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精神についての一考察

人間は、肉体と精神で成り立っているといっも、私の肉体はたった一個きりだが、精神には二人の私が認められる。

私甲。私乙。

二人はとっても仲が良い。

なぜなら、全幅の理解する心があり、隠し事を一切しないから。

二人っきりの部屋で、余人に邪魔される事なく、多忙でも無聊(ぶりょう)でも落ち着いて語り合う。

その場では、甲がいつも話し手で、乙は聞き役に徹するが、必要とあらば、乙が声になって外に出て行く。

文章を理解する時は、甲が文句を読み上げながら、乙が注釈を企て、甲が記録する。

また、その際、校合を行う場合、乙が昔の資料を探して来て、甲がそれを机の上に押し拡げ、乙が判定する。

二人は対面しながら、一緒に学習していく。

そして、苦楽を常に共にしながら、甲が時々、乙を励ます。


彼らの居る部屋は、全方向からの外光によってのみ、明るく浮かび上がる。というのも、この部屋は全方向、ガラス窓になっているから。それ以外はない。

故に、外界の出来事を絶えず、気にせぬわけにはいかない。

基本はこのようである。

しかし、人により、暗かったり、明るかったり。

暗いと、お互い相手が見えない。自分が何処に居るのかも分からない。

外部から、君の真ん前にもう一人君が居ると、忠言されると、何となく、実物だか、幻だかが居るような気がしてくる。

そして話し合いを試みるが、酷く味気ないので、とっても遣っていられず、絶縁する。

先ず、暗くて何も話しの種が見つからない。

そして思わず、自分の心の赴くままの言動を闇の中の相手に投げつけ始めると、声の調子、趣味の粗野、ちぐはぐな思念に嫌気というか、興ざめを感じて、もうお互い、もう一人の自分の事など、頭の片隅にも引っ掛かってはいない。

普通、二人よりも一人の方が、切ないと考えるが、この“私”はそんなことつゆも思わない。

それは、瞬時に、絶えず、無抵抗に、外界に接している、極めつきの社交性を己れは享受していると彼は推量しているから。

そして、客観的な助言者が居ないので、手当たり次第な言動に身を任せる。

振り返る人生は、良くも悪くも、後から知った、偶然の結果。

その時、何となく侘しさを感ずる。


また、明るいといっても、明る過ぎるということはない。

より適度の明るさに向かっていくが。

そして、適度な明るさであればあるほど、外界の見栄えが端正で、元々、趣味の良いことに気がつかされ、二人の性向は、より晴朗になる。


そして、時の経過と共に、己れの外界との懸隔、同類との相違に次第に気がつき始める。

いわゆる、自分が見えてくる。

そこに見出だす快い感銘を深めたい気分、愕然とする見劣り、それが実は錯覚ではないか究明したい気分が、二人の“私”を魔に取りつかれたように、忙しない活動へと駆り立てる。

甲があれやこれやと指し示す外界の事象、己れの様子、経験により蓄えられた知識、仮想の繰り返しなどを統括しながら見定めている乙の表情には、もう昔の無邪気さは残っていない。

“私”達はそこから、大まかに二つに分かれる感慨を受け取る。

一つは、初めてそれを認めた時、あまりの心地良さに陶然とし、後には、いつとはなく羽毛のように悠然と柔らかく“私”の意識の中に降(お)り来たり、“私”はいつでもそれを余裕を以って迎え入れる用意が出来ている。

そして平生は、何処なりと空気のように漂ってでもおれば宜(よ)いのである……

もう一つは、初めてそれを認めた時、“私”の意識の中を半鐘のような鉄の器が突如けたたましく鳴り渡った後に、気力の酷い消耗に満ちた空漠たる時間を残していくようである。

そして次からは、不意に訪れる毎に、遣り切れないほど手厳しい電撃を“私”に加えて、その都度傷を深く刻みつけていく。そして、“私”達はますます陰鬱な気分に染まりゆく……

このように、“私”を悩ませる部類に入る感慨は、“私”に好ましく受け取られる感慨との比較で、不公平にも“私”の意識の中にその痕跡を留める能力を持っている。しかも、それは“私”の意識を荒廃によって侵食するという性格である。

尚かつ、感慨全般の起因となる事実は一度発見された後、一つとして消え去らず、永久に“私”について廻る。

なぜならば、我々人間は、年と共に老けはするが、その個体としての特殊性を形成する条件は、不自然さに関わらない程度に推移するものの、根本的に一生涯継続することが、経験により知られているからである。

従って、“私”を襲う、この悩ましさは掻き消されることなく、また、その痛手を癒やす対価に事欠いた、我々の人生を脅かし続ける一つの永遠な災いの源となる。

そして、年を加える毎に発見される、この“私”にとって負の事実は、どれも消失しないので、その数は増大の一途を辿るばかりである。

十歳で十であったものが、五十歳では三百とも五百とにもなっている。

そして、それらの数が増大すればそれだけ、“私”はより不幸のはずである。

かくも不条理…に対するこの怒り、この怯(おび)え、この不信をいかに晴らせばよいというのか。

一体何故(なにゆえ)に、“私”は煩悶の内に一生、引き留められるのであろう。

討ち果たすべき敵(かたき)を探し求める“私”の目に、いつの頃からか途切れなく居続け、一生涯そこに暮らし明かすであろう“この部屋”の姿が浮かび出し始めた。

それは、一つの個体であるが故、必然的にその発生を見る苦悩の種を抱えた己れに、“私”を終生繋ぎ止めておく場で、今では正に、そこから永久に出ることのならぬ出来の良い監護の様(さま)である。

その存在は、一点の隙もなく“私”を包み込み、部分部分では個体をなす物の総体としての外界、その奇怪でない時間的な変遷の様子に、カメレオンのように摩り替わっているものとして捉えられる。

それは、何処か一箇所を捕(とら)まえて、それ自身としての特徴を明示することが出来るようなものではない。

従って、この取りつく島のない構造、作りは、全く文句の付けようがなく、何処をどう直せばよいのかという類推をきっぱり撥(は)ねつける。

況して、全体の構造を探ろうという野心など、埒(らち)もない。

それは唯、飽くことなく全体的なものとして捉えられるが、明確な形として顕れないもの。

故に、形の中に生き、それを操作するのみの世界の存在である“私”にとって、“この部屋”とは異次元のものであり、“私”及び同類の全く関与出来ないものである、そして、我々と全く別の者の手になるものである、と言うほかはない。

そして、この永遠に何も覆りそうにない現実は、“私”を底なしの絶望に引き込む一方で、“私”に決然とした踏ん切りを促す。

それは取り敢えず、己れのなし得ることに満足し、その資質を人生の中でより善く活用していくことが、“私”にとってひたすら得策である、と確信することである。

そして、その確認の後、先ず、“私”を動かす根本である“私”の内から流露する情念が、なるべく一様に“私”の目に明らかになるよう広範に件(くだん)の“この部屋”に拡がりゆくのを“私”は感ずる。

そして同時に、それを透かして、間断なく表出する秩序だった外界の様子に“私”は目を凝らす。

絶え間ない情念の流れは、次々とその意に添った仮想を形づくり、そして、その完全な現実化を“私”に迫る。

そして、それらの仮想と己れが身を置く一つの秩序性の現況、それまで蓄積されてきて恒常的に保たれている知識との間で較べ合わせが行われ、そこから、それら仮想の現実化が結果的に“私”にとって、益を齎(もた)らすのか、それとも、不利益なのかという算定がひっきりなしに下されていく。

そしてそこでもし、“私”が意志の力が強大で、その上、理知に磨かれ、飽くまで適正さに生きることを志向する人物であるならば、“私”にとって益の見出だせない仮想は逸早(いちはや)く捨て去り次ぎに当たりたい、益の見出だせる仮想はその確実性をより深く見極めたい、そして、現実化するに適当であると判断された仮想が、力の及ぶ限り無駄なく、確実に達成されるようにと“私”は熱望する。

そして、以上の要求を満たすことに資する情報を得るため、己れを含めた全ての外界の様子に対し、隈(くま)なく五感の働きを行き渡らせようと心掛ける。すると、“私”の意識を冷静さが覆い出す。

そしてまた、“私”は、外界の様子は“私”の意に添わず変転し、“私”の人生は終局に向け止(とど)まることを知らず、それはいつ訪れるか分からない、とよく自覚しているので、“私”の何(いず)れの思考が、また、“私”の命令により己れが行う何れの現実的な行動が、絶対に時宜を逃したものとならないよう切に気をつけている。すると、限りなく冷静に保たれた“私”の意識に、一刻の猶予もない真剣さが加味されていく。

そして、その内、全ての外界を映し出す、お馴染みの“この部屋”は静寂に包まれ、それが飽くことなく深まっていく。そして、無際限に延び拡がって、いつ果てるともなく引き続いていく。

経世済民。😑