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言語理解、翻訳、言語相対性ー機械翻訳考(その3)


はじめに

拙稿「機械翻訳考」(その1)(その2)の続きです。TOEFL Web Magazineの連載コラムFor Lifelong Englishに掲載した記事です。執筆は2022年3月です。


言語は相対的、Machine Translation(MT)もHuman Translation (HT)も絶対ではない

Machine Translation(MT)については様々な批判がありますが、グローバル・コミュニケーションに多大な影響をもたらすことは確かです。前々稿(その1)および前稿(その2)で、MTを代表するGT最新版Google Neural Machine Translation(GNMT)を取り上げました。Human Translation(HT)に比較すると、最先端のGNMTをもってしてもMTが未だ不完全であることは明らかです。HTはヒトの知能に、MTはAI(artificial intelligence人工知能)に依拠します。ヒトの知能は神経系(the neural system)の産物であり、創造力(creativity)、想像力(imagination)、柔軟性(flexibility)に富んでいますが、GNMTに内蔵されたヒトの神経系を模したニューラル・ネットワーク(neural network)は、それに追いついていないからでしょう。もっとも追いつけるかどうか疑問ですが、少しずつ近づきつつあることは確かで、それほど高度な翻訳を要しない日常のやりとりでは役立っています。これまでにヒトは多くのモノ、制度を作ってきましたが、最初から完璧なものはなく、使いながら改良してきました。MTもその道を辿るでしょう。   

前々稿(その1)および前稿(その2)で紹介したGNMTに関する批判記事は、MTは不完全で公的言説や文学的言説などの参照枠(frame of reference)として使われることへの危惧を示したかったものと思われます。それには異論はありません。ただ、これらの記事はHTを引き合いに出してMTの不完全さを指摘していますが、もしHTが完全であるとの前提での比較であるとしたら異論を挟みたいところです。というのは、HTも100 %とは言わぬまでもどの程度正確に原作を翻訳しているか疑問であるからです。翻訳者はまず原作を読み理解しますが、原作者の意図を100%正確に理解するのは不可能で、それに基づく翻訳にも同じことが言えます。すなわち、これら批判記事が指摘するMT(GNMT)の問題はHTにも当てはまり、翻訳(translation)自体が抱える問題です。結論を先に述べると、言語の相対性に起因する問題であるからです。 

アインスタインの相対性理論、時間、空間は絶対的ではない、言語は?サピアらの言語的相対論

Albert EinsteinのTheory of Relativity(相対性理論)[1]は、思考実験(thought experiments)[2]を重ね、それまでIsaac Newtonらが示した、時間(time)とか空間(space)を不変で絶対的なものと捉える考えを覆し、相対的なものと捉えて物体の動きを探りました。相対性理論はカーナビなどの機器にも応用されており、“8 Ways You Can See Einstein’s Theory of Relativity in Real Life”などの無料サイトに幾つか実例を紹介しています。絶対的(absolute)で不変とされてきた空間や時間などの事象は相対的(relative)で変化する、即ち、他の事象と相対的に変化しつつ存在するということになります。物理的事象が相対的であるとしたら、文化・社会・心理的事象である言語が絶対的、普遍的であるとは考えにくく、相対的であると考える方が自然です。

言語学、人類学、記号学の分野で、Einsteinと同時期に活躍したEdward Sapirとその弟子Benjamin Lee Whorfが、後にThe Sapir-Whorf Hypothesisと称する言語的相対論(linguistic relativity)を展開しました。この名称はEinsteinの相対性理論に影響されたようです。時間と空間、物体の速度と重量などの間の相対性に倣い、言語(構造)と思考(thought)の関係における相対性を説きました。[3]SapirとWhorfが生前に打ち立てた理論ではなく、死後この師弟の書いたものをまとめて編纂されたもので、その解釈にはstrong versionとweak versionがあります。前者(strong version)は、言語が思考・認知を決定するという主張です。言語的決定論(linguistic determinism)とも称され、物事をどのように認知・思考するかは言語構造が決定する(determine)という考え方です。

Mayflower号でアメリカ東部Massachusettsに移住したピューリタン(Puritans)のカルビン主義(Calvinism)神学における救済は神からの宿命(predestination)とする決定論(determinism)を連想させるかのごとく、人の思考は言語構造の宿命的結果ということになります。言語の構造の違いが思考の違いを生むので、理論上外国語学習や言語間の翻訳は不可能ということになり、strong versionは支持されていません。[4]後者(weak version)は、言語(構造)は単に思考・認知に影響を与えるというものです。1970年代後半からweak versionを実証する多くのエビデンスが寄せられています。[5]20世紀後半の科学技術の進歩によりEinsteinの相対性理論を実証するエビデンスが寄せられているのに似ています。

別稿で触れますが、思考の神経学(neurology of thinking)[6]を探索すると、思考・認知の媒体(media)は言語だけではなく、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚の5感覚に対応する諸媒体の総合的作用であることが分かります。重篤な言語障害を負っても思考・認知活動が続くので、言語的相対理論のstrong versionは誤りです。そうした点を踏まえると、言語が思考に、そして、思考が言語に影響を与えるとするweak versionは神経学的にも頷けます。また、外国語学習との関連で本稿のテーマであるtranslationを掘り下げれば、weak versionの言語的相対理論を裏付ける例は多数見つかることでしょう。しかしながら、上述した通り、第158回そして第159回を執筆中に目にしたMachine Translation(MT)に対する批判記事は、言語を相対的なものではなく、絶対的、普遍的、不変的なものと捉える論調を採っているように見受けられました。同一言語間においても、ましてや、 翻訳を通しての異言語間における言説の解釈に絶対的、普遍的、不変的なものはありません。ある言説の解釈は十人十色、他言語への翻訳も十人十色です。HTが絶対的であるとの前提でMTを批判するのであれば、まず、その前提からして間違いです。HTも十人十色の翻訳を生み、その読み手も十人十色の解釈をします。すなわち、言語(構造)が相対的であるからには、ある言説についての解釈は相対的であり、他言語への翻訳も相対的であり、その読者の解釈も相対的ということになります。

Google Translate(GNMT)も不完全、Human Translate(HT)も完全ではない

拙稿「機械翻訳考」(その1)および(その2)で紹介した批判記事のように、確かにMT(GNMT)はHTに比べで紹介したような不完全さが目立ちますが、HTのアウトプットも絶対的で完全ではないということです。これらMT(GNMT)批判記事は、MTとHTのアウトプットの違いについて事細かに比較しているものの、HTとM Tがそれぞれ原作をどのように理解するかについては通り一変の比較に終始し物足りません。一例を挙げると、Hofstadter氏はMTとHTによる中国語の「南书房行走」の翻訳に関し、HTでは翻訳者(Hofstadter氏自身)は「南书房行走」にまつわる百科事典的知識を基本にそのメタファを解釈・理解して翻訳するが、現在のMTでは字義通りの翻訳しかできないと指摘するに留まっています。これだけではHTの優位性が強調され、そのアウトプットが絶対的な参照枠であるかのような印象を与えてしまうかもしれません。

その2)で哲学者かつAI研究者のJohn Haugelandが4つのホリズムを通し中東のお伽噺などから字義を超えたモラルを理解するとの指摘を紹介しました。また、Roman Jakobson が、“segodnya vecherom”(good evening)というたった2語で40通りのmessagesを生成したKonstantin Stanislavski(元モスクワ劇場の役者)、それを聞き40通り聴き分けたモスクワ市民のエピソードを通し、ヒトが字義(literal meaning=denotation)から状況に絡め何通りもの情緒的含意(conveyed meaning=connotation)を生成・理解する能力を有することを紹介しました。いずれもヒトは字義を超え言説の生成と理解する能力を有することを究明しています。Haugelandは現在(1990年)のAIにはそうした能力が無いと指摘しました。[7]

Jakobsonの例は役者の40通りのメッセージを視聴者が聞き分けたとありますが、それは常套的表現を巡ってのことで、ヒト同士のコミュニケーションにおいても内容が複雑になるにつれ、発信者の真意が受信者に理解されず、齟齬・誤解が生じる可能性が高まります。言語相対性からくる宿命です。HTにおいても、翻訳者の原作の解釈・理解、それに基づく翻訳は相対的で、どの程度正確に原作者の意図を反映しているか疑問です。複数の翻訳者による同一作品の翻訳が微妙に違うのはその為です。

翻訳者が原作をどう解釈し翻訳するか、読み手をその翻訳をどう理解するか

HTと言えども、原作の解釈それを受けての翻訳が必ずしも原作者の意図を100%反映するとは限らずブレが生じます。その翻訳の読み手もそれぞれ独自の解釈をするので更にブレが生じます。言語が相対的であり絶対的なものではないことから生じる結果です。ただし、日常コミュニケーションでMTを使う際、指摘されるようなブレがあることを前提に様々な方法で補完します。それを踏まえた上での建設的なMT批判であれば将来に繋がります。[5]要するに、HTであれMTであれ、次の3つのStepsを踏みます。Step 1: Language 1(L1)で書かれた原作を解釈・理解する。Step 2: Step 1で解釈・理解したものを Language 2 (L2)に翻訳する。翻訳作業はここまでですが、非常に重要な部分としてStep 3: L2話者である聞き手・読み手がStep 2での翻訳結果をどのように解釈・理解するかも含みます。取り上げたMT批判はStep 3に関連するものです。

その1)述べたとおり、コミュニケーションにおいては、当事者コミュニケーター間で、例えば、AとBなら、A→B→A→B→A→B…のように、A発信(メッセージ生成)→B受信(メッセージ解釈・理解)しBが発信(返答)→Aが受信とのなるサイクルが続きます。AもBも発信者(メッセージ生成)・受信者(メッセージ理解)の二役を演じます。この際に当事者それぞれの価値観がメッセージの生成においても理解においてもスクリーニング機能を果たします。これを広義の法性(modality)、すなわち、コミュニケーションのメッセージに現れる心的態度と称します。この法性(modality)自体が非常に相対的で予測不能です。社会・文化の多様性、構成要員である個人の多様性、はたまた、状況による多様性から容易に察せられます。Haugeland はこれを状況的法性(situational modality)と称しています。[9]

Step 1における翻訳者による原作の解釈・理解は、翻訳者独自の法性(modality)が反映されたもので相対的です。作者が意味(meaning)または意図(intention)したところと違うという可能性も十分ありえます。また、Step 2においても、翻訳者の頭の中で行われる、対象言語であるL2(second language)を介する解釈・理解と母語であるL1(first language)を介する解釈・理解が合致するとは限りません。その上、翻訳者独自のL2社会と文化に関する解釈・理解が独自の法性(modality)として作用し翻訳に影響を与えます。Step 3においては、そのL2翻訳アウトプットを目にし、耳にするL2話者たちもそれぞれが独自の法性(modality)でそれを解釈・理解することになります。こうしたStep 1からStep 3までの過程は、MTはおろかHTでさえ、解釈・理解における齟齬、違いが生じるのは自然の成り行きです。

良きにつけ悪しきにつけ、原作でのメッセージの意図・意味とは全く違うものが伝播される可能性は大です。これが翻訳の難しさと言えるでしょう。HTも決して完璧ではないのです。過去の外交史では翻訳が齟齬から齟齬を生んで悲劇に繋がったケースがあります。また、翻訳が新たな解釈と理解を生み世界的文学賞に繋がった例もあります。「機械翻訳考」(その4)と(その5)で取り上げます。

2022年2月28日記

[1] 初期の特殊相対性理論(special theory of relativity)と後の一般相対性理論(general theory of relativity)があります。
[2] 頭の中で想像することによる実験です。地上にある時計と光の速さで飛行する乗り物の中の時計を想像上に比較し、時間の相対性を導き出しました。具体的エビデンス(光の速さで走る乗り物に乗って得られるエビデンス)の欠如した空想と切り捨てる方法論から生まれない理論です。そのほか、空間が重力により曲がることからブラックホールの存在を解き当てるなど、思考実験は一方法論として確立しています。
[3] LSA(Linguistic Society of America)の“Language and Thought”と称するサイトがその要点を簡単にまとめています。
[4] 1960年代に教育学者Basil B. Bernsteinはこの仮説のstrong versionを曲解した言語政策を提唱しました。言語変種を洗練コード(elaborated code)と制限コード(restricted code)に分け、Standard English(SE)を前者、African American Vernacular English(AAVE)を後者に分類し、アフリカアメリカ系児童の教育の遅れはAAVEの使用にあると考えてS Eの使用を推奨しました。 William Lavovら社会言語学者はAAVE話者の調査を通してそうした主張の誤りを指摘しています。第161回第162回でも述べたとおり、AAVEはリッチで奥の深い変種です。構造上の詳細はR. FasoldのThe Sociolinguistics of LanguageThe Sociolinguistics of Societyにもあります。
[5]これら2つのversionsの存在そのものが解釈・理解の多様性を実証します。特にweak versionは多様性に繋がります。
[6] Neurology of Thinking (D.F. Benson)など勧めます。拙著Exploring D. F. Benson’s Neurology of Thinking: A Search for the Neurological Foundation of Communication and Language (English Edition) Kindle版で言語コミュニケーション論の視点からレビューしました。現在、その日本語版を言語コミュニケーション小冊子に分けて執筆中です。 次の2冊は完成しました。「D.F. Benson 著『思考の神経学』と⾔語コミュニケーション(1) 背景的考察」 Kindle版、「D.F. Benson著『思考の神経学』言語コミュニケーション(2)思考に影響を及ぼす低次神経疾患と言語コミュニケーション」 Kindle版。
[7]その他、John Searleの“Indirect speech Acts”, P. Griceの “Logic and Conversation(Implicature) , D. Gordon and G. LakoffのConversational Postulates、そして、George LakoffのWomen, Fire, and Dangerous Thingsはも字義を超えた意味を扱っています。
[8]HaugelandとJakobsonらはヒトのコミュニケーション・メカニズムを追究し、メッセージ生成・理解がいかに相対的、創造的で多様であるかを例示し説明しています。HaugelandはAIのアルゴリズムが絶対的アウトプットを求めている限り、ヒトの理解に近づけないと述べています。
[9]後半にある Haugelandの“situational modality”を参照してください。詳細に関心ある読者は、拙著「言語とコミュニケーションの諸相: 理論的考察から言語教育まで 』(テキスト) Kindle版、同じく、拙著The Semantics of the English Modals: A Case of Multi-sensory, Multilateral Generation of Meaning in Communication (Revised Edition) (English Edition) Kindle版でも詳しく説明しています。


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