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【短編小説】毒りんごを食べない白雪姫(前編)

強大な帝国の皇女として生まれたギジェルミーナは、誰よりも美しい王冠を戴くことができる王になりたかった。
しかし帝国では女は王位につけないことを、ギジェルミーナは知っていた。

屈折した欲望を抱えたまま、ギジェルミーナは隣国の国王イェレに嫁ぐ。
イェレは国内の政変によって長年幽閉された結果、精神退行してしまった青年で、よく癇癪を起こすがギジェルミーナには素直な好意を見せた。

なぜかギジェルミーナに幼子のような信頼を寄せるイェレを前にして、ギジェルミーナは自分は王にはなれなくても、王を支配する存在になれるのかもしれないと期待する。


1 皇帝の子どもたちの食卓

 白い布がかかった広く細長い天板のテーブルに、鉄の焼き皿に盛り付けられた鶏の炙り焼きが置かれている。
 骨付きのまま一羽丸ごと焼かれた鶏は、艶のある皮にちょうど良い具合に焦げ目がついていて、添えられた香草タイムの小さな葉の緑色が映えていた。

 ナイフとフォークを手にしてテーブルの前の椅子に座るギジェルミーナは、その焼き上がったばかりの肉の香ばしい匂いに赤みの強い褐色の瞳を輝かせる。

(わたしの好きな、焼いたとり)

 ギジェルミーナは鶏の炙り焼きが、中でも特に赤すぐりの実とさくらんぼを中に詰めて焼いたものが好きだった。

 七歳になったギジェルミーナは、自分の好きな食べ物と嫌いな食べ物を知ってる。
 しかし好き嫌い以外については、自分がどんな人間であるのかよくわかってはいなかった。

 給仕の男が鶏肉を包丁で切り分けて、ギジェルミーナのための白い皿に載せる。

「どうぞ、お召し上がりください」

「はい。いただきます」

 ギジェルミーナは礼儀正しく給仕に返事をした。部位もまたギジェルミーナの好きなもも肉で、中に詰められた果物のペーストと一緒に綺麗に盛り付けられていた。

(きょうはこれが、わたしのお肉)

 早速ナイフとフォークで器用に骨から切り離し、ギジェルミーナは一口大にした肉片を食べる。
 そしてそのほどよく火の通ったやわらかいものを噛めば、小さな口の中には温かい肉汁がいっぱいに広がった。

(あまずっぱくて、おいしい)

 赤すぐりの実とさくらんぼの甘味と酸味に引き立てられた鶏肉の旨みを、ギジェルミーナは幼い味覚で楽しんだ。

 小高い丘の上に建てられた赤い漆喰の塗られた宮殿にある天井の高い広間で、ギジェルミーナはそうした幸福な食事を毎日している。
 ギジェルミーナは知らなかったが、それは宮殿の外に住んでいる人のものと比べて、とても豪華な食事だった。

 白磁の食器に載った立派なご馳走をいつも食べることができるのは、ギジェルミーナが一国の皇女だからである。
 だがギジェルミーナは、自分が皇女であるということが、どんな意味を持っているのかを理解してはいなかった。

 ギジェルミーナの父親は、オルキデア帝国という国の皇帝だった。

 彼は優れた統治者であると同時に冷酷な戦略家でもあり、隣国からは侵略者と呼ばれて恐れられていた。
 しかし政務で忙しい父はあまり子どもに姿を見せず、また侍女や教育係もあまり父について語らなかったので、ギジェルミーナは父親の評判を知らなかった。

 物心ついたときにはもういなかった母親については、父親のこと以上に何もわからない。

 しかしギジェルミーナには腹違いでも兄が二人いたので、少なくともまったくの孤独ではなかった。
 ギジェルミーナの座る食卓には常に、長兄アルデフォンソと、次兄エルベルトがいた。

「またペーストに果物の種が入っている。ちゃんと取っておけって言ったのに」

 今年で十五歳になったアルデフォンソは、肉をフォークで弄びながら毒づいた。絶世の美女だった母親譲りらしい金髪と甘い顔が美しいアルデフォンソはいつも横柄な態度をとっていて、ギジェルミーナは彼が謙虚に振る舞っているところを見たことがない。

「申し訳ありません。厨房にまた言って聞かせておきます」

 給仕の男が丁寧に、しかし内心は反感を隠した様子で、アルデフォンソに対応する。
 そしてもう一方の皇子であるそばかすだらけのぱっとしない十三歳のエルベルトは、文句しか口にしない兄を横目に粛々と食事をとってた。

「別に種が入っていても構わないから、もう一切れくれないか」

「はい。かしこまりました」

 地味だが食欲旺盛なエルベルトは、給仕に鶏肉を切らせて二皿目を食べ始める。
 どちらも、幼い妹に話しかけたり、気を使ったりはしない。
 二人の兄はまったく似たところがなかったが、妹に無関心であるところは同じだった。

 だからギジェルミーナも兄たちのことを好きにも嫌いにもならず、ただ兄妹であることを理由に食卓を囲んだ。
 身分が低い愛妾から生まれた兄弟なら他にも大勢いるらしいのだが、高貴な血筋の母を持つギジェルミーナは彼らについてはよく知らない。

(わたしももうひとつ食べたいけど、おなかいっぱいになっちゃうからな)

 まだそれほど多くの量を食べることができないギジェルミーナは、一皿の肉を大切に食べる。

 ギジェルミーナは自分が兄たちと比べて優れているのか、それとも劣っているのかも、考えたことがなかった。
 なぜなら兄も侍女も教育係も、ギジェルミーナを貶さない代わりに特に褒めもしなかった。

 ギジェルミーナには可愛がってくれる人もいなければ、虐げてくる人もいない。
 だからくせのない黒髪を伸ばして若草色のドレスを着た自分の姿が可愛らしいのかどうかも、ギジェルミーナは知らなかった。

(とりのかわも、ぱりぱりでおいしい)

 ギジェルミーナは鶏肉を味わいながら、兄たちのいる食卓ではなく、大きな飾り窓から見える濃い青色に晴れた空を眺める。その窓の外に広がっているのが、ギジェルミーナの国であるオルキデア帝国だった。

 オルキデア帝国は大陸の南の豊かな土地を支配し、常に戦に勝ち領土を広げ続ける大国である。
 肥沃な平野には十分な量の麦が実り、東の端の山脈からは良質な鉄と火薬が産出される。
 だからその地の兵士は飢えを知らず、彼らが手にする武器も優れたものだった。

 隣国からは侵略者と呼ばれ、国の名が恐れられていた大帝国。

 ギジェルミーナはそのオルキデア帝国の皇女だったが、自分の国の強大さについても知らなかった。

(はれの空は、ちょっとあつい)

 温暖で豊かな代わりに、オルキデア帝国の夏は蒸し暑い。宮殿は比較的涼しい高原に立地しているが、それでも完全に快適というわけにはいかない。
 鶏肉の美味しさ以外のことは何もわからないまま、ギジェルミーナはその場所で食事をとっていた。

2 父の死と新しいドレス

 顔ぐらいしか知らない父親である皇帝が死んだのは、そのギジェルミーナが七歳の夏の終わりである。親子らしいことをしてもらった覚えはないので、ギジェルミーナは特に悲しみもなく喪に服す。

 長く退屈な葬儀の期間中は、真っ黒で地味な喪服を着せられた。

 しかし亡き父から皇位を継ぐ長兄アルデフォンソの戴冠式では、ギジェルミーナは新しく作ってもらったドレスをお披露目することができる。
 だから白い大理石で出来た獅子を模した噴水が美しい中庭に面した、眺めの良いバルコニー付きの寝室で、ギジェルミーナは侍女にいつもよりも念入りに身支度を整えてもらっていた。

「まだ、だめなの」

 やわらかい布張りの椅子に座り、ギジェルミーナは自分の後ろに立って髪の飾りの具合を見ている侍女を急かす。

「お待ち下さい。もうできますから」

 侍女はギジェルミーナの黒髪を櫛で綺麗に梳いて、前髪を左右に分けてその上に金と真珠で縁取られた赤いヘッドドレスを被せた。

「はい。出来ました。赤色がよく、お似合いですよ」

 ヘッドドレスがずれないように耳からあごにリボンを通して結ぶと、侍女はギジェルミーナを大きな鏡の前に立たせた。
 鏡の中には、金色の腰紐の巻かれた赤い絹のドレスを着た、真顔の見知らぬ自分が立っている。

 侍女が言ったとおり、ドレスと揃いで仕立てられた髪の飾りの深い赤色は、ギジェルミーナの黒い髪によく映えていた。ゆったりとした床丈のドレスは襟ぐりに細かい刺繍をした飾り布がわたしてあって、ギジェルミーナの小さな身体を華やかに包んでいる。

「これは、すごくかわいいよね?」

「大変可愛らしいお衣装だと思います」

 ギジェルミーナがドレスの裾を持ち上げて確認すると、侍女はごく自然に肯定した。

「これだけの数の真珠を大きさを揃えて惜しみなく使うことができるのは、オルキデア帝国の姫君のための品だからこそでしょう」

 侍女は皇家に仕える者として、誇らしげにそっとギジェルミーナの真珠で縁取られたヘッドドレスに手を添えた。

 楕円の鏡の中に映っているいつもと違う自分を見て、ギジェルミーナは生まれてはじめて自分の容姿に自信を持った。

 よく見れば顔は別に普段から見慣れたギジェルミーナの顔であり、侍女が褒めているのもほとんどドレスや髪の飾りについてである。
 しかしそれでも、ギジェルミーナは外見のことで褒められた記憶があまりなかったので、嬉しくなって鏡の前で何度も自分の姿を見た。

(わたしはえらいから、こんなにきれいな服が着れるんだ)

 兄の戴冠式のためのドレスは、近くにいる侍女が着ている濃紺のものと違って、豪華で贅を尽くしてある。
 その違いをよく観察してやっと、ギジェルミーナは自分がより恵まれた存在であることを実感した。

3 新帝の戴冠式

 支度を終えたギジェルミーナは侍女とともに寝室を出て、宮殿の庭を横切る渡り廊下で次兄のエルベルトと合流し、戴冠式が行われる大聖堂に向かった。

 ギジェルミーナは自分の新しいドレスを自慢したかったので、歩きながら両腕を広げて、エルベルトに話しかける。

「エルベルト兄上も、今日はわたしをかわいいと思うよね」

「うん。まあ、いいんじゃないか」

 妹の晴れ姿を一瞥すると、エルベルトは少しは感心しつつもどうでもよさそうな様子で微笑んだ。
 エルベルトもギジェルミーナと同じように御ろしたての服を着ていて、コートもベストも柄が織り込まれた立派な布を使ったものだった。

 城壁の門から大聖堂までの短い道の両端には集まった民衆が並んでいて、一斉に皇家への祝福の言葉を口にしていた。
 ギジェルミーナとエルベルトは、供の者を引き連れて、その石畳の上を進む。

(外って、こんなにひとがいるんだ)

 兄たちはこれまでもときどき民衆の前に出る行事に出ていたが、ギジェルミーナははじめてだった。しかしギジェルミーナはそれほど緊張はせずに、無事に大聖堂にたどり着いた。
 大聖堂はいくつもの部屋がある宮殿と同じくらいに巨大な建物で、戴冠式は一番広くて大勢の人が入れる礼拝堂で行われた。

 そこは淡い水色にたくさんの金色の星が描かれたドーム状の天井と、その下の聖堂全体を取り囲むように取り付けられたステンドグラスの窓が美しい場所である。
 ステンドグラスには、神話の物語の場面が描かれていて、信仰の場にふさわしい神々しさで色とりどりの光を注ぐ。

「神々の息吹よ、我々を清め……」

 教会の少年たちが歌う歌が響く礼拝堂には、皇家の親戚や貴族、聖職者たちが集まっている。
 彼らは小声で今後の政治などについて話していたが、雑音は礼拝堂に響く聖歌に打ち消され、荘厳な雰囲気が守られていた。

 ギジェルミーナは侍女と共に礼拝堂の前まで進み、祭壇がよく見える最前にいるエルベルトの隣に立った。

「もうそろそろ始まるみたいだが、妙に小便に行きたくなってきたな」

 顔だけはきちんとかしこまり、エルベルトは小声でくだらないことをつぶやいた。

 礼拝堂に来る前にすべて済ませてきたギジェルミーナは、次兄のひとり言を無視して姿勢を正す。
 慣れない場に来た主を気遣って、侍女はギジェルミーナの肩に手を置いて尋ねた。

「ギジェルミーナ様は、暑かったり気持ち悪くなったりしていませんか?」

「うん、だいじょうぶだよ」

 ギジェルミーナは特に困ったこともなく、軽い返事で答える。
 大勢の人が集まっている晩夏の礼拝堂は蒸し暑いけれども、ギジェルミーナの絹のドレスはさらりと涼しい着心地だ。

 やがて少年たちの聖歌は曲調がより落ち着いたものに変わり、最高位の聖職者がいくつもの燭台の光に照らされた祭壇に上がって古い言葉で何かを言った。

 それが戴冠式の始まりの合図だったようで、しばらくすると後ろの扉から長兄のアルデフォンソが入ってくる。
 大勢の出席者の視線を集めながら、アルデフォンソはゆっくりと澄ました表情で通路に敷かれた絨毯の上を歩いていた。

(あれがアルデフォンソ兄上……)

 ギジェルミーナは、祭壇へ堂々と向かっていく兄アルデフォンソの姿を凝視する。
 金色の糸で刺繍を施した白銀の金襴ブロケードで仕立てた衣服を着て、オコジョの毛皮で縁取られた藍色のマントを羽織ったアルデフォンソは、いつもの不機嫌な十五歳の少年ではなくて、新しい皇帝にふさわしい威厳のある人物に見えた。アルデフォンソの冷たい目をした顔は自信に満ち溢れて、何も恐れていなかった。

 そのときまで自分の着ている赤い絹のドレスが世界で一番美しいものであるような気がしていたギジェルミーナは、新皇帝であるアルデフォンソの華やかな衣装を見て敗北を知った。ギジェルミーナの服も豪華なものであったけれども、アルデフォンソの着る金襴ブロケードに比べれば見劣りしてしまう。

(だけどわたしには、真珠がたくさんついてる髪のかざりがあるけど、アルデフォンソ兄上にはそれがないし)

 負けて悔しいギジェルミーナは、長兄と比べて自分しか持っていないものを探そうとした。幼いギジェルミーナは、これからどんな儀式が行われるのかをわかっていなかった。

「新皇帝、アルデフォンソ・デ・オルキデア」

 人々の耳に朗々と声を響かせて、最高位の聖職者が新しい皇帝の名前を呼ぶ。
 アルデフォンソは勇ましく返事をして、聖職者の前で優雅に藍色のマントを広げて跪いた。アルデフォンソの服はとても暑そうだったけれども、その偉ぶった横顔は汗一つかいてはいない。

 そして聖職者は、祭壇に置かれた布張りの盆から王冠を手に取った。

 王冠は銀細工で赤いベルベットの被り物を飾った造りで、ダイヤモンドやサファイアがふんだんに使われた、宝石がついていない場所を見つけるのが難しいほどに綺羅びやかなものだった。

 じっと待つアルデフォンソの綺麗な金髪の上に、聖職者はもったいぶりながら王冠を置いた。
 燭台の炎の光によって兄の頭上の王冠が輝くのを、ギジェルミーナは小さな赤い褐色の瞳に映す。

 その光を目にしたとき、ギジェルミーナはあたりが暗くなって、隣の侍女もエルベルトも、離れたところに立っている親戚もどこかに消えてしまった気がした。

(わたしも、あれがほしい)

 そのダイヤモンドや金細工の輝きは、この世で一番美しく価値のあるもののように見えて、ギジェルミーナはどうしようもなくそれを手に入れたくなる。

 しかし同時にギジェルミーナは、その王冠が自分の頭の上に載ることはないことを漠然と理解した。

 皇帝になれるのは皇子だけであり、皇女は皇帝にはなれない。

 もしかするとエルベルトはあの王冠をかぶる日が来るかもしれないが、ギジェルミーナにはその日はきっと来ない。

 今日までは兄たちと同じように生きて成長するのだと思っていたけれども、同じものを食べていても生まれたときからの決定的な違いがある。
 その現実に、ギジェルミーナは初めて気がつく。
 自分がオルキデア帝国の皇女として、どれくらい特別であり、また特別ではないのかを知ったのである。

 ギジェルミーナがただ王冠だけを見つめていると、アルデフォンソはやがて世界のすべてに勝利したかのような表情で立ち上がった。

(あれがほしいけど、手にはいらないなら)

 自分にはどうしても手が届かない輝きを目にして、ギジェルミーナは小さな手で赤いドレスの生地を握りしめる。

 同じ父の血をひいてはいても、ギジェルミーナにはなることが許されていない皇帝に、アルデフォンソはなった。
 兄にはあって妹には与えられていないものをまざまざと見せつけられて、ギジェルミーナは生まれてはじめて嫉妬していた。

 そしてその感情は、未熟な殺意に変わった。

(王様にしてもらえる日がこないなら、わたしは王様をころしたい)

 それまでは自覚していなかったが、ギジェルミーナは自分のものにならないものを壊したくなる性質の人間だった。

 ギジェルミーナは長兄アルデフォンソのことが好きではないが、嫌いでもない。
 優しくしてもらった記憶もないが、ひどいことをされた記憶もないから、特別な感情を抱く理由がないのだ。
 しかしそれでも不当に兄だけが多くのものを手にしているのなら、憎んでなくても殺意を抱く理由になると思う。

 こうして七歳の夏の日に、ギジェルミーナは人を殺したくなる気分というものがどんなものかを理解した。
 具体的な方法はわからなかったけれども、その感情はギジェルミーナの物の見方を確かに決定づけたのだ。

4 ごく普通の皇女として

 父が死んで長兄アルデフォンソが皇位についてから十年後、ギジェルミーナは十七歳の初夏を迎えた。

 オルキデアの初夏の宮殿では、庭園のナランハの木に白い花が咲き、濃くなった糸杉の葉の緑が赤壁に影を落としている。
 太陽は天頂に近づき日差しは強まるが、風は心地よく石飾りのついたバルコニーを吹き抜けた。

 若い緑の匂いに満ちたこの季節に、きっと帝都の外に住む農民たちは森でハーブを摘み、耕地に種をまくのだろう。

 しかし皇女のやるべきことは冬でも夏でもそれほど変わらず、ギジェルミーナは教師に読むように言われた史学の古典を自室で読んでいた。

(大昔の偉い人の説教を読んでも、面白くはない)

 窓辺に置かれた木製のデスクで、ギジェルミーナは羊皮紙の頁をめくった。その窓からは、塔の正面ファサードのアーチが鏡写しになっている中庭の泉がよく見える。

(けれども皇女としての教養は必要だから、私は王になれなくても言われたことは学ばなければならない)

 丈夫で健康で、派手すぎない赤ワイン色のドレスが似合う地味な十七歳に、ギジェルミーナは成長した。
 過去の幼いギジェルミーナは、皇帝になった兄に嫉妬し殺意を抱いていた。

 だがそれからは忍耐を覚えて年を重ねたので、今はもうつまらない本を我慢して読むことができるし、兄を本当に殺してしまおうとはせずに生きている。
 ギジェルミーナは国や民のために生きていられるほど真摯ではないが、良い暮らしをさせてもらっている分は真面目に、帝国の皇女として常識的なふるまいは身につけた。

 だからギジェルミーナは乗馬も外国語も、刺繍も歌も、どれも恥にはならない程度にはできる。
 しかしどれもそれなりで得意なものはなく、衝動を押し殺してきたギジェルミーナは一途さに欠けていた。

(私が一生懸命になると、それは間違いになるみたいだからな)

 窓の外の明るさがまぶしい部屋の影の中で、ギジェルミーナは古書に書かれた興味が一向にわかない文字の列を、義務的に読んで頭に入れる。

 自分に優れた才能があるかどうかは、わからない。しかしギジェルミーナは皇女として、素晴らしい才能を発揮するよりも、無難で普通の人間であることを求められていることを感じ取っている。
 ギジェルミーナは何かを壊したい衝動を抱えていたが、他人に迷惑をかけてまで貫けるほどその想いは強くはなかった。

 やがて一つの章を読み終えるところで、扉をノックする音が聞こえた。

「失礼いたします。ギジェルミーナ様」

「カミロか。入れ」

 ギジェルミーナが入室の許可を出すと、黒地の従者の服を着たくすんだ金髪の青年であるカミロが扉を開けて進み出る。
 カミロはギジェルミーナが幼いころから仕えてくれていた侍女の弟で、最近は結婚して職を辞した姉に代わって身の回りを世話してくれていた。

「何か、あったのか」

 ギジェルミーナが用件を尋ねると、カミロは丁重に目を伏せて答えた。

「はい。皇帝陛下がギジェルミーナ様をお呼びです。大切なお話があるそうで、陛下の応接間まで来てほしいとか」

 カミロの聞き取りやすい声の受け答えが、一人でいるには少々広すぎるギジェルミーナの部屋に響く。

「わかった。今行く」

 読みかけの書物に布の栞を挟んで、ギジェルミーナは立ち上がった。

 アルデフォンソは二十五歳の若き皇帝として、実権を握って政治を取り仕切っていた。
 その長兄にそう会いたいわけではないが、本を読むのにも飽きていたので、ギジェルミーナは特に理由についても考えずに呼び出しに応じた。

5 古い婚約

 自室を出たギジェルミーナは、大理石の彫刻が美しい柱の並んだ開廊ロッジアを抜けて、アルデフォンソのいる棟へと向かった。

 皇帝がいるのは新しく建てられた宮殿の棟で、ギジェルミーナやエルベルトの部屋がある古い棟とは違う。
 謁見室や書斎などの部屋があるその棟は、星々のような模様を作る木組みの天井と、緻密な幾何学文様が彫られた石の壁が壮麗な建物で、私的な客人を迎えるための応接間には天板がよく磨かれたテーブルと揃いの豪華な椅子が置いてある。

「それで、大切な話とはなんですか。アルデフォンソ兄上」

 応接間に入ったギジェルミーナは、手触りのなめらかな黒革の長椅子に腰掛けてさっさと本題を尋ねる。

「私が話そうと思っていたのは、お前の結婚についてだよ」

 アルデフォンソは黒い繻子織サテン 長衣トーガを着て窓際に立ち、妹の顔を見ないまま繁栄する帝都の町並みを眺めながら答えた。

 背が高く金髪と青い目が綺麗なアルデフォンソは、腹違いの妹であるギジェルミーナと違って端正な顔立ちで、美人の妃と可愛い二人の息子もいる。
 自分ももう十七歳になったのだから、そろそろそういう話もあるだろうと思っていたギジェルミーナは、特に驚かずに相槌をうった。

「私の結婚ですか」

「そうだ。相手はグラユール王国のイェレ国王。昔一度会って婚約した相手だが、覚えているか?」

 アルデフォンソはここでやっと少しは振り向いて、ギジェルミーナがどこまで把握しているかを確認した。

 グラユール王国はオルキデア帝国の北西にある小国で、オルキデア帝国が長年戦争をしているユルハイネン聖国とも北側の国境を接している。

 ギジェルミーナは幼いころから今までに会った人々のことを一通り思い出してみたけれども、自分の婚約者になる相手と会った覚えはなかった。
 しかしイェレという隣国の王子との縁談についてはうっすらと耳にしたことがあったので、素直にそのとおりに答える。

「会ったことは思い出せませんが、名前は確かに知っています」

 ギジェルミーナは記憶を手繰り寄せて、なぜイェレを婚約者として覚えていなかったのかについて考えた。

「しかしグラユールで内乱があったことで、そのまま婚約も立ち消えたと聞いた気がするのですが」

 なんとかして昔の事情を思い出してみると、今更古い婚約者との縁談が復活した理由はさらにわからなくなる。
 ギジェルミーナが首を傾げていると、アルデフォンソは面倒くさそうにしてテーブルを挟んで向かいの椅子に座り説明した。

「確かにあの国は何年も後継者争いで荒れていて、当時王子だったイェレ国王も長い間幽閉されていた。だが内乱が終わって勝利した軍閥貴族が彼を国王として即位させた今は、政治も安定しているらしい」

 あっさりと語られる見知らぬ婚約者の生い立ちは、あまり幸せそうなものではなかった。

(つまりイェレという人物は、傀儡の王なのか)

 まだ他人事の気分でいるギジェルミーナは、未来の夫の立場について冷静に評価を下す。

「グラユールの軍閥貴族たちは、国王とお前との婚約を復活させ、我が帝国との関係を深めて王権を盤石にさせたいようだな」

 アルデフォンソもまた同様に情のない人間であるので、政治的な計算だけの言葉を続ける。
 だいたいのことを把握したギジェルミーナは、もうこれ以上の説明はいらないので兄の話に口を挟んだ。

「あの国は小国でも、要衝の土地を治めている。だからこちらとしても、接近して損はないってことですね」

「その通りだ。だから私はこの婚礼を進めることにした。お前は来月には向こうに行くことになるから、よろしく頼むぞ」

 アルデフォンソはギジェルミーナの考察を肯定すると、テーブルに置かれた小皿に盛られた花型の砂糖菓子を一つつまんで口に放り込んだ。

 綺麗な顔に生まれた人は、菓子を食べていても様になる。

 皇帝であるアルデフォンソは何かを決めるのに他人の許可も求めないし、もちろん結婚する本人である妹の意思を確認することもない。
 抜け目なく戦争による領土拡張を目指し続けるアルデフォンソが考えているのは、自分の国をより強大にする方法だけであり、妹の幸せは二の次である。

 ギジェルミーナは、長兄がそういう人物であることを最初からわかっていた。
 だがそれでも来月には異国に嫁入りするというのは急すぎるし、もっと前から知らせるのも絶対に可能だったはずだろうと思う。

(アルデフォンソ兄上は、本当に自分勝手だ)

 ギジェルミーナはため息をつきたい気持ちをこらえて、心の中で毒づいた。
 しかしその兄が皇帝であることが気に入らないからこそ、こことは違う別の国に嫁ぐことができるのは事情がどうであれ嬉しいのも本当だった。
 だからギジェルミーナは、結局は笑顔になって顔を上げた。

「かしこまりました。帝国の皇女として恥ずかしくない花嫁になれるよう、努力いたします」

 一応こちらを向いてはいるけれども何も気持ちは考えていないだろう兄を前にして、ギジェルミーナは素直な妹として命令に従った。

 金の枠飾りが美しい窓から太陽の光が差し込む華麗な皇帝の応接間は、やはりその主であるアルデフォンソに似合っている。
 だからこそギジェルミーナは、この国は自分の居場所ではないとより強く実感していた。

6 報告と祝福

 長兄との面談を済ませたギジェルミーナは、応接間を退室してその棟から去る。
 慣れた自室に戻ると、カミロが机でペンやインク壺の手入れをして待っていた。

「皇帝陛下と、何のお話でしたか」

 作業をしていた手を止めて、カミロはギジェルミーナの様子を伺う。
 ギジェルミーナはなかなか悪くはない気分だったので、声を弾ませて答えた。

「私の結婚だ。相手はグラユール王国のイェレ国王」

 部屋の中央まで進み、改めて自分でも確認するようにギジェルミーナは、結婚する相手であるイェレの名前を告げる。
 カミロはそのギジェルミーナの表情の明るさを見て、自分もまた表情をゆるめた。

「それはおめでとうございます」

 ギジェルミーナの短い答えに根掘り葉掘り聞くことなく、カミロはただ主が新しい人生を歩むことを祝う。
 真面目に祝福されるのが気恥ずかしかったので、ギジェルミーナはカミロにすぐに与える仕事の話をした。

「お前も連絡役として、ときどき来てもらうことになるからな」

 よその国に嫁いだとしても、ギジェルミーナは帝国の皇女であることを期待され、書簡のやりとりは頻繁にすることになると思われた。
 だからその書簡を届ける役目は、信頼できるカミロに任せることにする。
 そのことを伝えると、カミロは丁重にお辞儀をした。

「はい。仰せのままに」

 ギジェルミーナはカミロから、承諾以外の返事を聞いたことがなかった。

7 大国から小国へ

 ギジェルミーナはそれからの間、突然の婚礼のために慌ただしく準備をして過ごした。
 婚礼衣装の用意に財産の整理など、やることは多い。

 しかしギジェルミーナも皇女としていつかは結婚するものとして前々から心づもりはしていたので、支度は意外と順調に進んだ。

「グラユール王国で行われる式典のご衣装は、こちらの布で仕立ててはどうでしょうか」

 国中から取り寄せた宝飾品を部屋に並べ、衣装係の女官がきらびやかな銀襴ブロケードの織物を手にして、ギジェルミーナに問いかける。
 周囲の家臣もギジェルミーナが婚礼を迎えたときのことについては、前々から考えてくれていたようである。

「なかなか立派で、素敵だと思う」

 他の布との違いがわからないまま、ギジェルミーナは衣装係の選択を褒めた。ギジェルミーナは豪華に着飾ることは好きだったが、審美眼が特別にあるわけはなく、こだわりもなかった。

「では布はこちらを使うということで、これから採寸を進めさせていただきます」

 衣装係が爽やかに微笑み、助手の少女に指示を出す。
 こうしてギジェルミーナはなんの滞りもなく一ヶ月後に、グラユール王国へと旅立つ当日を迎えた。

 ◆

「それでは、行ってまいります。私はグラユール王国に嫁いでも、このオルキデア帝国に生まれたことを忘れません」

 青く晴れ上がった空がまぶしい夏の盛りに、ギジェルミーナは国の象徴であるザクロの柄の旗がはためく馬車を背後にして立つ。
 隣には従者のカミロが、周りにはこれから護送してくれる兵士たちが控えていて、正面には二人の兄が妹を見送りに来ていた。

 日差しがあまりにも暑いので、出立式は外の庭に面した拱廊アーケードの中で行われている。太陽の光が作り出す濃い影が屋根や柱に施された細やかな彫刻を際立たせていて、改めてここは職人の技を贅沢に使った宮殿なのだとギジェルミーナは思った。

「あちらはここより田舎で不便な小国だと聞いているが、達者でな」

 相変わらずすっとぼけた雰囲気でいるエルベルトは、寝坊をして慌てて着てきたらしい緑色の正装で別れの挨拶をする。
 その隣で他人のような顔をして赤紫の外衣を纏ったアルデフォンソは、皇帝らしく偉そうにギジェルミーナに話しかけた。

「お前は美女ではないが、醜女でもないから相手に拒まれることは多分ないだろう。だから安心して嫁げ」

 悪意がないからこそ嫌味な美形の兄の励ましは、綺麗な顔立ちの妻子を連れ立って来ているためより挑発的になっている。
 兄たちの心温まる祝福の言葉に、ギジェルミーナは微笑んだ。

「はい。私はエルベルト兄上ほど正直ではありませんし、アルデフォンソ兄上ほど賢く美しくはありませんが、帝国の皇女として役目を果たします」

 ギジェルミーナはわざと真面目に、丁寧にお辞儀をしてみせる。スカートが優雅に横に広がった青いドレスは婚礼衣装とは別に衣装係が仕立てたもので、レースをあしらった立て襟が印象的で気に入っていた。

 そして二人の兄はそれぞれの最低限の情感を込めて、妹を送り出す。

「では、な」

「こちらからの書簡には、すぐ返事をよこせよ」

 その場の空気に見合った素っ気なさで、ギジェルミーナも別れを告げた。

「兄上たちも、お元気で」

 冷めた調子の返事を残し、ギジェルミーナは兄たちに背を向ける。
 用件を済ませて庭へと進めば、従者のカミロが馬車の扉を開けて待っていた。

「お手を」

「ああ」

 普段とは違うドレスを着てやや乗りづらかったので、ギジェルミーナはカミロの手を借りて馬車に乗り込んだ。
 馬車は外装も内装も普段よりさらに綺麗なものであり、天井にも金箔でザクロの文様が描かれていて、座席も真紅のベロアが貼られたしっかりしたものだった。

「ご不安は、ありますか」

 向かいの席に乗ったカミロが、ギジェルミーナの様子を伺う。

「別にないな」

 ギジェルミーナは房のついた飾り紐で留められたカーテンのついた小窓から、見慣れた宮殿の風景を眺めながら答えた。

 小国であるグラユール王国の人々は大帝国の皇女を無下に扱うことはできないだろうと、ギジェルミーナは考えていた。
 イェレという国王がどんな人物なのかは知らないが、ギジェルミーナはある程度は祖国の威光を笠にきて、好きにやらせてもらうつもりでいる。

「やはりギジェルミーナ様は、オルキデア帝国の皇族のお一人でございますね」

 語らずとも顔を見ればギジェルミーナの考えがわかるカミロは、静かに頷いた。
 ギジェルミーナは誇らしげに微笑んで、カミロに黙って応えた。

(もしかしたら私は、兄上たちがいない場所なら一番に偉い存在になれるかもしれない)

 態度には出しても声には出さずに、ギジェルミーナは小さくはない野望を抱く。大帝国の皇女であるギジェルミーナには、あまり謙虚さは身についていない。

 やがて窓の外の景色は石造りの宮殿の門をくぐり、煉瓦で立てられた家屋の臙脂色が鮮やかな街を抜け、馬車は緑の濃い夏の森に入っていった。

 ギジェルミーナが乗る馬車の前後には、婚礼祝いの品が入った荷鞍を載せたロバや、護衛の騎兵が並んでいる。

 ギジェルミーナは窓の外の道に集まって待っている民に時折金貨を投げながら、馬車の旅を過ごした。
 客室を鎖で吊って架ける新しい技術を使った馬車は揺れが少なく、長時間の移動でも快適に旅は進んだ。

8 婚礼の儀式

 婚礼の行列は北西の方角へゆっくりと進んで国境の山脈を越え、早馬を駆けさせれば十日で着くグラユール王国の王都に到着したのは三週間後のことである。

 ギジェルミーナは街に入る直前に近くの教会で白地の銀襴ブロケードの婚礼衣装に着替え、赤い飾り鞍をのせた白馬に乗って王都に入った。乗馬は得意だったが、花嫁らしく馬は従者のカミロに引かせた。
 護衛の騎兵も荷物を運ぶロバも派手な羽飾りを身に着けていて、行列はとても華やかなものになっている。

(馬車を降りると改めて、涼しくて気持ちが良いのがわかるな)

 心地の良いそよ風を頬に感じ、ギジェルミーナは明るい表情で馬上にいる。
 グラユール王国はオルキデア帝国よりも冷涼な山岳地帯にあり、晩夏にさしかかる季節であっても汗ばむことなく過ごしやすかった。

「イェレ国王と、新しい王妃さまに祝福を」

「王国がとこしえに栄えますように」

 都の民衆は帝国からやって来た馬車や騎兵の行列に歓声を上げ、ギジェルミーナが通ると手にしているかごからバラの花びらを振りまいた。

「皆さん、すごい祝ってくれてますね」

 馬を引いているカミロが少しだけ振り返って、ギジェルミーナだけに聞こえるように話しかける。

「そうだな。誰かが指示しているとしても、笑顔が見えるのは良かった」

 ギジェルミーナもまた、カミロにしか聞こえない大きさの声で答えた。

 風向きの関係で花びらはなかなか馬上の花嫁には届かないのであるが、ギジェルミーナは十分に歓迎してもらえた気分になる。
 周囲を見渡せば道沿いの商店や民家の窓の下もまた赤いバラで飾られていて、漆喰の塗られた壁の白に映えていた。

 ギジェルミーナが民衆に手を振りながらしばらく進むと、行列が続く石畳の先に古めかしい戦士の彫刻が彫られた城門が見える。
 その城門の奥にある尖塔がいくつもついた黒と青の城が、これからギジェルミーナの夫となるグラユール王国の国王イェレがいるところだった。

 黒い尖塔に囲まれた薄青の屋根を見上げて、ギジェルミーナは故郷から遠く離れたことを実感した。刺々しい葉のような装飾が施された眼の前の城は、ギジェルミーナの生まれ育った赤い壁の宮殿とは違って、華やかでもどこか物悲しい雰囲気がある。

 城門の近くにはグラユール王国の音楽隊が格式のある演奏で行列を迎えていて、ギジェルミーナが通るときにはラッパの音がより一層高らかに鳴り響いた。

(これからはここが、私の世界になる)

 ギジェルミーナは馬に乗ったまま、重々しい石造りの門をくぐった。
 そしてダリアが咲き誇る丁寧に刈り込まれた芝生の庭園を横切り、城に併設された大聖堂に入る。
 大聖堂は細かな装飾が美しい大きな薔薇窓が正面ファサードに配置されていて、いくつあるのかわからない尖塔は薄い雲が浮かぶ空を目指すように高くそびえていた。

(小国のわりには、豪華な場所だ)

 ギジェルミーナは大聖堂を前にした広場で馬から降りて、その先の馬のことはカミロに任せた。

 広場には色とりどりの衣装で綺麗に着飾ったグラユール王国の貴族たちがいて、民衆とは別の品の良く本心を隠した笑顔で花嫁を歓迎した。
 その中でも代表格らしいはっきりした顔立ちの青年が進み出て、なめらかな口調で祝いの言葉を述べる。

「遠路はるばるグラユール王国にお越し下さりありがとうございます、オルキデア帝国の皇女殿下。この王国が、あなたに気に入ってもらえることを願っています」

 青年はごく自然にへりくだった態度でお辞儀をして、立派な石柱に支えられた入り口へとギジェルミーナを案内する。
 祖国にいるときよりもさらにうやうやしく接してくれる人々に、ギジェルミーナは一層気分が良くなった。

「人の心も景色も美しい国に嫁ぐことができて、嬉しく思う。私はきっと、この国をどこよりも好きになるだろう」

 世界で最も強大な国に生まれた皇女らしく、ギジェルミーナは堂々と声を張って歓迎に応えて、大聖堂の中に入る。

 天井が高く細長い建物の中にはさらに大勢の人が来ていて、祭壇の横の楽廊からは古風なパイプオルガンの音が響いていた。

 貴族や聖職者など様々な人々に視線を向けられながら、ギジェルミーナは高窓のステンドグラスから差し込む光の中をゆっくりと歩いた。その先にある祭壇には、夫となる国王イェレが待っている。

(私は美人ではないけれども、さすがに今日は綺麗なはずだ)

 与えられた財産に自信を持っているギジェルミーナは、まだ顔も知らない夫にも絶対に美しいと言わせる気持ちでいた。

 ギジェルミーナの花嫁衣装は赤くしっとりとした生地のローブの上に、丈長で袖のない白地の銀襴ブロケードのチュニックを身に付けた大変華麗なものである。特にチュニックは流れるような文様が銀糸で刺繍された生地に様々な色の宝石が散りばめてあって、細かな布の飾り一つ一つの縁にも小さなビーズが付いた大変贅沢な仕上がりだった。

 黒髪は白銀の組紐を使って背に下ろす形に編んでまとめ、頭上は白いヒヤシンスの花冠で飾る。元は地味な顔も、貴重な植物から作られた白粉や口紅で艶やかに彩っている。
 こうして衣装係や化粧係が良い仕事をした結果、ギジェルミーナは豪華絢爛かつ上品な美しさを手に入れた。

 だからギジェルミーナは何も怖がることなく、結婚相手である国王イェレに対峙する。

(さあ、どうだ。私の花婿)

 ギジェルミーナが進む先を見通すと、イェレは白銀の長衣トーガに藍色の外套を着て銀細工の金具で留め、金色の祭壇の前に立っていた。
 花嫁であるギジェルミーナがイェレを見つめているように、花婿であるイェレもギジェルミーナを見つめている。

 青色に澄んだイェレの瞳の中に、ギジェルミーナは星の輝きを見た。亜麻色の前髪を綺麗に切りそろえたイェレは、少年らしい純粋さを残した美貌がまぶしい美青年で、真っ直ぐでひたむきな眼差しが印象的である。

(美男子だが、しかしどこかが……)

 朝に咲く花のようなイェレの整った顔に感心しつつ、ギジェルミーナは理由はわからないけれども違和感を抱いた。イェレには何か、特異なところがある気がした。

 花嫁であるギジェルミーナが目の前まで歩いてきても、イェレはただじっとこちらを見るだけで黙っている。
 普通はまず花婿の方から話を切り出すものだと思ってギジェルミーナが待っても、イェレは一向に口を開かない。

 埒が明かないとしびれを切らしたギジェルミーナは、凛とした声で挨拶をした。

「はじめまして、イェレ国王陛下。私があなたの王妃になる、幸せな花嫁のギジェルミーナ・デ・オルキデアです」

 ギジェルミーナはゆっくりとお辞儀をしながら、イェレの様子を伺う。
 イェレは王族の男子のわりに細くか弱そうな身体をしていたが、背は高かった。しかし底の厚い靴を履いたギジェルミーナもそれなりの大きさになるので、威圧感は何も感じない。

 挨拶を終えたギジェルミーナは、イェレの応答を待った。だがイェレは綺麗な青色の瞳にギジェルミーナを映すばかりで、まだ何も言わなかった。

(さっさと何かを言ってくれないと困る)

 背後から人々の視線を感じ、ギジェルミーナは焦って次の言葉を探す。
 するとそこでやっとイェレが動きを見せて、ギジェルミーナに近づいた。
 その行動は、ギジェルミーナが想定していたものとは違った。

 イェレは腕をこちらに伸ばしてきたかと思うと、子供のようにギジェルミーナのドレスを両手で掴んだ。
 そしてまた、今度は至近距離からじっとギジェルミーナを見つめて、おずおずと口を開く。

「こんにちは、ギジェルミーナ。ぼくはずっと、ずっとひとりぼっちで、きみをまっていたよ」

 それは見たところの年齢とは釣り合わない、舌足らずで子供っぽい、たどたどしい告白だった。

 ギジェルミーナには、イェレがなぜ自分を真剣に待ってくれていたのかはわからない。
 だがイェレが後継者争いを発端にして起きた内戦の中で幽閉されていたことを思い出し、その結果彼が何を奪われたのかを理解する。

(傀儡の王だとは聞いていたけれども、これは)

 拒まれたら死んでしまいそうな勢いで、イェレはギジェルミーナの服を掴み続ける。
 イェレはどうやら相当長い間政敵に酷い待遇を受けていたらしく、心は壊れて実年齢より思考が幼くなっているようだった。

 考えていたものとは違う結婚相手の様子に、ギジェルミーナは困惑する。
 しかし一方でギジェルミーナは、精神が退行しているイェレにつたない好意を向けられることが、意外と嫌でもなかった。

 ギジェルミーナはドレスの裾を握って離さないイェレの手に、自分の両手を重ねてそっと頷いた。

「はい。あなたを二度と一人にしないために、私は参りました」

 その声は、ギジェルミーナ自身も驚くほどに優しげだった。 

 それからイェレの細い指から力が抜けて、青い瞳の緊張が緩むのを感じ取る。

「うん。ずっといっしょ」 

 イェレは大人の背丈で、子供のように慣れない口づけをギジェルミーナにした。
 淡いぬくもりのある一瞬に、二人のくちびるが重なる。

 よく磨かれた荘厳な祭壇の前で、衆人に見守られる形でその口づけは行われた。

 まだ神々には何も誓っていないけれども、ギジェルミーナはイェレと自分が結ばれたことを実感した。



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