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客観性の落とし穴

今日のつぶやき。

「客観視」を何を指して考えてるかにもよるけど
自分を客観視できる人間なんていない。
客観視=他人、世間一般的な視点または身近にいる人たちから見た視点になるから。

「え?それでいいんじゃない?」と言う人は良く考えてみてほしい。
たしかに今いるコミュニティの中で生きていきたいならその場に限っては妥当かもしれないけど、
だとしても人の意見って時代ごとに変わるし、同じ人間の価値観もずっと同じとは限らない。

人間は生きてる以上体調も変われば人間関係も変わる、
昨日「あいつの考えは間違ってる!」と言ってた人が次の日「俺が悪かったかも」なんて意見が変わることはよくある。

つまり客観的視点には流動性がある。

そんないつ意見や考えが変わるか予測できない一人ひとりの意見を寄せ集めて
「あーそうですよね」「なるほどそういう考えが一般的だよな」なんて受け入れてたら
一貫性がないブレブレの、その環境に影響されただけの人間ができあがる。

自分のことを「客観視できてる」って自信もってる人は
「客観」をどんな人達から見た価値観を基準にしてるのか考えてみてほしい。

たとえ「君、自分のこと客観的に見れてるねえ」と言われたとしても、
あくまで今いるコミュニティの中もしくはそう発言した相手の考える「客観的視点」と一致しただけのこと。
要するに「その人に共感してもらえた」ってだけ。

普段からネットをとおしてのコミュニケーションしかとってない人の場合は
ネットコミュニティー上で仲良くしている人達から見た自分の評価を「客観的」だと
思い込んでいる可能性が高い。

そしてそれが本来の自分の価値だと思ったり、
職場の場合なら、上司からの評価が「自分」だと思ったり。

それらの意見を「客観視された自分=自分の客観的価値」だと思い込む。
いや、嫌でもそう思い込んでしまう。他に頼る基準がないから。

「そうは言っても職場だから」
「そこに友達がいるから」
「そこに尊敬できる人がいるから」…

それぞれ理由があってそこに参加してる(させられてる)んだろうけど
そこで当の本人が欲しい評価を得られてるかと言われるとどうだろうか。

たしかに「その場の環境(周りの人達)に適合しているのかどうかの評価」としては
全うな客観的価値なのかもしれないが、別の環境に行っても同じかと言われると必ずしもそうではない。

「客観性(客観的に見て正解なのかどうなのか)」ってのは
自分が今いる場所、時代や地域、環境、状況によって変わり続ける。

もし自分の価値を認めてもらえない場所で苦しんでいて
自分の直感から来る価値感を信じられず、
自分の意見や意志より周りの人間(身近な人間)の意見を尊重し続けてしまっているとしたら
それがどれだけ馬鹿馬鹿しいことか。

「直感どおりに動いたら失敗したんだけど?!」っていう人もいるかもしれない。
でも成功か失敗かなんてその瞬間の自分の状態、状況の客観的あるいは自分の思いこみの判断でしかない。
時間は流れてるんだから状況も変わり続けてる。
それも成功への過程だと考えれば、動き出すしか道はないことに気づく。

その中で、ずっと失敗したことに対して

「俺は〇〇なやつだからもうだめだ」
「どうせ〇〇だからもうやめよう」
「だってあいつに〇〇だって言われたから…」

てなふうに周りからの客観的意見をアタマで反芻し、
それによる自己暗示と、ゆくゆくは変わり続ける周り人間のせいにして行動できずにいたら
自分の人生に光なんてない。

自分がどんな評価をされる場所で生きたいのか。
いまだに年配の人間の中に「ここでダメならどこ行ってもだめだ」なんて言う人間がいるかもしれないが

大丈夫。絶対そんなことはない。俺がいい例。
むしろそんなこと言われた日にはすぐそんな仕事辞めた方がいい。

きっとその人はマネジメント力がない人だ。
心から尊敬できる賢い人なら、脅す前に相手にやる気をださせるような説得ができるはず。

そもそも脅してくる時点でレベルが低いことを自分で証明しちゃってる。
「私はこうして脅すことでしかあなたを引き留めることができません」てね。

人間には自己保存の本能(自分の身の安全を確保する本能)があるから先のことを心配して
妄想するのは仕方ない。俺も常に悪い妄想にとらわれる。
でも、それはあくまでも妄想。

前述したとおりあなたが思う客観性も限られた場所、環境の中での一時的な妄想だから、
同じ妄想するなら前向きな妄想のできる場所がいいよね?

そゆこと。

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