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【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/東の国の章(前編)


1 人と家畜

 朝が美しい場所、というのがこの土地の名前の意味だと、ギュリは領主である父親から聞いたことがある。その呼び名の通り、ギュリの住む村の朝は晴れれば美しい。

 穏やかな起伏のある枯れた野原の上に広がる冬の空は高く、東の山の端から昇る太陽があたりをまぶしく金色に染める。

 ギュリはその光の中、むしろで囲われた牛舎の戸のかんぬきに手をかける。
 家畜として飼われている牛に餌をやるのが、貧乏な領主の娘であるギュリの朝の日課なのだ。

「きょうは天気がよいから、牛を外に出してもそこまで寒がらなさそうだね」

 ギュリは戸を開けながら、もう一人の牛の世話係に声をかけた。

「うん。風も昨日よりは冷たくはないし、だいじょうぶだと思う」

 後ろからついて来たヨンウォルが、白い息を吐きつつ返事をする。

 ヨンウォルはギュリの家に雇われ働いている幼なじみで、ギュリと同じ年に生まれた八歳の少年だ。村の中でも身分が低いヨンウォルは貧相な身なりのやせっぽっちで、着ている綿の入った上衣も薄くて粗い。

 一方で貧しくても父親が領主であるギュリは、見目麗しいわけではないが髪は綺麗な三つ編みに結って、清潔感のある丈夫な服を与えてもらっている。

「じゃあえさをやったら外に出して、そしたら床のそうじかな」
「わかった。ぼくは先に糞をかたづけてるよ」

 そう言ってギュリが振り返ると、ヨンウォルは物置に置いてあった鋤を手して頷いた。ヨンウォルは使用人なので、何も言わなくてもより嫌な仕事をやってくれる。

 二人で朝陽が仄明るく漏れ入る牛舎の中に入れば、二頭の赤毛の牛が柵に収まり鳴き声を時折上げていた。鼻をつく動物の臭いには、とっくの昔に慣れている。

 ギュリは荷台で運んできた干し草を米ぬかと混ぜて、その牛の前に置かれている餌箱に入れた。それほど恵まれた土地ではないが、二頭分くらいの餌なら用意はできる。

 黒々した目で飼料をとらえた牛は身を屈めて首を伸ばし、餌箱に頭を突っ込んで餌を食べ出した。

(あさっては帝国から行政官がくる日だから、きょうは牛にとなり村のみつぎものを運ばせるって父様が言ってたな。きのうもきょうも、牛には働いてもらわないと)

 牛の口の中に消えていく干し草を眺めながら、ギュリは今日の牛にさせる仕事について考えた。

 牛はギュリたち人間にとっては貴重な労働力であり、それ以上でもそれ以下でもない。だからギュリは牛を可愛いと思ったことはないし、愛着を持ったこともなかった。

 だがヨンウォルにとってはそうではないらしい。ヨンウォルは牛舎の掃除をする合間に、実に愛おしげに牛の背中を撫でていた。

「牛はぼくよりもずっと大きくて、人のやくにたつ」

 ヨンウォルは若くて小さい方の牛の赤茶の毛並みを、嬉しそうにやせた手のひらで触る。

 その牛がひ弱な仔牛だったころ、ヨンウォルがとても心をこめて面倒を見ていたことをギュリは知っている。
 だからギュリは牛を可愛いと思うふりをして微笑み、幼馴染に合わせた。

「ヨンウォルが一生懸命にそだてたから、きっと立派にそだったんだよ」

 ギュリが優しげな言葉を言ってみると、ヨンウォルは照れてはにかんだ。

「ギュリはいつも、ぼくをほめてくれる」

 木造の屋根の隙間から差し込む太陽の光が、ヨンウォルの淡く茶色がかった髪を照らす。
 ギュリはその朝陽よりも明るいヨンウォルの素直な笑顔が、牛よりも何よりも可愛くて好きだった。

2 貢物の準備

 それから二人は牛を外に出し、牛舎の掃き掃除を行った。
 掃除が終わった後は、帝国に献上する貢物を運ばせるために牛に荷台をつなぐ。

 なぜ異国の役人に貢物を納めるのかというと、それはギュリたちが異国に支配されている国の民だからである。

 ギュリの村がある極東の小国・灑国は大陸の端に位置しており、北の国境を大嘉帝国という大国と接し、残りの三方を海に囲まれていた。

 大嘉帝国は大陸中央の荒野に住む牛飼いや羊飼い出身の傭兵たちが建てた国で、あるとき一人の男が神を名乗って主を殺し、自分たちの国を築いたのがはじまりだと言われている。
 八歳の子供であるギュリには難しい話はわからないが、その帝国は世界の半分を支配するほどに、とにかく強大な国になったらしい。

 百年ほど前に大嘉帝国の兵が攻めてきたとき、小国であるさい国はほとんど反撃することもできずに敗北した。そして次々と城が攻め滅ぼされていくのを目の当たりにした灑国の王は、自国を大嘉帝国の属国として存続させることを決断し、異国の行政官に国土を統治されることを受け入れた。
 灑国と灑国王は帝国に服属した。だから灑国の民であるギュリたちも、帝国の役人には頭を下げて丁重にもてなすのだ。

 やがて牛に荷台をつなげ終えたころに、ギュリの父親が貢物を運ぶためにやってきた。

「準備してくれて、ありがとうな」

 父親は二人の働きをねぎらうと、手綱を手に荷台の縁に座って、ぴしゃりと牛に鞭を入れた。牛はゆっくりと歩きだし、禿げはじめた父親の後頭部が牛の歩く速さで遠ざかる。

「じゃあ、行ってくるわ」
「うん。いってらっしゃい」

 ギュリは隣村へと向かう父親を、手を振って送り出した。
 使用人の身分であるヨンウォルは、ギュリよりもかしこまった言葉で、主を見送っていた。

 それからギュリとヨンウォルは、一日中農事の手伝いをした。
 父親が隣村の貢物を荷台に載せて帰ってきたのは、日が傾き夕暮れが近くなった時分である。

 日中の作業を終えたギュリとヨンウォルは牛を牛舎に戻し、二回目の餌を彼らに与えた。

「きょうも、よくがんばってくれたね」

 重い荷物をひいて疲れた様子の牛を、ヨンウォルはいたわるように撫でていた。

 朝には明るかった牛舎が夕闇に包まれ、やがてとっぷりと暗くなる。

 牛舎を出たギュリは、両手を上げて背伸びをした。

「ふう、おなかがすいちゃったな」
「牛たちのつぎは、ぼくたちがごはんを食べる番だね」

 後ろから着いてきたヨンウォルが、ギュリに頷く。

 そしてギュリとヨンウォルは自分たちの食事にありつくために、足早にそれぞれの家屋へと帰った。

3 支配された土地

 二日後、帝国の行政官が来る日は予定通りにやって来た。

「ギュリ。お前、上衣の結び紐が曲がっているんじゃないのか」
「これであってるよ。ちゃんと習ったとおりに、着たんだから」

 屋敷の玄関から外に出ると、先に外に出ていた兄はギュリの姿を一目見るなり文句をつける。

 ギュリは自分の着方に自信があるわけではないが、兄に世話を焼かれるのが嫌で意地を張った。

 領主の子として帝国の人間を歓待するために、ギュリやギュリの兄弟は一応の正装で着飾っている。
 兄や弟が着ているのは若草色の生地を黒地に金の文字が入った布で縁取った長袍で、ギュリが着ているのは色とりどりの縞模様が綺麗な袖の上衣と緋色が鮮やかな仕立ての良い裳だ。

 ギュリと兄がにらみ合っていると、残りの弟たちと一緒にやって来た父が、二人に頼み込むように注意をした。

「今日はとても大切な日だ。二人とも喧嘩はやめてくれんか」

 量の少なくなった髪を結い、渋い藍色の衣を着た父の姿は、身分がある程度はあるはずなのにみすぼらしく見えた。客人への対応のために緊張している父親が気の毒な気がしたので、ギュリと兄は次の言葉を飲み込み父親に従った。

(お祭りでもないのにちゃんとした服を着るのって、なんだかへんな気分だな)

 ギュリは父親や兄弟とともに行政官がやって来る川辺の広場へと続くあぜ道を歩きながら、雲が低く垂れ込めた灰色の空を見上げた。祝い事のときに着るはずの服を着てはいても、帝国の人間を迎える今日はめでたい日ではない。

 ギュリの住む村は特産も特になく都からは距離があり、主要な街道も通っていないため華やかさとは無縁だった。眺めて見えるのは、遠くの雑木林と冬枯れした山、そしてぽつりぽつりと点在する農家だけである。

 やがて広場に近づいてきたところで、ギュリは徐々に増える人の中にヨンウォルの後ろ姿を見つけた。ヨンウォルはギュリたちよりも身分が低いので、白い民服を着て牛を綱でひいて歩いていた。

(あれ、牛もつれて行くんだ)

 牛もいることを不思議に思ったギュリは、ヨンウォルに駆け寄って話しかけたくなった。けれども着ている服が違うと、近づいてはいけない気がしたので我慢した。

 砂利が寒々しい川辺の広場につくと、そこにはあたりの住民のほとんどが集まって家族ごとに列を作って並んでいた。

 家長であろう男性たちを先頭に、村人たちは隙間を空けて等間隔で立つ。きちんと正確に整列できるように、ギュリの父が仕事の一部を任せている土地の若者がいろいろと指図をしているようだ。
 しかも列に含まれているのは人間だけではなく、各家庭で飼っている鶏や犬も籠に入れられて連れて来られてきていた。

 人口が少ない土地とはいえ、人も家畜も整列している様子は得体の知れない雰囲気に包まれていた。

「父様、なんでみんな並んでいるの?」

 ギュリは妙な居心地の悪さを感じながら、父に尋ねる。
 父は領主の一家としての持ち場に移動しながら、ギュリの質問に平易な言葉で答えた。

「帝国の方々はこの土地にどれだけの労働力と収穫があり、どんな奴婢を差し出せるのかを調べにやってきている。だから人間の数も家畜の数も数えやすいように、みんなで並ぶんだ」

 灑国に生まれた人間は、奴婢として帝国に献上される可能性がある。奴婢の男は帝国が戦う戦場に、奴婢の女は帝国人の屋敷に連れて行かれることが多い。
 そう父が付け足しの説明したところで、牛をひいたヨンウォルがギュリたちの列にやって来た。

「領主さま、牛たちはこちらでいいですか?」
「ああ。急に暴れ出したりしないように、気をつけて見てくれ」

 ギュリと二人のときには使わない敬語で話すヨンウォルに、父は主らしく指示をする。
 頷いたヨンウォルは、ギュリにちょっとだけ微笑みかけて、命じられた場所で牛と一緒に立った。

(あっちには、となり村からももってきたみつぎものもある)

 ギュリは兄と弟の間にきちんと並びながら、ヨンウォルがいる方とは反対を見る。そこには米俵や干し柿、染めた布など、この土地から献上することができるものは何でも集めて置いてあった。

(こんなにたくさんの物をささげなきゃいけないなんて、帝国の人たちは本当にえらいんだ)

 ギュリは川岸の冷えた風に凍えて待ちながら、帝国の強大さを実感した。

 こうして全ての住民が並び切ったころ、川沿いの土手の上の道から大きな馬に乗った騎兵の集団が現れた。馬上の人々は、この土地の住民が十人集まっても敵いそうにない屈強な男性たちだった。
 彼らは髪も目も黒く、顔の造り自体は灑国に生きる人々とそう変わらない。しかし彼らは眼光が非常に鋭く、あまりにも大柄で筋肉質なので、同じ人間には思えなかった。

 ギュリの父親は今までに見たことがないほどにへりくだった態度で、男性たちに話しかけた。

「ご来訪いただき、誠にありがとうございます。この場所に集まっているのが、この土地のすべてでございます」

 馬上の男性たちは厚手の長袍に毛皮の外套をまとい、さらに毛皮のついた帽子を被った暖かそうな姿で、川辺で凍えているギュリたちを見下ろす。

 そして男性たちの一人が、口を開いた。

「ごくろうだったな。どうやらここは、やせた動物ばかりの貧しい土地のようだが」

 まるで獣が唸っているかのように低くて恐ろしげな声だったが、それはギュリにも何とか意味が把握できる言語だった。
 行政官である男性たちが言った一言の乾いた冷たさに、ギュリは帝国と帝国に征服された土地の間にある関係のあり方に気づいた。

(そっか。帝国の人たちにとっては、わたしたちも牛とか鶏みたいな家畜とおなじなんだ。だからわたしたちは、こうして数えやすいように並べられている)

 これまで感じていた状況の不気味さの正体を、ギュリはそのときはっきりと理解する。だが気づいた現実を受け止めるための感情は、どれを選ぶべきなのかはわからなかった。

 周囲を見回すと、ギュリの父は行政官に向かって領民の戸籍台帳と貢物の目録を読み上げていて、他の人々は黙っていた。

 とりあえずまずは黙っているのが正解なのだと思って、ギュリは黙り続ける。

 土手の上を見上げると、男性たちとではなく、彼らを乗せている馬と目があった気がした。

4 ご馳走の欠片

 川辺での歓待が終わると、帝国の行政官の一行は領主であるギュリの父の屋敷に招かれた。

 ギュリの父の屋敷は領主が住む場所としてそれなりに大きい建物で、石とわらを土でかためた塀に囲まれている。
 表門のすぐ近くに使用人が住む区画が、奥には主人が住む区画があり、一番後ろには母屋があった。
 壁は木造の骨組みに白土を塗り込んだもので、屋根は黒色の瓦葺、床は厚手の油紙が敷いてあって、履物を脱いで過ごせるようになっている。

 行政官たちが通されたのは普段は父親が村の集会をするのに使っている客間で、彼らが到着するとすぐに膳に載ったたくさんの料理が運び込まれた。

 そして日が暮れるよりも早く、客人を歓迎する宴は始まった。

 宴は一族総出で執り行われ、ギュリも普段の服に着替えて細々とした台所の雑用を手伝った。

「おばさん。お酒を蔵から持ってきたよ。まだ足りないぶんは、ヨンウォルが他の家からもらってきてくれるって」

 両手で抱えていた酒甕を、ギュリは台所の土間に置く。帝国からやってきた客人の飲む酒の量は想定していたよりも多く、あらかじめ準備していた分では足りなかったのだ。

 亡き母の代わりに宴会の料理を仕切ってくれている叔母は、鉄釜で炊いている米飯の火加減を見ながら返事をした。

「助かったわ、ありがとう。その台に置いてあるのは、余った料理だから食べていって」

 叔母がそう言った場所を見てみると、台の上の皿には綺麗に焦げ目がついた緑豆の丸餅が載っていた。
 ちょうど空腹が気になりだしていたギュリは、宴のご馳走の一部を前にして喜んだ。

「あ、具がいつもより多いお餅だ」
「今日の夕ご飯はそれだけだから、ゆっくり食べなさい。あたしはちょっと客間に用があるから、食べながら火加減を見ておいてちょうだい」

 叔母は忙しそうに、手拭いで煤のついた頬をぬぐって立ち上がって台所を去った。

(このお餅が焼いてあると、特別な日ってかんじがするな)

 残されたギュリは、台の前に空の木箱を置いて座って丸餅を食べようとする。
 そこに、隣の家からもらってきた酒甕を背負ったヨンウォルがやってきた。

「あれ、ギュリしかいないんだ」

 ヨンウォルは酒甕を下ろして土間に置くと、ギュリの方を見た。

「そうだよ。ちょうどいいときに来たね」

 昼間に話せなかった分二人っきりになれたのが嬉しくて、ギュリは皿の上の緑豆の丸餅を手で半分に分けてヨンウォルに渡す。

「これ、半分あげる。今はちょうどおばさんもいないし、ここでいっしょにすわって食べようよ」

 ヨンウォルは一瞬迷った様子を見せたが、結局はギュリから半分の餅を受け取って隣に座った。

「ありがとう。宴のあまりの料理?」
「うん。おばさんがとっといてくれた」

 手でつかんだ丸餅にかぶりつきながら、ギュリは答えた。

 緑豆の丸餅はつぶして練った緑豆に白菜の塩漬けと大豆もやしを加えて丸く平らに焼いた料理で、酢醤油と砂糖を混ぜたたれをつけて甘辛くして食べるものだ。
 こんがりときつね色に焼けた表面は、胡麻油の香りがして食欲をそそる。中はふんわりとほの温かい緑豆の生地と歯応えのある塩気の効いた具が、ちょうどよく頬張った口の中でほどけて美味しかった。

 ギュリがむしゃむしゃと緑豆の丸餅を食べていると、ヨンウォルも一口食べて頷いた。

「ぼくにはもったいないくらいに、おいしいね。帝国のお客さまは、これを何枚も食べられるんだからうらやましいよ」

 丸餅は大きめに焼かれていたけれども、二人で分けたので無くなるのにそう時間はかからない。

(宴での食べ残しがあればまた食べれるけど、あの帝国の人たちはきっとぜんぶ食べちゃうんだろうな)

 一番好みの具合に焼けた部分を最後の一口にしてよく噛んで味わい、ギュリは生地の一欠片も残さないように手についたたれも舐めた。

 丸餅を食べ終わった二人は、水を飲んで一息をついた。外はもうそろそろ日が落ちる頃合いで、曇天の空は赤くはならずに暗かった。

 しばらくするとヨンウォルは、思い出したようにギュリに言った。

「そういえば、ギュリがお昼に着てた服、かわいくてとてもよく似合っていたよ」

 散切りの前髪越しに、ヨンウォルは控えめな笑顔でギュリを見た。ヨンウォルは使用人なので、大人になって結婚するまでは髪を結うことを許されていない。

「そう? 兄様も父様も、ほめてくれなかったからうれしい」

 ギュリは本当に誰にも着飾った姿を褒めてもらえた覚えがなかったので、ヨンウォルがちゃんと見てくれていたことを素直に喜ぶ。

 そうしてはにかんで微笑むギュリを、ヨンウォルは案外まつ毛の長い目でじっと見つめた。

 遠くからは、宴で披露されている謡曲の歌声と笑い声が聞こえていた。

 ヨンウォルはギュリを見つめたまま、しんみりとつぶやいた。

「おとなになったら多分、ぼくはこんなふうにギュリとおはなしできないんだろうね。ギュリは主家の人で、ぼくは使用人だから」

 そう言ったヨンウォルの日に焼けた顔は、訳もなくとても大人びて見えた。
 ヨンウォルは普段はギュリよりも体が小さくて子供っぽいのに、ときどきひどく成熟した表情をすることがあった。

(わたしがあの礼服がもう着れないくらいに大きくなったら、やっぱりそうなるのかな)

 寂しい気持ちにはほんの少しだけなって、ギュリはヨンウォルを見つめ返した。

 まだ子供である今は同年の話し相手として一緒にいることを許されているが、実際はギュリとヨンウォルの間には明確な身分の差が存在する。

 しかし帝国の人間と灑国の民の間にある隷属関係と違って、ギュリにはそれがまだぼんやりとしか見えてはいなかった。

5 冬の炎

 帝国の行政官は、ご馳走を平らげ、貢物を馬車に乗せて去っていった。

 数年に一度の重大な行事を終えた土地の人々は、粛々と日々の日常に戻る。

 農閑期の冬にも必要な農事はいくつかあり、そのうちの一つが田畑の耕作だ。
 畑の土を耕し寒風にさらすことで害虫を殺し、雑草の根を枯らす。そして繰り返し霜が降り、溶けて乾くことで、やわらかく水はけの良い土が出来上がるのだ。

 だからギュリとヨンウォルが世話をしている二頭の牛は、ここのところは毎日田畑で使われていた。
 太陽が冬の空気をかすかに暖める晴天の空の下、百姓に手綱を引っ張られた牛が、馬鍬を牽いて畑を歩いて行く。

 ギュリはその様子を、叔母たちと川で洗濯を済ませて家に戻る道すがらに見た。

(あ、ヨンウォルだ)

 朝に牛舎で別れたヨンウォルが、牛の胴体についた土をぬぐっているのを、ギュリは川沿いの道から見つける。

 牛とヨンウォルはどちらもとてもやせていて、そしてよく働いていた。

 離れた場所にいるヨンウォルの顔は見えなかったが、きっとそれは優しい表情で牛の側にいるのだろうとギュリは思った。

 ヨンウォルが特に可愛がっていた方の小柄な牛が病にかかったとわかったのは、それから数日後のことだった。落ち着かない様子でいる牛のお腹が鼓のように膨らんでいることに、ヨンウォルが気付いたのだ。

 薄暗い牛舎の中でヨンウォルが心配そうに牛に駆け寄り、ギュリも一緒に様子を伺う。

 病にかかった牛の呼吸は荒く、弱々しい調子でよく鳴いていた。赤茶色の毛並みに覆われた胴体に触れてみると、鼓動が早まっているのがわかる。

「大丈夫だよ。きっとなおしてもらえるから」

 ヨンウォルはそう自分に言い聞かせるようにして、牛の背中をさすっていた。

 しかし呼ばれて牛の様子を見に来たギュリの父親は、一瞥しただけで静かに言った。

曖気げっぷができなくなって、胃が膨らんだんだな。こういう病は急に進むから、気づいたときには手遅れだ」

 父親の言葉の通り、牛の病は刻一刻と悪くなっているようだった。牛は立つのも辛そうな様子で、時折何かを吐きたそうに震えていた。

「じゃあもうこの牛は、死なせてあげるんだね」
「残念ながら、そうなるな」

 淡々とギュリが尋ねると、父親も言葉少なく答える。
 牛舎の隅に座り込んだヨンウォルは、深々とギュリの父親に頭を下げた。

「もうしわけありません。たいせつな牛を病気にしてしまって」

 人一倍牛に優しく接していたヨンウォルは今にも泣き出しそうな顔をしていたが、まず言葉にしたのは使用人としての謝罪だった。
 ギュリの父親は病の原因がヨンウォルとギュリの世話にあるとは考えていないようで、二人を責めることはしなかった。

「確かに思ったよりは早かったが、家畜は働いて死ぬものだからなあ。最後はこんなところだ」

 そう言い残すと、ギュリの父親は念のため他の人にも意見を聞くために牛舎を出て行った。

 ギュリの父親がいなくなってやっと、ヨンウォルは声を上げて泣き出した。

 牛の横でうずくまって泣いているヨンウォルと違って、ギュリの心は冷めている。

 ヨンウォルは病にかかった牛が生まれたばかりのころから弟か何かのように可愛がっていたから、死なせてしまうことが辛いのかもしれない。だけどギュリの方は特に思い入れがないので、その牛が死ぬことになったところで涙は流れなかった。

(でもわたしは、泣いてるヨンウォルもすき)

 病にかかった牛の苦しげな呼吸と、ヨンウォルのしゃくりあげて泣く声を聞きながら、ギュリは手を後ろで組んだ。隣にいるもう一頭の牛は、いつも通りに干し草を食んでいた。

 こうしてその日のうちに、「最後はこんなところ」と言われた一頭の家畜の牛の一生が終わった。大人たちは牛の喉を切って殺すことを決めたけれども、準備が済んだときにはもう息を引き取っていたとギュリは聞いた。

 病で死んだ牛だったので、残った死体は村の外れで燃やされた。

 炎は日が暮れても燃えていて、夕闇に赤々とちらつく火の明かりは遠くからでもよく見えた。

 昨日まで自分たちが世話をしていた牛を燃やす火を、ギュリとヨンウォルは夜の野原に腰を下ろして眺めていた。
 月もない夜の空は暗く、風も寒くて夜露に濡れた草も冷たかった。だけどギュリはヨンウォルを一人にしたくはなくて、三つ編みをいじりながら傍らにいた。

「はたらいて、死んで、それ以外はきっと何もないんだろうね」

 ヨンウォルはそう消え入りそうな声で呟いて、まるで身体以外何も持っていないかのように、膝を抱えて座っていた。

「また、泣きたくなったの?」
「ううん、もうだいじょうぶだよ」

 何かヨンウォルにしてあげてみたい気持ちで、ギュリはヨンウォルの顔を覗き込んだ。ヨンウォルの目は赤く、頬には涙の跡があった。

 ヨンウォルの身体は、夜の闇に溶けてしまいそうなくらいに小さくて、細い。
 だけど泣きやんだヨンウォルはまた、ギュリよりも大人みたいな顔をしていた。

「ギュリは、ぼくが死んだら泣いてくれるのかな」

 牛の死にギュリが泣いていないことをなじるような口ぶりで、ヨンウォルは静かに問いかけた。

 妙に大人びた態度をヨンウォルがとるので、ギュリもできる限り背伸びをしてみることにした。
 ギュリはヨンウォルの細い手首を掴み、そのまま抱きしめて地面に倒れ込んだ。そしてヨンウォルの薄い背中を抱き止めて、その耳元にギュリはささやく。

「だってヨンウォルは、人間でしょ」

 ぱさぱさした髪に、やせて余計に目立っている大きな目。ギュリはすぐ近くから、見慣れたヨンウォルの顔をじっと見る。腕の中のヨンウォルの身体は軽すぎて、ギュリは少し不安になった。

 ヨンウォルは何も言わなかった。ヨンウォルは返事の代わりに、ギュリと向かい合う形に寝転がって、口に軽くくちづけをした。

 食べ物を一緒に食べたり、手をつないだりしたことはあったけれども、くちづけをしたのは初めてである。
 だけどそれは相づちと同じくらいに、ほんのかすかにふれるだけのものだった。

(もしかしたら、ヨンウォルは牛が死んだのが悲しくて泣いてたわけじゃないのかも)

 ギュリはわからないなりに、ヨンウォルのことを考えた。

 衣越しに感じるヨンウォルの体温は温かく、身体を預けた地面は冷たく濡れている。

 ヨンウォルと身体を重ねながらギュリは、土の匂いを吸い込み、赤く燃える炎の光も届かない暗い天頂を見上げていた。

6 土と挽歌

 一頭の牛が死んで七日もたたないうちに、ギュリの父親は新しい牛を隣村から連れて来た。前の牛よりも体格の良い、健康そうな牛だった。

 ギュリとヨンウォルはこれまでと同じように、牛の世話をした。新しくやってきた方と元々いた方の、二頭の牛の世話だ。

「朝からげんきに、よく食べるね」
「そうだね。きのうは重いものをたくさん運ばせたから、疲れてなさそうでよかった」

 ギュリは二頭の牛の前に餌箱を置き、ヨンウォルは牛舎の掃除をする。家畜に餌を与えて働かせることの意味は、最初から変わってはいなかった。ヨンウォルは相変わらずよく言うことをきく使用人で、牛に対しても優しかった。

 しかしある朝、ヨンウォルは牛舎に来なかった。

 時間通りにヨンウォルが現れないことを不思議に思ったギュリは、使用人が住んでいる行廊の戸口を開けた。
 行廊は粗末というほどではないけれども、あちこちが古くなっていた。

「ヨンウォル、ねてるの?」

 中に入ると、薄い布団の上でヨンウォルは一人仰向けに横たわっていた。乾いたくちびるは半ば開いていて、目は閉じられていた。ギュリは直感で、もうヨンウォルが起きて話すことがないとわかった。

 その小さな身体からは、呼吸も鼓動も失われていた。なんでもないある日の朝に、ヨンウォルは人知れず死んだのだ。

 ギュリは書斎にいる父のもとへ行き、使用人の少年の死を報せた。

「父様、ヨンウォルが死んでる」
「そうか。冬はよく死ぬからなあ。特に子供は」

 父親は、病で牛が死んだときと同じくらいに素っ気なく答えた。

 以前、先代の領主であるギュリの祖父が死んだときには、柩は旗や扇で飾りたてられ、葬送人は挽歌を哀切に歌い、弔問客には酒や茹でた肉が振る舞われた。
 それはこの貧しい村の出来事にしては、豪勢な葬祭だった。

 だがギュリの祖父が華やかに見送られた一方で、ヨンウォルはただの身分の低い子供なので、死んでも土に埋められるだけだった。

 ――いくなれば、戻ることはかなわぬか。夜はふかく、よみじは遠い。

 ギュリはヨンウォルが埋められた村の外れにしゃがみこんで、半分くらいしか意味を理解していないうろ覚えの挽歌を口ずさんだ。
 しんと凍った空気に、ギュリのつぶやくような歌声ははかき消されていく。

 灑国の冬は雪は少ないが、風は凍えるように冷たくて寒い。そして収穫の多くを帝国に捧げることになるから、十分に満たされるまで食べることも難しい。特に身分の低い者は、飢え死ぬほどではないが、わずかな穀米しか得ることができない。

 だからヨンウォルが突然死んでしまっても、誰も不思議には思わなかった。
 ヨンウォルはギュリとは違って、粗末な扱いを受ける存在だった。寒くて食べ物が少なければ、子供が突然死んでもそれは当然の結果なのだ。

(おとなになって話せなくなるまえにもう、ヨンウォルは死んじゃったんだね)

 手向ける花咲いていなかったので、ギュリは真新しく掘り起こした跡がある土を手でつかみ、ぱらぱらと落とした。かすかに湿った土はひんやりとつめたく、細かく砕けて地面に落ちる。

 その手からこぼれる土を、ギュリはぼんやりと見ていた。

 ヨンウォルに自分が死んだら泣いてくれるかと尋ねられたときには、人が死ぬのはもっと特別なことなのだとギュリは思っていた。
 だが実際に訪れたヨンウォルの死は、ほつれた服の糸が切れてしまうのと同じくらいに、ささやかで小さな出来事だった。

 ギュリの目からは涙は流れないし、袖が濡れてしまうこともない。あまりにも唐突に死んでしまったものだから、失ってしまった実感もわかない。

(泣いてあげられなくて、ごめんね)

 ギュリは手の中の土を全部地面に落として、心の中でつぶやいた。

 ヨンウォルには親も親戚もいなかった。だから幼なじみとして泣けなかったことが、ギュリは余計に申し訳なかった。

 ――空をとぶ鳥よ、帰るときをつげよ。つきることなきは風の流れなり。

 しゃがんだまま軽すぎた一つの命のことを考えて、ギュリは挽歌の続きを歌う。

 ギュリはまだ物を知らない小さな子供だが、死んだ少年よりは多くの知識を得て、背も伸びるはずだった。

 その後、梅が白色に咲き始め、冬が去り春が訪れた頃には、ヨンウォルの代わりに雇われた使用人の男がギュリの家にやって来た。

 男はヨンウォルよりもずっと年上の青年で、牛の世話はほとんど彼が一人ですることになった。男はあまり好んで子供と接する人間ではなかったので、ギュリと言葉を交わすことは少なかった。

7 歳月を重ねて

 ヨンウォルが死んでしまった冬から九年後。

 巡る季節をくり返して、ギュリは八歳の子供から十七歳の少女になった。

 庭の緑が次第に色を取り戻していく春の日の昼過ぎに、ギュリは井戸で布を草木で染めるのに必要な水をくんでいた。

 容貌に恵まれなかった父親ではなく、美人と評判だった亡き母親に似て成長したギュリの面長の顔は、それなりには美しく水面に映る。
 三つ編みに編んだ先を赤い布で飾った黒髪は豊かにつやがあり、一重のまぶたの瞳は切れ長でまつ毛は長い。麻布の服を着た姿は細く長身で、衿に包まれた首は透き通るように白く長かった。

(これだけ汲めば、足りるかな)

 歳月がたっても井戸の水の冷たさは変わらず、つるべから落ちる水滴は清らかに陽に照らされて輝く。
 その水で取っ手付きの甕を満たし、ギュリは屋敷に戻った。

 屋敷には、最近は役人の登用試験のために学問をしている兄が一人残っていた。父や弟妹などの他の家族は皆、農事や雑用のために外に出ている。

「梅で布を染めるのか。お前の腕でも、高く売れるものなのか?」

 台所の鉄釜で煮込まれている梅の樹皮とその煮汁の色を、父親似の顔の兄が覗き込む。

「まあ、それなりにはね」

 ギュリは適当に返事をして、煎液を布で濾して樹皮をまた新しく煮出した。草木染めは特別得意というわけではないが、他の住民にすすめられたのでやってみている。

「俺も染物を覚えてみようか。役人を目指すのにも金がかかる」

 そう言ってあくびをすると、兄は台所の隅に置かれた木箱の上に座った。おそらく机に向かうのに飽きたのだろう。

 ギュリは何も言わずに、豆汁で下染めをした綿布を先ほど濾した煎液につけた。

 ギュリは幼い頃よりも無口になり、余計なことは話さないようになった。
 言葉にしたところでどうしようもないことを、言葉にする労力を払いたくはなかったのだ。

 またギュリは領主の娘として、支配者である大嘉帝国の言葉と文字を覚え、多少の算学も理解するようになったのだが、その知識を必要以上に活かそうとも思わなかった。
 労力をかけて何かを生みだせば、生み出した分だけ帝国に奪われるのだから、努力をする意味が感じられなかったのだ。

 だからギュリはさらに磨けば自分が美しくなることを知ってはいても、その努力はしなかった。
 努力をしてもっと美人になったところで、せいぜい帝国の高官や貴族に献上されて妾になる未来を迎えるくらいだと思っていた。

(別に妾になるのが死ぬほど嫌ってわけじゃないけど、わざわざ目指すほど幸せな立場でもないだろうし)

 ギュリは何かになりたいとも思わず、どこかに行きたいとも思わず、どんな夢を見ることもなく生きていた。

 鍋で煮出した煎液からは、強い樹木の香りがする。ギュリはその梅木の香りの中で、黙々と布を染める作業を続けた。

8 帝国の使者

 数日後の昼過ぎも、ギュリは草木染めの準備のため外にいた。煮出して使う梅の枝を集めて、ギュリはかごを背負って裏山を草鞋で歩く。

 つつじの濃い桃色の花が鮮やかな山の景色は、春の盛りを感じさせていた。
 裏山は領地を見下ろせる場所に位置するので、開けた場所からは田畑で働く村民の姿がぽつりぽつりと見えていた。

(花が咲いていても、人は働き続けなきゃいけないからね)

 美しい眺めは多少の心の安らぎにはなるけれども、冬から春になっても元々の暮らしが貧しいことには変わりがない。

 ため息をつき、枝を入れた籠を背負う。
 そして来た道を戻ろうとしたそのとき、ギュリは背後に草木を踏みしめる音を聞いた。

(私以外の誰かも、山に入っていたんだろうか)

 この裏山には虎や猪などの獣が住んでいないことを知っているので、ギュリは大した緊張感もなく振り向いた。しかしギュリの目に入ったのは、想定していた知り合いの村民の姿ではなかった。

 背後を見れば、何歩か離れたところに一人の若い男が立っている。

 男は非常に立派な鷹の刺繍が施された胡服を着いたので、帝国の関係者であることは一目でわかった。鷹は帝国の象徴だ。
 だがその顔は大嘉帝国の支配者である荒野の牧畜の民とも、灑国に住む農耕の民とも違う彫りの深さがあった。そして後ろで束ねられた男の髪は陽の光に輝く金色で、肌は見慣れぬ具合に浅黒い。

「君は僕たちの言葉がわかる? それとも、この国の言葉で話しかけたほうがいいのかな」

 男は帝国と灑国の二つの言語を使って、ギュリに呼びかけた。身分が高そうな服を着ているわりには、くだけた言葉遣いだった。

 突然のことにお辞儀をするのも忘れて、ギュリは帝国の言葉で受け答えた。

「少しは、話せます」
「言葉が通じるなら、助かるよ。僕はこの国の言葉が苦手だからね」

 男はほっとした表情で微笑みながら、ギュリの方へと歩み寄った。男の使う帝国の言葉は、ギュリが今まで聞いてきた獣の唸り声に似たものとは違って、明るく透明な響きを持っている。

 そして男はギュリの目の前で立ち止まると、ギュリにもう一つの質問をした。

「チェ・ギュリって名前の女の子のことを、君は聞いたことがあるかな」

 どうやら胡服の男は、何かしらの理由でギュリのことを探しているようだった。
 しかし、もしかすると人違いということもあるかもしれないので、ギュリは慎重な言い回しをした。

「チェ・ギョングの娘のチェ・ギュリのことを言っているのなら、それはおそらく私です」

 ギュリが父の名前も並べて名乗り出ると、男は意外そうな反応をした。

「ふうん、君が」

 男は腕を伸ばし、ギュリのあごに指でふれて持ち上げた。
 村には長身のギュリを見下ろすことができる者はいないが、この異国の男はギュリが顔を上げなければ目線を合わせられないほどには背が高かった。

「評判に聞いていたよりは、地味な子かな。でもちゃんと着飾らせれば、化けそうではある」

 男は値踏みをするように観察し、指でギュリのくちびるをなぞった。男の指は冷たくて、案外細い。
 小国の辺境に住んでいるギュリのことを男が知っているのは、帝国の戸籍管理が厳格であるおかげだと思われた。

(貶しているのか褒めているのかわからないけど、この人はいったい何なんだろう)

 ギュリは男を信用できなかったし、気安く触ってくる点にも好感を持てなかった。
 だがギュリは戦争に敗け帝国に征服された灑国の民であるので、帝国の高官の服を着た男には従うほかはない。

 男はギュリを誰かの愛人か何かにしようとしているのかもしれなかったが、それにしても男の態度は不可解だった。

「よし。じゃ、合格でいいね」

 男は男なりの結論を下すと、さっさとギュリから手を離した。

「人に話を聞くのも面倒だったから、ここで会えてちょうど良かったよ。ちょっと向こうに繋いだ馬を連れてくるから、ついでに君の屋敷に案内してくれる?」

 背後の木々のむこうを指さし、男はギュリに今度は質問ではなく要望を言った。

「はい。承知いたしました」

 ギュリは従順に頷き、頭を深々と下げた。

 男は目的を説明しなかったが、身分をわきまえたギュリは何も尋ねなかった。

9 選ばれた少女

「姉様、あの男の人は誰なの」
「帝国のお役人?」

 ギュリが男を屋敷に連れて帰ると、居てほしくないときにかぎって家にいる弟妹は珍しい雰囲気の来客に騒いだ。

「そう。あの人は帝国の偉い方だから、お前たちは川でお客様のために魚を獲ってきて」

 そう言ってギュリは、面倒な弟妹を外に遊びに行かせた。

 ギュリの父や兄は、慌てて客人を迎える用意をした。
 客間の役割もある書斎には普段は置いていない屏風や掛軸が飾られ、蓮の文様の入った膳は青茶の入った茶器が載せられる。
 茶の隣には、甘い餅をつつじの花や棗の実で飾った花煎ファジョンが添えられた。貧しい暮らしを送るこの村では食べる機会が少ない、非常に貴重な季節のお菓子だ。

 その膳をギュリが書斎に運ぶと、背もたれ付の座椅子に座った客人の男は、まったく遠慮をすることなくお茶を飲み、花煎を食べた。
 ギュリと、ギュリの父と兄は、向かいの下座に座って静かにお茶をすする。

 菓子と茶の味にそれなりに満足したようで、男はお茶を飲みながら三人に微笑んだ。

「白い餅に春の花の色がよく映える、素敵なおもてなしですね」
「あ、はい。気に入っていただけたのなら、幸いです」

 帝国の関係者らしいその男は、領主であるギュリの父親に対しては一応、ある程度の敬意を払って接していた。
 一方でギュリの父は可哀想なくらいに緊張していて、動きは硬く声も震えている。

 そのため父に比べればまだ余裕がある兄が、親に代わって社交辞令的な会話をこなした。

「そのお菓子は、我々の春の楽しみなんです。貴族の方々は、山で花の詩を詠みながら食べるんですよ」

 ギュリの兄が説明すると、男は面白そうにもう一度花煎を見た。

「なるほど。この国にも風雅な行事があるんですね」

 その言葉にはどこかギュリたちの国を馬鹿にした響きがあったが、そのことを指摘する人間はこの場にはいない。

(何にせよ、私としゃべってる時よりはちゃんとした話し方だな)

 ギュリは男の丁寧な言葉遣いを聞きながら、二人で裏山で話したときとの違いについて考えた。

 そうしていると、男はギュリの方を見てわざとらしく微笑んだ。
 彫りの深い容貌と相まってその笑みはとても魅力的だったので、ギュリは好ましくはなくとも感心はした。

 男は白磁の茶器の中身を飲み干すと、表情を少しだけ変えて今度は父親たちを見た。どうやら、やっと男が用件を明かすときが来たようだった。

 空になった茶器を膳に戻し、男はまずは自分の肩書について簡潔に話した。

「さて。僕は大嘉帝国の搬贄官はんしかんとして、大帝に捧げられる犠妃ぎひに選ばれた少女に下命を伝える使者の務めを果たすためにここに来ました」

 搬贄官という役職も、犠妃という役割も、どこかで聞いたことがある言葉だった。ギュリは記憶をたぐり寄せて、その男が語る意味について考える。

(犠妃って確かあの、帝国の大帝に食べられる生贄の?)

 ギュリの認識が正しければ犠妃は、帝国を統べる至高の神たる大帝に娶られた妃であると同時に、捧げられた供物でもある少女のことを指す。

 犠妃は帝国の支配下にある国々に住む少女の中から選ばれ、神聖な存在として帝都の後宮に送られる。そして犠妃の少女は後宮で最上の暮らしを得るが、宴の日を迎えたときにはその身体を大帝に食されて死ぬ運命が待っている。

 男の肩書である搬贄官は、その犠妃となる少女を選んで帝都に輸送したり、貢納する時期を管理したりする役を与えられた官吏だ。

「ということは、妹のギュリは……」

 父親よりも早く状況を理解した兄が、搬贄官の男の顔を見る。

 男は微笑み返して問いかけを遮り、ギュリの未来を告げた。

「チェ・ギュリ殿は幸運なことに、次の宴で捧げられる犠妃に任命されました。ギュリ殿は供物として屠られることで命を終え、その身は大帝に食されます。誠におめでとうございます」

 異国の言葉を朗らかに響かせ、搬贄官の男はギュリを祝福する。男ははっきりと、ギュリは大帝に捧げられる供物として殺されるのだと言った。

 男の声があまりにも明るいので、ギュリはすぐにはその現実が飲み込めない。
 しかし帝国が人間を牛や馬と同じように扱っていることはよくわかっているので、ギュリがいずれ大帝に食べられるという男の言葉を、冗談や比喩だとは思わなかった。

 喜ぶふりも悲しむふりも選べないままギュリが空の茶器を握りしめていると、まだ理解が追い付いていなさそうな父親がずれた調子で礼を言う。

「ありがとうございます。それはそれは、一族の身に余る、大変名誉なことでございます」

 その声が震えているのはおそらく緊張しているからでしかなく、何か思うところがあるようには見えない。

 ギュリの父の反応に含み笑うと、男はさらにギュリが犠妃となった後に与えられるであろう未来を説明した。

「得るのは、大帝に命を差し出す名誉だけじゃないですよ。犠妃に選ばれた娘のいる土地は徴税も何年か軽減されますし、家門は官吏の登用試験でも優遇されます。例えば兄君も、きっと次の科挙では官位を得ることができるでしょう」

 男は犠妃に選ばれた少女の家族が受ける恩恵について話しながら、ギュリの兄の方に視線を向けた。ギュリの兄が役人の登用試験に落第し続けていることを、男は知っているようだった。

「私も官職に就けるんですか? それは願ってもないことですが……」

 突然の出世の機会を提示された兄は一瞬嬉しそうな顔になったが、妹の生死がかかっていることを思い出して横目でギュリを見る。

 父はここまで話したところでやっと男の知らせがギュリの死につながるものであることを理解したらしく、遅れてぽかんとした表情になっている。

 そこで男は懐から巻子を取り出し、ギュリたちの目の前に広げて見せた。それは犠妃としてギュリを差し出すように命じる、帝国の正式な文書だった。

「何がなんでも強制する命令ではないですから、不都合があれば断ることも可能です。その場合は多少の金銭を納めれば、これまで通りの暮らしを送ることができます」

 男は広げた文書の要点を指で指し示しながら、ギュリたちに用意されているもう一つの選択肢について話す。

 文書の最後に捺印されているのは、確かに本物の帝国の官府の印章だった。ギュリは男が帝国の官吏であることを疑っていたわけではなかったが、印章を見ていよいよ自分は本当に彼らに選ばれたのだ実感した。

 ギュリの父親は、兄と一緒に娘の様子を伺いながら、男の説明に頷いた。

「なるほど、はい。犠妃になるかどうかは、我々で選べるということですね」
「左様です。嫌がるのをむりやり、ということは一応ありません」

 やわらかく相づちをうつと、搬贄官の男もまたギュリの反応を見た。
 異国の男が一体何を感じながら生贄として死ぬことを命じられた少女の顔を見るのかは、初対面のギュリにはわからない。

 だが自分の父親や兄が何を考えているのかは、身内なのでよくわかった。

 気が小さくて鈍感な父親は、とにかく帝国の役人との間に問題が起きないことだけを願っていて、自分の娘がどんな気持ちで生贄として死ねという命令を聞いているのかを慮る想像力に欠けている。

 常識人だが人に優しいわけではない兄は、妹の身を案じる素振りをしながらも、ギュリが犠妃として死ぬことと引き換えに何かしら自分が官位を得ることを期待していた。

 そして彼らの娘であり妹であるギュリは、絶対の支配者である帝国の命令に逆らってまで生きたいと思える何かを、特に持ち合わせてはいない。

「父様、兄様。私に異存はありません」

 自分に向けられた視線の意図を汲み、なおかつ自分に嘘をつくこともなく、ギュリは父親と兄に自分の立場を述べる。

「犠妃のお役目、ありがたく引き受けさせていただきます」

 ギュリは改めて搬贄官の男と膳を間に挟んで向き合うと、両手を重ねて深々と頭を下げて正式なお辞儀をした。

(人間いつかは死ぬんだから、私にとってはそれが今ってことだよね)

 十七年という寿命を、ギュリはそれほど短いものだとは思ってはいない。

 大帝に供物として捧げられて死ぬ運命はおそらく、そう大勢の人間が迎えるものではないだろう。
 だが元々この灑国の民は皆家畜と同じように帝国に人生を管理されているのだと考えれば、ギュリに待つ未来は特別ではなかった。

 帝国は他国を侵略し、征服して、支配し続けている。その過程に取り込まれた灑国の民はしばしば奴婢として帝国に差し出され、故郷に戻ることなく命を落とす。男子は戦場で捨て駒にされて、女子は片隅で虐げられる。

 この国にはかけがえのない人間はおらず、命は全て替えのきくものとして存在する。
 見知らぬ誰かの所有物として死ぬのは、帝国の支配下に生まれた者にはよくあることなのだ。

「では今日からあなたは、至高の神たる大帝に捧げられる神聖な供物です。今から正式な手続きを行い迎えを呼びますから、出立はおそらくひと月ほど後になるでしょう」

 うやうやしくお辞儀をするギュリに、搬贄官の男は今後の予定を伝えた。異国の男のまなざしは、憐みもなくギュリを捉えている。

 父や兄は不安げな表情をしつつも、とりあえずはほっとした顔で息をついていた。
 この家にはギュリの他にも幼い弟や妹がたくさんいるから、一人減ったくらいでは困らないだろうとギュリは思う。

 ギュリはないがしろにされているわけではないが、特別愛されているわけでもなかった。
 人間死ぬしかないのなら、死ぬのが怖くないほどにしか情を与えられていないのは、むしろ幸せなことだとギュリは思う。

 死にたい理由もないが生きたい理由もないギュリは、ただ与えられた命令に従って、犠妃として死ぬことを受け入れた。



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