深読みをやめて表面にとどまる。

聖書、とくに福音書には、登場人物たちの内面描写がない。表情や身振りに現れる喜怒哀楽は描かれているけれども、小説のような詳細な心理描写がない。イエスの十二使徒の一人、ユダはなぜイエスを裏切ったのか。彼の心になにが起こったのか、福音書には彼の気持ちについてなにも書かれていない。太宰治はその「書かれなかったユダの想い」を想像して小説にしている。
太宰治『駈込み訴え

内心における細々とした葛藤の描写がなく、「誰がいつ何をしたのか」という、外に現れ出る行為のみを中心として語られること。このことは太宰治のように読者の想像力を駆り立てるだけではない。内心、内面、心理、精神 ─── なんでもよいが、ひたすら人の内部へと関心が集中する現代にあって、外に現れ出る行為だけを淡々と語る聖書の表現は新鮮であり、読む人を楽にする。

たしかに、太宰治が語るような繊細な葛藤がユダの内部にはあったのかもしれない。何もないのに「我が主」と仰ぐイエスを敵へと引き渡したりはしないだろう。ただ、聖書は同時に、我々があれやこれやの理由を詮索することを、やんわりと思いとどまらせているようにも感じられる。週刊誌的ゴシップのように「そのときユダに何が起こったのか?」と詮索するのとは異なる道へと、聖書は我々を案内している。

週刊誌といえばスキャンダルである。聖書にはイエスの言葉で「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイによる福音書11章6節)とある。この「つまずく」σκανδαλίζω(スカンダリゾー)はスキャンダルの語源である。当時、多くの人々がイエスの「本音」をあれこれ詮索しては、彼らの常識に照らして、イエスの振る舞いをスキャンダラスだと感じた。また、十字架刑は政治犯などに適用される重罪人の処刑法だったから、イエスがそんな殺されかたで死んだことはスキャンダル以外のなにものでもない。我々はイエスの存在理由を問い詰めれば問い詰めるほどに、スキャンダルにぶつかるのである。

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