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【短編小説】鯛と野蒜の和え物―役人と宴席―

1 夕刻の兵部省

 朝平《ともひら》は宴に呼ばれるのが嫌いだった。
 酒も空世辞も苦手で話すこともなく、出ても得るものは何もないと感じていた。

 だが同じ兵部省に勤める仲持《なかもち》は、当然のように朝平も宴を楽しみにしているものだとして話しかけてくる。

「朝平殿。もうそろそろ出発しないと、太師様の屋敷の宴に遅れますよ」
 質朴に建てられた兵部省の館舎に、おっとりと急かす仲持の声が響く。
「わかってる。もうすぐに片付ける」
 仲持の呑気な明るさに少々の苛立ちを覚えながら、朝平は諸国の衛士の名前が書かれた名簿の巻物を箱の中にしまった。

 兵部省は武官や衛士の管理を行う部署であり、朝平は若いなりにそこでそれなりの役職をもらっている。省全体で見ればさらに高位の人間も多いが、少なくともこの部屋で働く数十人の中では朝平と仲持の位が最も高い。

 朝平はさらに筆や小刀を硯箱に入れて、机の上を整理した。

 片付けが終わったのを見届けると、隣に坐っていた仲持は上機嫌で立ち上がる。

「では、行きましょうか」
「ああ」

 ため息を吐きたい気持ちで、朝平は頷いた。

 そして宴に呼ばれていない官位の低い役人を中に残して、朝平と仲持は黒皮の靴を履いて館舎を出た。
 二人はそれほど立派な生まれではないものの一応は貴族の息子であるので、働き続けなければならない下級役人よりは暮らしは楽である。

 兵部省のすぐ近くには荏分門という名前の門があり、その小さな平門をくぐればすぐに宮城から出ることができた。

 都は暖かな春を迎えており、夕方でも外の風はやわらかった。
 大内裏の近くには高位の貴族が住む広く立派な屋敷が建てられており、道を挟んで続く築地塀も綺麗に整備されている。

 六位の文官である朝平と仲持は、深緑色の朝服に白い袴を身に着けて黒絹の帽を被り、人の行き交う大通りを歩く。

 仲持は夕焼けに照らされたぼんやりとした横顔で、何やらずっと幸せそうに朝平にとりとめもない話をしていた。
 どうしても暗い面持ちになる朝平は、適当に相づちを打ってごまかした。

(このまま気付いたら、全部終わっていればいいのに)

 朝平は心の中でつぶやく。

 しかしまだ宴は始まってもいなかった。

2 太師の館の宴会

 現在の太師、つまり太政大臣であるのは藤原靖家《ふじわらのやすいえ》という男である。
 帝の外戚である有力一族の人間として政敵を一掃しすべての権力を手中に収めた彼は、大内裏にほど近い場所に広大な住居を構えて、華やかな宴や歌会をよく催していた。

 朝平と仲持が靖家の屋敷に着くと、重々しい造りの門の前には従者が立っていた。二人は従者に名前を告げて敷地内に入り、正殿の方へと進んだ。
 靖家邸の正殿は瓦葺の黒い屋根が白壁に照り映える大きな建物で、柱も庇も立派だった。

「ここは兵部省の館舎よりも、ずっと手が込んだ造りだな」
「海の向こうから来た職人に、新しく建てさせたものですからね。会場の庭園はこちらだそうです」

 異国風に朱が塗られた柱を朝平が見上げると、仲持は建造の背景について軽く説明した。すでに楽の音や人々のざわめきが耳に入ってはいたが、それは建物の中から聞こえるものではなかった。
 朝平は壮麗な建築に目を奪われながら脇殿の横を抜けて、仲持と共に正殿の裏にある庭園へと回った。

「わあ、いい時間に来れましたね」

 庭園を目の前にした仲持が、嬉しそうに声を上げる。
 正殿と同様、靖家邸は庭園も広大で華やかだった。

 庭の中心には橋がいくつか架け渡された大きな池があり、砂利が敷き詰められた岸辺には大小様々な石が置かれている。その周囲には庭を鑑賞するための東屋や楼閣が配されて、夕焼けの赤い光の中で水面に映って揺れていた。
 咲き誇る桃の木の下では宴の出席者が席に坐って話しており、その様子はまるで一枚の絵のように穏やかな美しさがある。

(さすがに太政大臣の庭なだけあって、派手だな)

 朝平は仲持とは違いまったく高揚した気分にはならなかったが、目の前の光景に一種の納得は覚えた。
 塞ぎ込んだ気分の朝平には夕日の中で輝く庭園はあまりにも眩しく、すぐに目をそらしてしまいたかった。

 しかし仲持が目を輝かせたまま庭を眺め続けているので、朝平も仕方がなく付き合って見ていた。
 しばらくそうやっていると、背後から男性の声がした。

「仲持殿、よくぞいらした」
 名前を呼ばれた仲持と共に後ろを振り返ると、立っていたのは笑顔の中年の男だった。紫色の衣を着た身体は恰幅がよく、帽を被った頭は少し禿げている。
「義兄上。今夜は、どうぞよろしくお願いいたします」
 にっこりと男性に微笑み返して、仲持は挨拶をした。仲持は宴には姉婿が来ると言っていたので、彼がそうなのだと思われた。

 仲持の姉婿らしき男は、快活な声で応えて仲持の肩を軽く叩いた。

「ああ。太師様は今日も様々な料理を用意してくださっているそうだ。で、そちらが……」
「私と同じ兵部省に勤めている紀朝平殿です。年も近い、私の友ですね」

 男が朝平の方を見ると、仲持は朗らかにその紹介をする。
 朝平は仲持のことを一度も友だと思ったことはなかったが、否定ができる状況ではないので失礼のないように受け答えた。

「朝平です。仲持殿とは、親しくさせていただいております」
 軽く朝平が頭を下げると、男は満足そうに頷いた。
「私は藤原盛仁《ふじわらのもりひと》だ。若い知り合いが増えるのは嬉しいものだな。今日は都で一番の太師様の屋敷と宴を、よく見て楽しまれるといい」
 そう言って朝平に言葉をかけた後、盛仁はまた次の知り合いの方へと歩いて行った。

 朝平は盛仁の遠ざかる背中を見ながら、仲持に尋ねた。

「そういえば仲持殿の姉婿は、藤原盛仁殿だったな」
「そうですよ。父上が進めた縁談です」

 仲持は何とはなしに答えた。

 藤原盛仁は最近、太政大臣靖家に重用されている貴族の一人である。
 その彼に娘を嫁がせることを成功させた仲持の父はなかなかのやり手であり、義弟となった仲持のこれからの出世の展望も明るいと言える。

 そうした人物に友と思われることは本来得なことであるはずだが、朝平はやはりそれほど嬉しくはなれなかった。

 それからあと何人かと挨拶をすませて、朝平は仲持と並んでそれぞれ定められた岸辺の席に坐った。

 日は沈みかけあたりが暗くなってきたので、庭のそこかしこでは松明による明かりが灯された。明かりに照らされ宵闇に浮かぶ桃の花の色は幻想的で、隣の仲持はまた素直に感動していた。

 せわしなく動き回っている従者たちを見ながらしばらく待っていると、屋敷の主である靖家と何人かの位の高い客人が奥の楼閣の方から歩いてきた。彼らが坐ってちょうど用意された何十かの席はすべて埋まり、その後靖家の挨拶があってやっと宴は始まった。

 宴にはまず酒礼があり、最初に客人と主との間で盃が交わされた。

 盃は酒瓶と共に席を巡り、何度も飲み干されては満たされる。
 酒瓶として使われているのは黒地に唐草や花が描かれた漆胡瓶で、優雅に弧を描く取っ手が目を惹いた。

(酒は本当に苦手だが仕方がない……)

 順番が回ってきた朝平は、赤い漆塗りの盃に満たした酒を嫌々飲んだ。
 濁酒はむせそうなほどに香りが強く、飲み込んだ後はひりつくような風味にのどが渇いて苦労する。
 しかし次に順番を待っていた仲持は、軽々と飲み干して朝平に話しかけた。

「他ではなかなか飲めない、旨酒ですね」
「ああ、めったにない味だ」

 旨酒らしさなど感じる余裕はまったくない朝平は、早くも頭がぐらつくのに耐えながら当たり障りのないように答えた。
 盃は仲持から先も、順番に回っていった。

3 饗膳と権力と

 酒礼が終わった後には、食事が振る舞われる饗膳が始まった。

 仲持の姉婿の旅仁が予告していた通り、脚付きの膳に載って運ばれてきた食事は朝平が普段一日で食べるよりもずっと量が多く、また豪華なものだった。
 大小様々の土師器には、鮑の塩辛、干蛸、冬瓜の酢漬などの酒にあう品々がそれぞれ載っている。飯は白米を蒸した強飯で、椀にいっぱいに盛られて温かな湯気をあげていた。

(料理は普通に旨いことは旨い。こういう場じゃなければ、さらにもっと旨いだろうに)

 飯はつややかで良い味で、味の濃厚な鮑の塩辛などと併せて食べればより一層美味しい。
 磯の香を残した干蛸も噛むと素材の味がしっかりと感じられ、絶妙な歯ざわりの酢漬は間に挟んで食べれば食欲がわきそうなほど良い酸っぱさだ。

 しかし酔って気分が悪い朝平は、あまり箸が進まなかった。

 各地の珍味が集められた献立を見ているとそれだけで国が栄えていることを実感できるものの、同時に重い税をかけられ疲弊した地方の存在を思い起こさせる。
 用意された品々の中でも、一番大きな皿に載っているのが小鯛の焼物だった。出席者全員に一匹ずつ鯛があるのは豪勢なものだと朝平は思う。

 香ばしく焼けた小鯛はふわりとそそる匂いをさせながら、白くなった目で朝平の方を見ていた。
 箸でほぐして取って食べてみると、よくしまった新鮮な身にちょうどよく塩味がついているのだが、それでも朝平の気分が晴れることはなかった。

(本当なら鯛は好物のはずなんだが……)

 以前に食べた鯛の美味しかった記憶をぼんやりと思い出しながら、朝平は海藻の入ったさっぱりとした汁もので白身を飲み下してため息を吐く。
 するとふと耳に、酒焼けした男の声が聞こえてきた。

「しかし昨年は、難儀したなあ」

 声の方を見てみると、少し離れた場所に靖家が坐っていた。それほど身分の高くはない中級役人の朝平であるが、仲持の人脈のおかげなのか大声なら届くほどには靖家とその側近と席が近い。
 靖家は巨漢で髭が濃く、さらに派手な文様の入った舶来の衣を着ていたのでよく目立っていた。

「やっとあの反乱の始末も終わって、ようやく肩の荷が下りたわ」
「太師様がいたからこその、今日のこの都の春です」

 盃を持った靖家が大きな声で笑い、取り巻きの貴族の男たちが機嫌をとる。
 反乱というのは、昨年の夏に起きた柏守王(かしわもりおう)の乱のことである。

 柏守王は靖家の専横によって皇太子を廃された人物であり、靖家を深く恨んでいた。そこで彼は靖家に反感を抱いている他の貴族と手を組み、謀叛を企てた。靖家の政治は民や敵対者に犠牲を強いるものであったので、彼の支配に反対する者は大勢集まった。
 しかし謀叛に関わっていたものの中から密告者が出たことにより計画は露見し、首謀者である柏守王とその仲間は獄に送られ拷問により獄死した。他にもこの事件に連座して処罰を受けた貴族や役人は数えきれないほどおり、その処遇がすべて決まったのはつい先日なのである。

(そして政敵を滅ぼし尽くした靖家は、この国の絶対的な権力者になった)

 松明の光に照らされる華麗な庭園での宴を目に映しながら、朝平は靖家の持つ力の大きさを実感した。このにぎわいの中心にいるその髭の男に比べれば、朝平は姿が見える近さに坐ってはいても水泡のように小さな存在である。
 そうした決定的な空しさを噛みしめていると、唐突に隣の仲持が朝平の視界に入った。

「朝平殿。もしもふきが苦手なら、私がもらってもいいですか?」

 そう言って仲持が、箸を付けていない朝平の器に入ったふきの煮物をじっと見る。
 ふきがそう好きではないことは確かなので、朝平は呆気にとられながらも頷いた。

「ああ、ありがとう」
「じゃあ、いただきますね」

 仲持はまったく遠慮することなく、朝平の分のふきを箸でとって食べた。
 自分が食べたかっただけなのか、それとも親切や気遣いだったのか、朝平には判断がつかなかった。

(とりあえず、楽しんでるふりくらいはしようか)

 我に返った朝平は、残っている料理をぽつぽつと口に運び、周囲の会話に合わせて表情を作った。少しずつ酒も飲んでみたが、甘く濃い味はやはり苦手だった。

 横目で仲持を見てみると、社交的な彼は今度は朝平から見て又隣の男と話をしていた。仲持は朝平のことを友人の一人に数えてはいるが、ありがたいことにその分類は特別なものではないようだ。

 それから楽士が演奏する琴の音色は何度か変わり、時は過ぎて宴は次第に終わりに向かった。

「宴は楽しいですが、帰る時間が寂しいですよね。朝平殿とはまた明日も会えますが、それでも何となく別れを言うは物悲しいです」

 人が減っていく宴席を見ながら、仲持が名残惜しそうに言った。
 近くに残っているのは、もう朝平だけだった。

「そうだな」

 朝平は口では同意した。
 しかし明日も仲持と会うという前提は朝平には救いにはならず、心の中ではひとまずの終わりと別れにただ安心していた。

(この場所は財は尽くされているが、それだけだ)

 松明の明かりはいくつか消えて暗くなり、池は今は空の月と桃の花を映してる。

 靖家の屋敷は庭園も建物も美しいが、これだけのものが建つまでに何が行われてきたのかを考えると、褒め称える気は起きなかった。

 夜が深まり冷え込んだ風に、朝平は衣の襟を引き寄せた。

4 鯛と野蒜の和え物

 帰り道の夜の大路。

 朝平は仲持と別れた後、一人になって歩いていた。傍流の貴族である朝平の家は、それほど大内裏から近いわけではないので徒歩で帰るには少し距離がある。
 あまり飲まなかったし飲めなかったのだが、気分はかなり悪かった。

(だから酒礼は嫌なんだ……)

 込み上げる吐き気を堪えて、朝平は必死につばを飲み込み息を吸う。頭は重く、足下はふらついた。
 それでも何とか前に進んで自宅に大分近づいたころ、朝平は一件の空き家の前を通った。

 土塀の向こうに見える檜皮葺の屋根は荒れ果てて草が生え、門も壊れて板が外れたり傾いたりしている酷い有様の家である。
 しかし朝平は、かつてのその家の住民を知っていた。

(あの桃の花はまだ、残っているんだな)

 朝平は立ち止まり、主屋の脇に植えられた桃の木を月明かりの中で塀越しに見上げた。
 それは門の外からでもよく見える高さの木で、靖家の屋敷の桃の花とは違う淡く儚げな花をつけている。

(昔はあの木の下で、俺も宴を楽しんだ……)

 以前には朝平にも友と呼べる存在がいて、ささやかだが憂鬱ではない宴で共に食べ語り合った。
 その思い出の残る場所が、この家だった。

 ◆

 今夜と同じように桃の花が満開を迎えていたある春の日。
 その宴にいたのは朝平と屋敷の主である瀬良久麻呂《せらのひさまろ》、そして紀春勝《きのはるかつ》の三人だった。

 久麻呂はちょうど朝平と同じ年に官衙に勤め出した貴族の子弟で、春勝は朝平と同じ一族出身の武官で共に久麻呂と親しくしていた。
 若い役人の三人は星空の下、屋敷の外に張り出した縁側の上で料理が並んだ卓を囲んだ。

「もう本当に、このごろは食べる飲むしか楽しみがないよ。あとはずっと宮城で働いている気がする」
 横になって片肘をつき、久麻呂が卓の上に置かれた高坏から榧の実を取って食べる。
「でもお前の和歌は、いつも皆に褒められてるじゃないか」
 春勝は盃を片手に、武官らしく角ばって日に焼けた顔で久麻呂に尋ねた。

 そのときちょうど鯛の和え物を惣菜にして強飯を口に含んでいた朝平は、黙って二人の会話を聞いていた。

 久麻呂は三人の中で一番に和歌が得意で、帝に献上される作品に詠んだ歌が選ばれたこともある。また目元が凛々しい顔は端正で、婦人によく好かれるのも久麻呂だった。
 だが久麻呂本人は自分が評価されることにそれほど喜びを感じていないらしく、榧の実をまたもう一つ口に放り込みながら首を横に振る。

「あれは仕事の一環で、楽しいものじゃない」
「そんなこと言わずに、今日も何か詠んでくれよ。この桃の花とか一つ」

 やる気なく振る舞う久麻呂をからかうように、春勝は満開の桃の花の木を指さす。
 久麻呂はふてくされた表情で起き上がり、卓の上から今度は茹でた皮付きの里芋をとった。

「いやだね。朝平がこの里芋で詠めばいい」
 くちびるを尖らせた久麻呂が、里芋をかじって言い捨てる。
「なんで急に俺で里芋なんだよ」
 急に名前を出された朝平は、口の中の飯を飲み込んで抗議した。
 春勝はその様子を眺めて、面白そうに笑っていた。

 大切な人と語り合う時間は楽しく、空も花も何もかもが鮮やかに目に映る。
 気心が知れた者同士なので無理して空きっ腹に酒を飲む必要はなく、朝平は気分よく飲み食いした。

 料理もとても美味しく感じられ、特に小振りの器に盛られた鯛と野蒜の和え物が飯の進む味だった。
 小振りな鯛を三人で分けたため量はそれほど多くはないものの、生のまま刻んで醤酢で和えた鯛は歯応えがあって、噛むほどに旨味が口に広がった。また細かくすりおろされた野蒜のぴりっとした刺激が、鯛に絡んだ醤酢の甘酸っぱい塩辛さを引き立て食欲をそそる。

 野蒜の味がくせになった朝平は、鯛の和え物と強飯をゆっくりと大事に食べつつ、盃の酒に口をつけた。
 本来飲酒は苦手な朝平だが、醤酢の風味が酒が良く合うのでほんの少しだけなら飲むことができる。酒瓶の中はお湯で薄めた粗酒だが、かえってそれくらいが朝平にはちょうど良かった。

 ささやかな酒の風味を楽しみながら、朝平はつぶやいた。

「俺はこうしてときどきゆっくり食べて飲むことができれば、他に望むものはないよ」

 すると久麻呂は不思議そうに朝平を見た。

「そうか? 俺は本当に霞だけを食べて生きていけるなら、世を捨てて山で暮らしたいが」
「会うたびに二人は、その話をしてるよな」

 久麻呂が里芋を食べながら不平をもらし、春勝が茶化して応える。
 話の流れはそれほど明るくはならないが、それでもほろ酔いの良い気持ちの中、友の声が返ってくるのは心が安らいだ。

 しかしそうした満たされたひとときのある日々にも、いつか終わりが待っていた。

 そのころはちょうど太政大臣である靖家の専横が徐々に深まっていた時期で、政治は乱れて民の暮らしはより貧しいものになった。

 貴族として生活には困っていなかった朝平は諸々の問題に対してできるだけ見て見ぬふりをしていたが、どうやら久麻呂は違っていた。久麻呂は冷めたふりをする一方で靖家の政治に憤りを抱えていき、それはいつしか明確な叛意となっていたらしい。

5 二人と一人

 そして三人で集まった昨年の初夏の日。

 久麻呂は目の前の料理に手を付けず、それまでとは違う決意を秘めた朝平の知らない顔をして、朝平と春勝に言った。

「近々柏守王様が謀叛が起こされる。俺は柏守王様側に属そうと思っている。朝平と春勝はどうする?」

 どうすると問われても、自分が謀叛を起こす側に立つことなど一度も考えたことがなかったので、朝平は言葉につまった。
 だが春勝の方は久麻呂に近い気持ちだったようで、すこし間を置いただけですぐに答えを出して久麻呂の問いに答えた。

「俺はお前と同じ選択をしたい。俺だって奸臣が好き勝手にやっているのを、放っておくことはできないからな」

 春勝の低くよく通る声が、一人取り残された朝平の耳に響いて通り過ぎる。

 志を持った二人は通じ合い、朝平とは違うどこか遠い場所で生きる人になっていた。

 久麻呂と春勝は遥か高い場所から様子を伺うように、朝平の方を見た。
 実際にはそのときはまだこの先も三人でいられると信じてもらえていたのだろうが、少なくとも朝平はそう感じた。

 靖家が権勢を誇る一方で民が重い税や労役で苦しんでいることのおかしさには、朝平もずっと気付いてはいた。だが自分が直接命を脅かされているわけでもないのに抗おうとするほど、正しさを求めているわけでもなかった。

「俺は……」

 友が下した決心に何も言えないまま、強い意思のない朝平は黙り込む。
 顔を伏せると卓の上に並んだ焼き魚や酒瓶が目に入った。

 やがてそれが答えなのだとまず幼いころからの付き合いがある春勝に伝わり、じきに久麻呂も同様に察した。
 知らぬ間に二人と一人になっていたことを、朝平はそのとき深々と思い知らされた。

 それから卓の上の料理をどうしたのか、二人とどう別れたのか、朝平はよく覚えていない。

 ◆

 数か月後。

 柏守王が計画してた謀叛の企ては密告によって明らかになり、久麻呂と春勝も反逆者の一味として獄に送られた。
 二人は他の関係者と同じように厳しい取り調べを受け、久麻呂はそのまま獄死した。拷問で落命しなかった春勝も、流罪先に送られる途中で死んでしまった。

 二人と親しかった朝平も関与を疑われたが、久麻呂と春勝は訊問から逃れるために偽って朝平の名を挙げることはしなかったらしい。結局謀叛が発覚したころにはかなり疎遠な関係になっていたため、朝平は深く追及はされなかった。

 謀叛に関わった者が厳しい処分を受ける一方で、密告者の男にはかなり高い位が与えられたと後日聞いた。朝平は密告もしなかったし昇進もなかったが、仲間を見捨てて生き残った人間としては彼と同じ立場にいた。

 朝平は正義に生きることができず敗北を恐れたために、反乱に身を投じる親友から背を向けた。だから二人とも死んでしまったとき、自分は自分の身を守る選択をしただけなのだと納得しようとした。

 しかし一人生き残って過ごしてみると今は、友の命を奪った側にいる人々と付き合わなくてはならない日々がこれからずっと続くことの方が、負けて死ぬよりも嫌だった。

6 友に置いて行かれた役人

 主の死んだ屋敷から立ち去って、自宅へ帰って着替えて寝る。

 そしてまた再び、望まない夜明けがやって来た。

 宮城の開門時間に合わせて鳴り響く鼓の音を聞きながら、朝平は役人の一人として朝服を着て門をくぐる。
 昨夜の酒がまだ残っており、勤務前の気分としては最悪だった。

 兵部省の館舎に入ると下駄箱にはもう十何人分もの靴が並んでいて、ちょうどそこに立っていた仲持が明るく挨拶をする。

「朝平殿、おはようございます。昨日はいろいろなお話が出来て楽しかったですね」

 楽しかったと言われても、朝平はまず仲持とそうたいして話をした覚えがなかった。しかし過剰にまぶしい仲持の笑顔に、朝平は早々に気疲れを感じながらも無難に返事した。

「おはよう、仲持殿。昨夜はどうもありがとう」

 朝平が感謝しているふりをしてお礼を言うと、仲持は嬉しそうにまた何かを話し出した。
 いつも通り適当に頷きながら、朝平は自分の靴を下駄箱にしまう。朝平が話を聞き流していることに、仲持が気付くことはなかった。

 仲持の家門が靖家と接近していることはともかく、仲持本人は善良で人の好い人間であることは確かである。

 しかし朝平は、その仲持の純粋さを好ましく思うことはできない。

 それは亡き友を忘れられないからというよりは、朝平のほとんど価値のない誇りの問題であった。大義のために死んだ友がいるのに逃げた自分が生きて楽しむのは、格好の悪いことだと朝平は思った。
 だから例えあの鯛と野蒜の和え物が器に盛られていたとしても、今の朝平は宴も酒も楽しむことはできなかった。

(俺は負けて死にたくはなかったけど、死にたい気分で生きたくもなかった)

 話し続ける仲持の隣を歩きながら、朝平はどうしようもなく重い気持ちで目を閉じそうになる。
 生き残った自分を卑怯者だと思いたくない朝平は、勝利者たちに迎合する人生を許すことができない。

 だが朝平は命を懸けることを選べなかった人間であり、また同時に結果的に親友の死によって守られてしまった存在である。
 だから望むものが何も無くなっても、ただ生きるしかなかった。

 何度憂鬱な朝を迎えても、役人として木簡や巻物に書かれた名前を写し続ける不毛な日々は続き、終わったはずの宴もいつかまた開かれる。
 招かれた宴がどんなに華やかなものだとしても、そこで仲持が何回朝平のことを友だと言ったとしても、朝平は輪から外れたところにいた。

 頭に入って来ない仲持の声に相づちを打ち、朝平は館舎の廊下を進む。

 朝平は中途半端に自尊心を持ち合わせていたために、今日も明日もどこにも属せないまま一人すべてが終わる日を待ち続けるのである。



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