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【短編小説】雪濃湯―霊廟に仕える巫女と犠牛―

1 飢饉の記憶

 空気が寒々と澄んでいた冬のその日。

 幼いハユンは飢えて死にそうになりながら、庭を這って雑草か何かを探していた。
 しかし食べれるものはもうすでに食べ尽くしてしまった後だったので、地面には枯草一つ残ってはいなかった。

(やっぱり、ない……)

 ハユンは諦めて、地面にうつ伏せに力尽きた。
 地面は固く冷たくて、土を口に含むこともできそうになかった。

 ハユンがそのとき住んでいたのは、大きな川から離れた台地にある寒村である。

 もともと豊かな土地ではないものの、本来ならそのころは各家で醤漬けを作り保存食としている季節を迎えているはずだった。粟飯と初冬に作った醤漬けが、冬中の食糧になるのだ。

 だがその年は大旱魃が起きており、米も白菜も何もかもが不作だった。
 雨がまったく降らずに稲がすべて枯れてしまった夏に、村の大人たちは怖い顔をしてこのままでは冬を越せないと話し合っていた。

 現実はゆっくりと時間をかけて、本当にその通りの未来を連れてきた。

(このまま私は、死んじゃうのかな)

 ハユンはどうしようもない空腹に、やせ細った手で地面に弱々しく爪を立てた。
 近くの木では、数日前に首を吊った父母が二人で揺れていた。彼らは残酷なくらいに優しくて、ハユンの人生も一緒に終わらせてはくれなかった。

(だったら、早く……)

 ぼろぼろになった木綿の服を、冬風が冷たく撫でていく。
 空を仰ぎ見る力もないまま、ハユンは両親と同じ場所に行けるその時を待っていた。

2 霊廟に仕える巫女

 布団の中だけが温かい冬の朝、ハユンは幼いころの夢から目覚めた。

 痩せた大地に、差し迫る飢えと死。

 もう夢の中でしか見ることのない故郷の記憶は、いつもハユンをあまり良い気持ちで起床させてはくれない。

(今日は祭祀の日だっけ。早めに厨房、行かないと……)

 ハユンはぼんやりとした頭で布団を畳み、洗面用に水を入れておいた盆で無愛想に成長した顔を洗った。
 今のハユンは餓死寸前のやせ細った少女ではなく、陵墓に眠る王たちに日々捧げる料理を作る巫女である。だから朝も夕も、ハユンは厨房に立たなくてはならない。

 水の冷たさにもあまり眠気が飛ばないまま、ハユンは寝間着から白色の上衣と赤色の裳に着替えた。その二色だけが、陵墓の巫女が身につけることができる色である。
 ただ寝起きするためだけの狭い部屋には、長櫃くらいしか家具はない。
 ハユンは編んで後ろに垂らした髪の先に布の飾りを付け、手早く身支度を終わらせた。

 宿舎から出ると、外は早朝特有の静謐な薄暗さに包まれている。
 ハユンは吐く息で手を温めながら、足早に職場である厨房へと向かった。

 ハユンが巫女として仕えている陵墓は、都から四十里ほど南に下った場所にある丘陵地帯にある。歴代の王の墳墓がいくつも造られた聖域であり、広大な土地にはハユンのような祭礼や管理に関わる人々だけが住んでいる。
 住民となる者は戸籍の情報をもとに卜占によって選ばれ、生まれ故郷から引き離されて陵墓の聖域の中で育てられる。

 ハユンは九歳のときに飢饉で死にかけていたところを陵墓の巫女に選ばれ、息を引き取る寸前に陵墓の遣いによって保護された。十分な食事を与えられて健康を取り戻したハユンは、料理方の巫女として教育され今に至る。

 巫女に選ばれてから十年間、ハユンは陵墓の敷地内から出たことがないし、この先も当分は外に出ることはない。ハユンは亡き王たちに仕える者として、この陵墓で働き続けるのである。

 ◆

 陵墓は広いが、ハユンが過ごすのは基本的には宿舎と厨房の周辺だけである。

「おはようございます」

 厨房に着いたハユンは、袖に手を入れて合わせて挨拶をした。
 常に清潔に保たれた土間の厨房には他の料理方の巫女が何人かいて、普段よりも早めに食材を運んだりしている。

 厨房の長であるソンスクは、調味料の入った壺を開けて味の確認をしていたが、ハユンの挨拶に気付くと応えて指示を出した。

「おはよう。今日のハユンの担当は、炊飯よ。それが終わったら、昼からの祭祀の設営を手伝ってちょうだい」
「はい」

 ハユンは返事をすると、米櫃のある方へと向かい米を量って研いだ。

 この国で祭祀といえば先祖を祀る行事のことを意味し、今日ここで行われる歴代の王のための祭祀は王族も参列する盛大なものである。この日のために陵墓に仕える者たちは皆、何日も前から準備を進めてきた。
 葬られた王たちのために食事を作るというハユンの職務自体は変わらないが、特に今日は重要な日なのだ。

 料理方が大体揃うと、ソンスクは竈の前に人を集めた。そして竈の火に手を合わせ、ソンスクは普段よりも念入りに長めに祈り始める。

「今日も作る料理が清らかであるように、お祈り申し上げます」
「お祈り申し上げます」

 ソンスクの言葉をくり返し、ハユンや他の料理方の巫女も竈に祈った。
 竈は神聖な火の神が宿る場所であり、祭祀の日以外でも料理を始める前には必ず料理方全員で祈る手順があった。その行為に本当に意味があると思っているわけではなくとも、それが習わしだと言われればやらなくてはならない。

 竈へのお祈りがすむと料理方の巫女たちは分かれて、それぞれに与えられた仕事に入った。

 炊飯を任せられたハユンは、研いで水に浸しておいた米を大釜に入れて水を加え、竈にかけて火の調節して煮立つのを待った。釜の中の米はかつてハユンが故郷で醤漬けと食べていた粟飯とは違う、真っ白な白米だ。

 このようにして作られた食事は毎日祭壇で亡き王たちに供され、半分が供物台の炎によって焼かれた後に残り半分は陵墓に仕える者たちによって食される。

 またさらに墳墓の中には日々の供物とは別に、副葬品として米や干し肉などの大量の食糧が棺ともに埋葬されていた。先祖が死後の世界でも食事に困ることがないように慰霊するのが、子孫である今の王の義務であるからだ。

(でも死んだ王様だけじゃなくて、生きている民が食べることも大事なはずなのに)

 勢いよく燃える竈の火を眺めながら、ハユンは考えた。
 燃やされたり葬られたりした食べ物のことを考えると、飢饉のときの記憶が頭をよぎることもあった。

 陵墓の外を見る機会は今はないが、現在も不作と重い年貢により飢えて死んでいく人々が少なくないと聞く。陵墓の中で消費されていく食料を飢饉に苦しむ農村に配れば、命が助かる人もいることだろう。

(ただの料理方の私には、どうにもできないことだけど……)

 ハユンは釜の水が煮立ったので、火ばさみで薪を抜いて火を弱めて米を蒸らした。

 実際に目にすることはなくとも、今この瞬間もかつての自分のように飢えに苦しんでいる人がいることを思うと頭が痛む。
 自分が悩んだところで無益だとわかってはいても、一旦考え出すと気分はなかなか軽くはならなかった。

3 祭祀と犠牛

 雨や雪が降ることもなかったので、昼からの祭祀は予定通りに行われた。

 白く曇った寒空の下、直近の前王の墳墓の前には綾錦の掛けられた祭壇が置かれている。

 祭壇には干し柿や菓子などがぎっしりと盛りつけられた高坏や豆腐や甘酒が入った椀などの様々な食膳が供物として並んでいた。
 どの食膳もハユンを含む料理方の巫女が時間をかけて用意したものである。

 また祭壇の後ろにそびえる墳墓はなだらかな丘のような形の巨大なもので、周りは御影石でできた柵に囲まれていた。

 指示通り準備を手伝った後にやることがなくなったハユンは、他の料理方の巫女とともに祭壇の前に整列して開始を待った。周囲には清掃を担当する者など、他の管轄の人間も何十人か整列していた。

(こんなに寒いと、凍羊肉みたいになりそう)

 ハユンは曇天の寒気にくしゃみをこらえながら、冷えて煮凝りになった羊肉の煮物を思い出した。人間も肉であるのは変わらないので、同じように煮て冷やせば煮凝りになることは間違いない。

 震えながら立っていると、しばらくしてやっと都から来た人々の行列が墳墓の方へとやって来た。
 ハユンは周囲の人間と同じように、袖に手を入れて合わせて敬礼の姿勢をとった。
 歩いてくるのは幼い新王とその母などの王族、そして臣下である貴族の男たちである。

 皆私語は慎んでいるため黙っているが、巫女の中には王族の人々の服装の華麗さに目を奪われ羨ましげにしている者も何人かいた。
 王族の若い女性が着ている上衣の色は巫女と変わらぬ白だが、生地には金織りで吉祥文字が織り込まれている。色とりどりの裳も帯飾りで華麗に彩られ、髪も金や銀のかんざしで美しく結い上げられてた。また臣下の男たちも、年齢を問わず上等な官服と紗帽で正装している。

(確かに綺麗だけど、私はもうすこし普通の方がいいな)

 ハユンは一番派手な母后の姿を見ながら、逆に少し冷めた気持ちになった。
 年齢不詳の彼女の着る藍色の大礼服は細かな霊鳥の刺繍が施されていて美しく、黒地の祭服を身に着け重そうな冠を被って歩いている幼い王よりもずっと目立っている。

 そして王族や貴族の入場が終わると、やっと祭祀が始まった。

 祭壇の前に設けられた広場に縄で縛られた褐毛の太った牛が運ばれてきて、続いてその牛を捌く庖人の男性も登場する。
 生贄の牛を祭壇の前で捌き供物とするのが、この祭祀の主要な儀式なのである。

 動きやすそうな薄茶の衣と袴を着た中年男性の庖人は普段は陵墓の敷地内の屠畜場で家畜を解体している人物であり、ハユンたちはいつも彼が捌いた肉を料理していた。

「左に東王神、右に西王神。五色の天と地を統べる帝……」

 普段のしがない姿から考えると意外なほどにはっきりした調子で、庖人は祝文を読み上げた。まずは祖霊へと繋がる神々への呼び掛けから始まり、次に歴代の王の長々しい諡号を並べていく。
 彼は右手に大きな庖丁を持ちながら、左手でまだ生きて荒く息をしている牛の額に清めた小麦をふりかけた。

「また死せる貴方等に供するため、この牛を屠り奉る」

 庖人は祝文の読み終えると、そのままもったいぶらずに庖丁で地面に横たわる牛の頚を切った。
 血が吹きだし、大量に流れていく。
 牛は抵抗して暴れたが、助手たちが縄を引っ張って抑えると次第に静かになった。

 絶命し動かなくなった牛を、庖人は黙って粛々と皮を剥いだ。
 祭祀という特別な場ではあるが、彼が最終的に行うのは日常の生業である。

 だが参列者は王族や貴族も含めて皆、その彼の日常の技に見入った。まだ無垢な表情の幼君も、母親の隣でぐずらずただひたすらに瞳に牛を映していた。

 亡き王に料理を作り捧げる自分の日常に意義を見い出せないハユンでさえ、祭壇で死ぬ牛の前では少し神妙な気持ちになる。

 やがて庖人は一通り皮を剥ぐと、今度は助手に指示を出して牛を仰向けに寝かせて、腹をさっくりと切り開いた。
 その刀捌きは鮮やかで、内臓は綺麗に露出した。

 庖人はてきぱきと内臓を取り出し、助手はそれを用意してきた壺に収めた。
 屠られた牛はその後、一部はやはり炎によって焼かれ、残りが参列者によって食される。

(供犠の牛に生まれれば、餌に困ることはないけど最後は殺される……)

 冬空の下で丸々と肉付きのよい牛が解体されていく様子を眺めながら、ハユンは犠牛の人生について考えた。

 餌を豊富に与えられて太った牛は、屠られるその日までは幸せだったようにハユンには思える。飢えて死ぬ苦しさを、犠牛が知ることはないからだ。
 一方で頚を切られたそのときに牛にどんな想いがよぎるかは、人間のハユンにはわからない。

 そして庖人は最後に、解体した牛の肉の塊を切り取り、助手が用意し点火した供物台の炎にくべた。
 金属製の台座の上で組まれた薪は勢いよく燃えて、肉塊は炎に飲み込まれてすぐに見えなくなる。

 後には、焦げた匂いだけが残っていた。

4 牛骨の煮込み料理

 庖人が牛を捌き終えて帰った後は、都からの参列者は陵墓に隣接した客庁で休み、料理方であるハユンたちは厨房で牛肉を調理した。

 牛のやわらかい部分はすぐに食べれる牛炙と牛膾にして、墳墓の前の祭壇と客庁で待つ参列者に持って行く。牛炙は牛肉を串に刺して炙ったものであり、牛膾は生のまま細切りにして芥子菜を添え酢をつけて食すものだ。
 王族や貴族の人々はハユンたちが作った牛の料理に舌鼓を打ち、その日はそのまま客庁に泊まった。

 残った骨や内臓は大釜に入れて長時間煮込んでおき、祭祀の片づけを終えた後で陵墓に仕える者たちで分け合う。陵墓に眠る王とその子孫たちが食した余りが、ハユンたちに与えられ食べることを許された部位なのだ。

 すべての作業が完了した夜、ハユンも他の巫女たちとともに控え室でその煮込み料理を食べた。

 鍮器に取り分けられた煮込み料理は雪のように白濁しており、肉の下には柔らかく茹でた素麺が隠れている。
 ほとんど味付けをしない真水で煮る料理であるため、巫女たちは食卓に置かれた薬味皿から塩や刻んだ葱、漬物などをとって、それぞれ好みの味に調節していた。

「新しい王様は、幼いけど利発そうだったね」
「うん、あんまり前の陛下には似てなかった。でも母方のソヌ氏が後ろにいるんじゃあ、どうなるかわからないな」
「ソヌ氏の政敵のファン氏も何か企んでるって噂だしね」

 他の料理方の巫女たちがあれこれ好きに雑談しているのを、ハユンは薬味をのせながら聞いていた。厨房の長であるソンスクが客庁から戻っていないせいか、皆普段よりも饒舌になっていた。

 彼女たちが軽い調子で話している通り、都では日々内部抗争が起きている。

 祭祀にやって来た都の高貴な人々は、男も女も皆綺麗な服を着て参列していた。だがその美しさの裏で政治は外戚によって私物化され、国は乱れている。
 現在の王も有力貴族が権力を握り続けるために立てられた幼君であり、実権は派手好きな母后の実家であるソヌ氏が握っていた。椅子の取り合いに夢中な彼らは、荒廃する国土を顧みることなく虚飾の世界に生きる。

 俗世から距離を置いているはずの巫女でもわかるほどに、王宮は腐敗し機能していないのだ。

(あの人たちがいなくなったら、国のお世話になっている私たちも困るんだけどね)

 食べることに集中したいハユンは、耳に入る会話を適当なところで聞き流した。

 そして雑念を払ってから、煮込み料理に入れた素麺を箸ですする。
 骨の髄までじっくりと煮込まれた湯が絡んだ素麺は細く喉ごしがよく、熱くとろけるような牛の旨味に祭祀の片付けで冷えた体も温まった。味は漬物を入れずに辛さを控えて、多めの葱と少量の塩でさっぱりといただくのが、ハユンの好みだ。

 しかしより味わって具の肉を食べようとしたところで、急にハユンは名前を呼ばれた。

「ねえ。ハユンはこれからこの国がどうなると思う?」

 妙に明るい声に顔を上げると、ちょうどすぐ上の先輩にあたるチャンヒがハユンの方を向いていた。
 会話の輪に入れてあげようという親切なのだろうが、ハユンは別にそれほど話したくはない。ただ食べることに、集中していたかった。

 だが場をしらけさせるのも避けたいので、心の中でため息を吐きながらもハユンは適当に思ったことを述べた。

「最近は農民の反乱もあるって言いますし、誰が権力を握っても国はまとまらないでしょうね」

 今のところは起きてもまだ大抵は鎮圧されているようだが、農民が蜂起したという話は近年徐々に増えている。門閥貴族が財を蓄える一方で、渇水や日照りなどの天候不良が続き農民の生活はどんどん苦しくなっている。例え今突然に政治に明るい人が国の頂点に立ったとしても、この状況を変えるのは難しいだろう。
 そうした現状を踏まえて、ハユンは話が重くなりすぎない程度に軽い言葉で答えた。

 するとやはりチャンヒはハユンが話した内容よりもとりあえず仲間外れの形にはしなかったという結果に満足したようで、適当な表情で頷いた。

「そういうの、本当に怖いよね」
「でもこんな貧乏な国であんなに着飾れば、恨まれるよ」

 チャンヒの隣のダソムが、興味で話題を母后の服装の話に逸らしていく。
 広がらない回答への反応を早めに切り上げて深い意味のない会話に戻る同僚たちに、ハユンは心底ほっとした。ハユンは彼女たちに付き合って、気付いているのに呑気なふりをして楽になれるとは思わない。

(冷めないうちに、早く食べよう)

 ハユンは今度は匙で煮込み料理をすくい、口にふくんだ。
 具として入っていたのはちょうど胃のあたりの白い内臓であり、噛みしめて柔らかな食感を楽しむと臭みの消えた淡泊な旨味が口の中に広がる。淡く濁った湯はあっさりとした風味で、少々ふりかけた塩が全体を引き締めていた。
 祭壇の前で暴れていた牛の体の一部を今食べているのだと思うと、ハユンは少し不思議な気分になった。

 そして牛の骨を煮込んだ大釜が空になった後には、供物の余りの菓子や果物を分けて食べる時間になった。
 菓子は薬菓や油菓、餅に飴。果物は大棗や梨など。余り物とは言え本来は亡き王に捧げられた品々であるため、すべて食卓の上に並べると壮観だ。

「あ、私は薬菓が食べたい」
「その林檎、こっちにもちょうだい」
「飲み物はお茶がいいかな。それとも甘酒?」

 巫女たちは主張し合いながら、せっせと菓子と果物の配分を進める。
 その隅でハユンはひっそりと、自分の分として咎められない程度の量を適切に小皿に確保して食べた。牛の煮込み料理をお腹いっぱいに食べたハユンだが、菓子と果物は別腹だった。

 花の形を模った薬菓は、小麦粉をごま油と酒で練って揚げたものを生姜と桂皮の入った蜂蜜に漬け込んだ菓子である。艶のある表面はきつね色で香ばしく、蜂蜜と油の染みた中身はとろりとしていて甘い。

 油菓は砕いたもち米を練って蒸したものを細長く切り、乾かした後に揚げてきな粉や松の実を飴でまぶした揚げ菓子だ。こちらは薬菓とは違うほどよい硬さの仕上がりで、中が空洞になっているので食べると軽い食感が楽しめる。

 その他の菓子も果物も、料理方で苦労して準備した甲斐がありどれもとても美味しかった。

(都の人たちはずっとこういう時間を過ごしているから、大事なことを考えられないんだろうな)

 普段は食べることのない豪華な菓子を一通り食べたハユンは、お茶を飲みながら都の人々が道を誤まる原因について少しだけ考えた。
 都の裕福な人たちはこうしたものも食べ慣れているかもしれないが、貧しい農民に生まれれば一生食べる機会がないことをハユンは知っていた。

 しかし目の前にまだたくさん並んでいる菓子や果物の味は、国土に横たわる問題を忘れさせるのには十分すぎるほどに甘美だった。

(薬菓は甘くて、柔らかい……)

 雑談を楽しみ続ける同僚たちの輪から外れて一人、ハユンは子供に戻ったように菓子をまた食べる。

 ハユンは陵墓の巫女であることに、誇りややりがいを感じているわけではない。料理方の仕事も人間関係も、迷いなく好きだとは言えない。
 だが今夜のように美味しいものに囲まれたときには文句は言えず、やはり黙って幸せになるしかなかった。

5 日常に戻って

 祭祀が終わって王族や貴族が帰れば、また普段通りの日常が始まった。

 庖人は屠殺場から捌いた牛肉を運び、陵墓の料理方の巫女は顔も知らない亡き王たちの食事のために厨房に立つ。
 その今朝にハユンが任されたのは、前菜を作ることだ。

 この国での前菜は、八角形の器に並べられた八種類の具材を薄焼きの餅で包んで食べる形で出されることが多い。
 ハユンは具材に火を通しそれぞれの味付けをすませると、黒い漆器に順番に並べて形を整えた。具材はもやしの和え物、しいたけの煮物、人参の甘酢漬け、錦糸卵、さやえんどうなど、白黒赤黄青の五色が揃うように選んだものだ。

(死んだ偉い人には豪華な料理が捧げられて、飢えて死ぬ人には何も与えられないっていうのがおかしいのはわかってる。だけど……)

 炒めた牛肉を箸で器に載せながら、ハユンは心の中でつぶやいた。
 自分の国が危ういことを折に触れて感じているハユンは、鈍感な顔をした他人が行ったり来たりする厨房の中でどうしようもない焦燥感に駆られることもある。

 目の前に豪華な食事がある一方で、どこかの誰かは過去の自分のように飢饉に苦しんでいる。このまま行けばハユンの国は崩壊を迎え、この陵墓が失われるときもいつかはやって来るのだろう。

 しかしハユンは、今日も死んだ王たちに料理を作るしかない。死ぬ前に反乱を選ぶ人々もいるが、彼らの選択をハユンが選ぶことはない。死者に仕えることが今のハユンを生かす役割である限り、逆らうことは決してできないのである。

(私に許されているのは、ただ近づく終わりに気付くことだけ。どうせ悩んだって、私はこの場所から離れられはしない)

 ハユンはかすかに焦げ目をつけた薄焼きの餅を、具材の並んだ八角形の器の中央に何枚か重ねた。

 なぜ死者のために料理を作るのか。ハユンはどうしてもその意味を考えてしまうが、正しさを求めてはいけなかった。良いか悪いかは関係なく、未来を犠牲にして過去を祀り続ける世界に身を置くのが、ハユンに与えられた定めである。
 その定めに従えば、少なくとも今日は祭壇から下げられた食事をもらうことができる。食事があれば、飢えずに食べることができるのだ。

(今日生き延びた先に何があるかはわからない。でも明日突然にあの祭祀の牛のように殺されることになっても、そもそもあの日死なずに巫女に選ばれたことが私の幸運だから)

 飢饉の中で苦しんだ幼い記憶と、祭祀で屠られて捌かれている牛の姿がハユンの頭の中で重なり離れていく。
 与えられた豊富な餌を食べて何も考えることなく肥えた犠牛は、やせ細って死にそうな幼いハユンとも、不安を拭えないまま漫然と生きている今のハユンとも違う。

 あの牛に近い存在なのはむしろ、終末が迫っていることも知らずに菓子や豪華な食事を食べ続けている都の貴族や、着飾ることに夢中になって王である息子よりも派手に装っていた母后である。

 しかし忍び寄る死から逃れられない状況にいるという点においては、ハユンを含む巫女も都の人々も皆犠牛と同じだった。
 犠牛が祭祀で亡き王たちのために捌かれるように、やがて訪れる亡国の日には飢えた民に捧げられる生贄として殺される存在が必要なのだ。

(あの小さい王様がいずれ屠られる牛じゃなくて名君になってくれたなら、違う未来もあるかもしれないけど。でもそんな期待はするだけ無駄だしね)

 賢そうな幼君も誰も国の崩壊を止めることはできない。

 それならば例え食料を求めて恨みこの陵墓に押し寄せて来た暴徒に殺される日が来たとしても、飢えて死ぬことに比べれば随分ましだとハユンは思わざるをえない。
 牛の煮込み料理で満腹になれるのも、様々な菓子や果物を食べる機会があるのも、すべてハユンが滅びゆく国の巫女に選ばれたからこその結果なのだ。

(これはこれで、よく出来た方かな)

 そしてハユンは最後に仕上げの三つ葉を餅の上に載せて、前菜を完成させた。
 八角の黒い漆器に様々な五色の具材が並んだ前菜は、王たちの墓前に似合う色鮮やかで華やかな仕上がりだった。



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