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同時通訳者・常盤陽子先生に聞く (その1)



はじめに


「様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかか わって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違いま す。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人 の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、 生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいも の、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。」

上記の趣旨のもと、筆者の連載コラムFor Lifelong Englishは2007年5月より2013年2月まで、「英語にかかわる仕事をする人々」と題して筆者およびTOEFL事業部根本斉氏の知己の方々とのインタビューの模様をお届けしました。今回は3回に分け国際会議で同時通訳をされていた常盤洋子先生とのインタビューをお届けします。インタビューしたのは2008年です。


英語との出会い

鈴木:常盤先生とのご縁は、共にジョージタウン大学に留学してからずっと今日 まで続いており、誠に光栄なことでございます。現在、同時通訳・翻訳家 として活躍されていますが、もともとは神学を勉強されていたと伺った事 があります。

常盤:私は、祖母の代からのキリスト教の家庭で育ち、学校は女子学院に通いま した。母方の祖母がキリスト教の信者だったので、母の女の姉妹3人、い とこたちも含め、みんなキリスト教の信者で、教会には小さい時から通っ ていました。そこで、大学では、キリスト教教育学を学びました。母校の 青山学院大学の文学部の中に、昔はキリスト教学科という教会の牧師の資 格を取る科がありました。男性の方は、大体牧師の資格を取って牧師にな られますね。女性でも1人、私のクラスメートで牧師になられた方がいま すが、どちらかと言いますと、キリスト教教育のサポート役にまわり、日 本にあるクリスチャン・スクール、そこに理科・数学などの教科と同じよ うに聖書の科目があり、その先生になる人が多かったですね。できれば、 子供たちが教会へ行くようになって欲しいというのが、クリスチャン・ス クールの考えですから、そういう先生になられる方が多いです。卒業後 は、アメリカのニュージャージー州にあるドリ ュー大学のマスターコー スに留学しました。

TOEFLテストとのかかわり

鈴木:ドリュー大学留学に際しては、TOEFLテストを受けられたと思うのです が。

常盤:受けました。難しかったですね。でも、TOEFLテストがスタートしたば かりですし、アメリカの大学もあの頃は今ほどうるさくなかったですね。 点数を何点取らなければダメというのもなかったですし。

鈴木:私の時は、学部550、大学院600なければダメと言われました。だから私 なんか、点を上げるために英語学校に入りましたね。話を戻しますと、 TOEFLテストが日本に導入されたのが1964年と言われると、TOEFLテス トを受けられた最初の世代のお一人ということになりますね。

常盤:私が向こうに行ったのが東京オリンピックの翌年の1965年だから、ほん とに、まだ始まったばかりだったんですね。

鈴木:留学をされた動機をお聞かせください。

常盤:大学の交換留学ではないのですが、向こうの学校が日本に先生を送ってい らして、その先生がお帰りになる時に日本人の学生を何人か連れていくこ とになったのです。その時、たまたま結婚した主人が既に選ばれていたも のですからついて行ったのです。

鈴木:アメリカに行く前から、英語を話せたのはないでしょうか?

常盤:通っていた女子学院がクリスチャン・スクールで、中学1年からネイティ ブの先生がいつもいらしたので、耳は慣れていたのかも知れません。高校 も同じ学校でしたので一貫した英語教育がありました。自分では気づかな くても、わりと早めに聞き取れるようにはなっていたかも知れませんね。 同時通訳の道に進んだきっかけ 留学したドリュー大学はメソジストのジョン・ウエスレー系列の神学校で す。ここに、セオロジカル・デパートメント、つまり神学部があり、その 中の1つのセクションとしてクリスチャン・スタディーズがありクリスチ ャン・エデュケーションを2年間学びました。

鈴木:卒業後はどうされましたか。 1969年6月にドリュー大学クリスチャン・エデュケーションを卒業しま した。アメリカではその年の7月に月面着陸に成功し、世界中がTVに釘付 けになっていたときです。それを見てから帰国しましたが、当時は日本の キリスト教会にはお金がないので雇ってくださるところが何処にもありま せんでした。仕事がないのです。困ってしまってどうしようかと、ご主人 が新聞記者をしているお友達と話していたら、今通訳への関心が日本です ごく高いと教えてくれました。どうしてかというと、鳥飼玖美子さんや西 山千さんのお名前が、あの頃パーッと出たんです。お二人は日本の同時通 訳の草分け的な存在の方ですけれども、月面着陸の時に大活躍されたそう なんです。

鈴木:私はアメリカにいて日本にいなかったものですから、残念ながら見ていないの ですが。

常盤:それで同時通訳への需要が今ものすごく高いと言われました。今 まで英語をずっと勉強してきたんだし、通訳の学校に行きなさいと言われ て、ISSという老舗の学校で、通訳の勉強を始めました。でも、向こうの 大学で講義を聴いてきたし、人と話も出来たけれど、通訳をするというこ ととは全く違いました。 ちょうど大阪万博の前ですね。日本もいよいよ高度成長で国際化の時代に 入り、日本の製品が本格的にアメリカに輸出され始め、海外旅行も許され るようになってきた頃です。月面着陸は同時通訳でなければ何の意味もな い、ニュースバリューもなくなってしまう生中継でした。鳥飼先生は現 在、立教大学のコミュニケーション学科の教授をされていますが、西山先 生とともに同時通訳の草分け的な存在ですよね。 そのお二人のお名前を聞いていて通訳の勉強を始めました。ISSというの は、当時日本の通訳の学校としては歴史も長く、古風ですけれど、しっか りした教育をしていた学校でした。今でも麹町に学校があります。先生が とっても良く、いい学校でした。

鈴木:当時そういう学校に入るのは大変で、英語が話せないと難しかったと思い ますが、英語を話せる人はあまりいなかったように記憶しています。

常盤:おっしゃる通り、あの頃は英語を実際に使う人はそう多くはいなかったで すね。でも、日本中、英語、英語という機運はあったので、かなりたくさ んの生徒さんが来ていました。何より先生が良くて、中でも相馬雪香先生 が素晴らしかった。尾崎咢堂のお嬢さんで、西山さんと同じくらいの時か ら同時通訳として活躍しておられた方ですけれど、ものすごく怖い先生で した。通訳者としての基本的な心得を叩き込まれたこと、それが一番良か ったことで す。 心得というと、例えばどういったことですか。 例えば、皆が揃ってよく怒られたのが、日本語がダメだということ。通訳 というのは、会社の偉い方が高いお金を出して、英語で相手の方にキチン と伝えたいという時に使います。その時にあなたたちのような子どものよ うな日本語でどうしますかと、すごく怒られました。英語をテープで聞い て日本語にする時に、「うーんと」という調子で言ってしまうでしょう? そういう習慣が通訳中にも出てしまうわけです。彼女は殿様の奥様のよう な方ですから、日本語も本当にお綺麗で、そういう日本語はとても話せる ようにはなれませんでしたけれど、でもその教えはとてもためになりまし た。それと、相馬先生がもう一つおっしゃったのは、何もペラペラ英語を キレイに発音できるだけ が通訳ではありません、それは大切なことでは ありません、外国の方の話すきちんとした英語を何回も聞いて、そういう 話し方を学びなさいということでした。学校はテープをたくさん持ってい ましたから、文化・国家といった大きいものではなく、座談をしている英 語の先生の会話などをテープにとったものを貸してくださり、それを聞き なさいと言われました。 それを聞きながら、訳すんですか。 訳すというよりも、今はシャドーイングと言いますけれど、昔はリピート と言っていた学習方法です。ちょっと遅れてテープのあとを付いていく方 法です。初めのセンテンスを2wordsくらい聞いて、リピートする。また つけて、聞いて、止めて、言ってみる。すごい初歩的なことですけれど、 これを繰り返しました。実は私、英語を聞いて後から繰り返して言うだけ なんて、初めはすごく侮辱だと思ったのですね。本当に、生意気で何も知 らなかったから。 60年代70年代は思想・哲学を語った時代ですから、小難しいことを語る のに、不慣れな英語よりも日本語でという、英会話を軽視する風潮があっ たような気がします。

鈴木:コンプレックスの裏返しかも知れませんね、英会話 に対して軽視しながらもコンプレックスをもつという二面性、もっとも、 アメリカに行く前の私などその最たるものでした。

常盤:非常に複雑な時代でし たね。 心理的にそうでした。ですから、私、英語を話せることをあんまり出した くなくて、あなたアメリカから帰って来たから英語が出来るでしょうと言 われても知らん顔していましたものね。

鈴木:同時通訳の仕事について ISSで訓練を受けて、その後で実際にお仕事をされたのですか。

常盤:ISSに行って学んでいる2年目ぐらいから通訳の仕事を少しずつ始めまし た。ISSの通訳予備軍という感じで登録して通訳の仕事をしていたので す。

鈴木:英語から日本語の通訳が多いのでしょうか。それとも日本語から英語でし ょうか。

常盤:両方です。ただ、これには、自国語にしか訳してはいけないというルール がありまして、例えば、私でしたら、日本人のために通訳をするときに は、英語を日本語に訳すだけなのです。外国人が英語を日本語に訳すこと はしないということです。ですから、普通は、自分の国の言葉にしか訳せ ないですけれど、でも歴史的に日本人は例外なんです。例えば、アメリカ 人がフランス人と話す場合、フランス人のフランス語を、アメリカ人が自 国の英語に訳しますけれど、日本人はその英語から日本語に訳すだけでな く、日本語を英語に訳してもいいのです。そういうやり方です。日本人の 通訳者は両方やらないとちょっと間に合いません。

鈴木:なるほど。日本人だから日本語にする方が必ずしも楽であるということで はないと。 違いますね。 アウトプットとしての日本語をよく知りつくしていなければいけないでし ょうし、レベルの高い英語の言説にはそれに釣り合うレベルの日本語の訳 でなければいけないでしょうからね。

常盤:そうですね。通訳を使ってくださるお客様は、会社の経営者の方が多く、 子供のような変な日本語で稚拙な表現で話されると、苦痛に感じられるで しょう。ですから、よい日本語が求められました。 英語に通訳する場合はいかがでしたか。 英語にするということは、一番嫌いな和文英訳ですが、時間はかかるけれ ど、日本語で何と話しているかちゃんと分かっているので、それをまとめ て英語に訳す方が、むしろ楽と言えば楽なんです。それに外国人の方は、 私達の下手な英語でも寛大に聞いてくださる方が多かったですね。

鈴木の感想

ジョージタウン大学のキャンパスにて、右端常盤先生、その左隣筆者 May1974

私の手元に、1974年5月のある午後。ジョージタウン大学のキャンパス の大きな木の下で、芝生に車座になり語らう日本人留学生の一群を撮っ た写真があります。若かりし日の常盤先生を囲み、私ほか何人かが談笑 しています。常盤先生は既に同時通訳家として活動されており、当時ワ シントンで活躍されている著名な同時通訳の方々と交流されていたの で、国際会議の通訳の難しさについて話していたのかもしれません。後輩の私が言うのも何ですが、英語でも日本語でも常盤先生の語りには独 特の切れとユーモアがあり、多くの人を虜にしました。私もその中の一 人で、常盤先生が物事をどう表現するのか一緒に話すのが楽しみでし た。当時、根拠もなく粋がっていた粗忽者の私を評して、一瞬の風のよ うにさらりと出たことばが、「黒沢明の映画の中で棒を持って出てくる ような青年」でした。あまりに「言い得て妙」のこのことばに不覚にも 合点してしまった私は、アントニオ猪木に平手打ちされて喜ぶ猪木ファ ンにも似た心理に見舞われ、感激して喜ぶ始末でした。ことばでは説明 できない絶妙なレトリック、そして粋が闊歩した都会で磨かれた常盤氏 の表現力はとても魅力的です。次回(その2)も常盤先生の話をお楽しみに。

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