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永井荷風『あめりか物語』感想(その6)...2話「牧場の道」の先に待つ悲劇の終着駅「州立癲狂院」の日本人出稼ぎ労働者




はじめに

「永井荷風『あめりか物語』感想...「牧場の道」その足跡を追う」(その5)の続き(その6)です。

(その5)の最後では、友の話から、数週間前に垣間見た三等船室乗客と同様の境遇の出稼ぎ労働者の何人かがこの精神病院に送られたことを知り衝撃を受けます。捨て置きなりません。そこで

「君は知っているかね。どうして狂気になったのだろう。」

と問い、上甲板から俯瞰するだけではなく下甲板で何が起きているのかその核心に迫ろうとします。

この質問の骨子は『あめりか物語』に収録された全話に状況を変え繰り返されます。恐らくほぼ同年配で自然主義作家として活躍し始めたドライサーTheodore Dreiser(1871-1945)が、渡米2年前1900年に出したSister Carrie (1900 )を読んでいたのでしょう。

ドライサーも仏作家エミール・ゾラÉmile Zolaの自然主義信奉

永井は渡米する前にエミール・ゾラÉmile Zola(1840-1902)の自然主義naturalismに傾倒しその作品を読んでいました。産業革命以降の急速な工業化の中で無力な個人が陥る事件や境遇を写実的に描写します。写実主義と異なるのは、工業化社会が巨大な歯車のように回り個人を否応なしに巻きこむいというメタファーを用いてその原因を探ろうとするところです。

ドライサーはニューヨーク市で1906年に起きた殺人事件をテーマにその原因を探るべく、1925年に代表作『アメリカの悲劇』An American Tragedyを発表します。永井が渡航する3年前の1900年にSister Carrie を発表しています。この作品はゾラの作品『ナナ』Nanaにテーマ自体そっくりで、永井も渡米する前に読んでいたものと思われます。NanaSister Carrie も貧しくて出世を夢見る男女が都会に出て一時は成功しますが結局は破滅していくという悲劇を描いていますが、個人では止めようもない社会の歯車に巻き込まれてしまった結末として描かれています。

永井が彼が信濃丸で出くわした三等船室の出稼ぎ労働者の境遇は、これら作品の主人公たちと被ります。自転車の散策に誘ってくれた友は、それに目をつむり他人事のように平然と話しますが、聞き手の永井はゾラやドライサーと同じ自然主義的視線で出稼ぎ労働者の境遇、悲劇を運命論的に描いていきます。

明治36年渡米の1人の日本人出稼ぎ労働者の悲劇

『あめりか物語』の1話「船房夜話」と2話「牧場の道」の背景にはアメリカにおける中国人や日本人の移民に対する民衆感情、それに対する連邦政府や州政府の移民法による対策とういうか政策が大きく関わっています。現在、アメリカとメキシコ国境沿いに南米からのアメリカを目掛けて多くの難民が押し寄せ、移民法による対策が次期大統領選挙の争点にもなっていますが、今から100年以上前はその矛先は日本人出稼ぎ労働者に向けられていたのです。

その様子は外務省『日本外交文書デジタルコレクション対米移民問題経過概要』の最初の数ページに克明に記録されています。公文書に写実主義とか自然主義があるとしたらこの公文書はまさにそれです。『あめりか物語』の背景にあるのは特に1882年の中国人移民排斥法辺りから永井が滞在した明治36年(1903年)から明治40年(1907年)前後の日米間の移民移間する動静です。外務省記録二頁~五頁に当たる部分です。

「当初本邦ヨリ米国二渡航スルハ主二学生二シテ遊学ヲ目的二スル者多カリシカ一八八五年契約労働禁止法一八九一年米国移民制限法制定ヨリ渡米ノ目的ハ一変し最早留学二非スシテ純然タル出稼ギトナリ…」とあります。中国人移民排斥法は、「教師・学生・商人・旅行者以外のすべての中国人(つまり労働者)の入国を禁止し、すでにアメリカに在住している中国人も、帰化してアメリカ市民権を取得することを禁止した」ようです。察するに中国人の移民は日本人の移民より数十年先行していたので人数も多く排斥の矢面に立たされたのでしょう。

中国人の移民が制限されるとその空いた部分を日本人が埋めることになったようです。永井らが信濃丸に乗船した1903年当時はその10年後で、永井、柳田君、岸本君は教師・学生・商人・旅行者の範疇ですから比較的自由に、出稼ぎ労働者は恐らく中国人契約労働者の代替で別範疇の取り扱いを受けたものと思われます。

少々それますが、外務省記録中「唯在米友人の通信二眩惑セラレ」という文言から、出稼ぎ労働者であれ、教師・学生・商人・旅行者であれ、出立する前に既に渡米し滞在している人たちと通信しそこを頼って行ったことが察せられます。(その5)で触れた「或る友」とは永井がそうして頼って行った教師・学生・商人・旅行者の一人なのでしょう。いずれにせよ、(その5)で紹介したこれら出稼ぎ労働者についての多分「或る友」の言説は、この外務省記録の内容をそっくりそのまま反映しているかのようです。

それにしてもこの外務省記録を読むと事実とは言え、同胞の境遇をまるで突き放したかのように達観的に描写しています。当時はこうだったのでしょうか、「或る友」もこれら出稼ぎ労働者の宿命について達観的です。1970年代のことですが筆者はカースト制度が残るある国の留学生が、同胞の異カーストで起きている貧困問題をまるで他人事のように話すのを聞いて違和感を覚えたことを思い出しましたが、ほぼそれに近いものを感じます。

古参出稼ぎ渡米者の餌食になった新渡米の出稼ぎ夫婦の悲劇

こうした背景の下、災難に会った若い夫婦について友が話すのを聞き、永井は自然主義的タッチで綴ります。ドライサーは新聞記者でもあったことから多くの事件を書き留めて後に自然主義的タッチで描写し世に訴えんとしていますが、永井も同様の視線で描いています。恐らく、永井もドライサーも、ゾラがドレフェス事件を追って執筆したAlfred Dreyfusを読んでいたに違いありません。

出稼ぎ夫婦に降りかかった事件の概要は以下の通りです。友がまた聞きした話を永井が綴っています。

永井らが渡米する6,7年前に起きた事件です。そばの花咲く「紀州の野(貧村)」に住んでいたある若い夫婦が、ハワイから帰国した出稼ぎ労働者がアメリカは金のなる木生え特に女の労働賃金は男のそれよりよいと豪語するのを耳にします。まさに『日本外交文書デジタルコレクション対米移民問題経過概要』にあるように「一攫千金の妄想を抱き家財道具を売って」発音さえできない不案内のシアトルに向かいます。港に着くとそれを狙ってたむろする宿屋の案内こと、周旋屋に案内され路地裏の一室に連れていかれます。そこで高い斡旋料を払わされた上、夫の方はそこから20キロ離れた山林の木こりに雇われ、妻はシアトル市内の洗濯屋に雇われて働くことになります。夫婦は金を貯めて帰国できるまでの辛抱と割り切ります。

夫が木こりが住む一軒家に着くと、そこには5,6年前に出稼ぎに来ていた3人の古参が待ち受けています。そのうちの一番強そうなのが親方で、いわば牢名主のようなもの、昼間はみな西洋人の親方の監督の下で働き、終わると一軒家に戻ります。親方は「兄弟」のように結束しよう、そうでなければ知らない土地では生きられないともっともらしく言います。それに気を許し身の上話をし妻をシアトルに残してきたことを告げます。3人ともそれは危険だ娼婦として売り飛ばされてしまうからすぐさまここに連れて来て一緒に暮らせ、そうすれば自分たちも毎日の食事、掃除、洗濯の世話してくれるよう、まるで夫婦を慮るように諭します。夫は即座にシアトルに赴き妻を連れ戻してきて夫婦と3人が同居することになります。しばらくは平穏に暮らすものの、ある日曜日親方が本性を現しとんでもない申し出をするのです。お互い「兄弟」仲間であるからには自分たちにも妻を差し出せと言うのです。多勢に無勢どうすることも出来ずに夫は唖然として立ちすくすのみ、彼らが欲望を満たす中そのまま妻の絶叫を聞きながら発狂して失神し、気が付けばアサイラムに収容されるという結末になってしまうのです。

永井は友から聞いた経緯を淡々と描写しますが、それがかえってこの事件の悲惨さを浮きだたせます。確か中学校(現高校)時代に江戸文学と演芸が好きが高じて落語家になろうと噺家の下で終業したとも言われており、その影響なのか、紀州出身の夫とこれら無頼の3人の出稼ぎ労働者の間で交わされる会話は、方言ではなく下町江戸弁調で綴られています。もしかすると落語より講談にちかいのかもしれません。Charles DickensのOliver Twistに出てくる悪党どもの会話のように、これら古参の出稼ぎ労働者と夫(婦)の間の会話はトントンと妙に歯切れがよく進みますが、悲惨な状況をピンポイントで突き刺すように絶妙な表現を駆使しています。

話し終えるや友は言います。

「然し仕方ないさね、そういう運命に遭ったのが不幸と云うより仕様がないさね。…..強い万能の神に抵抗することはできない。」

と「一人愉快そうに笑って」自転車を早めます。

永井にとっては「全能の神」は歯車のように回る社会という「運命」です。愉快そうに笑うの友とは対照的に永井には笑いはありません。「どこからともなく野飼いの牛の首につけた鈴の音が聞こえる。南の方ポートランド行の列車が町のはずれを走っている。」と無機質にこの話を閉めています。彼の耳には発狂した哀れな同胞の奇声が聞こえていたに違いないと思わせます。

筆者が1970年代留学中に出会った高齢の寡黙な日系1世

筆者は1968年から1972年カリフォルニア州に1972年1973年ハワイ州に滞在した時に多くの日系1世の方々と交流しました。尋常小学校を出て物心つく年頃になり貧困から抜け出そうと渡米してひと稼ぎして金を貯め日本に帰ろうと思っていたようです。ところが人種差別が酷くて思うように稼げず年月は経つのみ、やっと財を築き始めた矢先に第二次大戦が勃発して敵国民として財産を没収され収容所に収監されてしまいました。戦後はゼロからの出発貧困の中でも2世を大学に送り生活は向上し、その子供ら3世も物心がつき大学に通い始め日本人であることに誇りを持ち始めたのが筆者が彼等と出会った1960年代後半です。

1世は70才後半から80才になり引退し、2世、3世の時代になってJapanese  American Citizens League (JACL)を中心に日系社会の存在は力をもつようになりました。それと並行して本国日本は戦後の貧国から発展途上国へ、そして先進国になりつつあり、とてもを誇りにしていました。しかし、その表情にはどこか寂しさと悲哀が滲んでいました。ふと思いました。筆者が出会った80歳以上の方々の中には永井らが信濃丸で見かけた「汚い船底に満載されて」シアトルに渡った出稼ぎ労働者が居たかもしれません。

出身は東北、北陸、九州、中国、山陰、四国、中部各地様々な県でそれぞれの地方訛りが融合した日本語で話していました。同じ屋根の下で2世は英語と片言の日本語のバイリンガル、3世は英語のモノリンガル、家族の中でも日本語モノリンガルの1世は話す相手も少なく寡黙にして多くを語りませんでした。筆者が清水市出身と言うと涙ぐむように、にこっと笑みを浮かべ手を差し伸べてきたのを思い出します。広沢虎造の「清水次郎長伝」などを聞いて日本を思い出すのだそうです。

その手は60年もの長期にわたりきつく激しい労働を生き抜いてきた証です。肉厚で指先は大きくごつくて硬く真ん中はふんわりしていました。筆者が訪ねるとよく話してくれました。その様子は別稿「アメリカ留学を振り返って」(その4)に詳しく綴ってありますのでお読みください。筆者自身あの時出会った1世の方々と同じ年齢に達し、この「牧場の道」を読み返すうちに、あの1世の方々の顔を思い浮かべながらとりとめもない複雑な感想に駆られました。













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