は、今回以上にディープな内容となっているので、記事を販売するという形を取らせてもらうかもしれません。もちろん、Number.Nの力を込めた解説になっているので、そこはご安心を。

 それでは、また!


(1)赤シャツの基となった人物はいないそうですが、強いてあげるならば自分のことだと、漱石は語っています。

(2)坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書、二〇一〇年)

(3)竹内清乃編『別冊太陽 夏目漱石の世界』(平凡社、二〇一五年)
なお、夏目金之助『定本漱石全集第十七巻』(岩波書店、二〇一九年)には2560句もの俳句が収録されている。

(4)坪内逍遥『小説神髄』(岩波書店、二〇一〇年)下巻文体論参照

(5)同p.64~p.69参照

(6) 同p.53~p.54参照

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