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【短編小説】毒りんごを食べない白雪姫(後編)

強大な帝国の皇女として生まれたギジェルミーナは、誰よりも美しい王冠を戴くことができる王になりたかった。
しかし帝国では女は王位につけないことを、ギジェルミーナは知っていた。

屈折した欲望を抱えたまま、ギジェルミーナは隣国の国王イェレに嫁ぐ。
イェレは国内の政変によって長年幽閉された結果、精神退行してしまった青年で、よく癇癪を起こすがギジェルミーナには素直な好意を見せた。

なぜかギジェルミーナに幼子のような信頼を寄せるイェレを前にして、ギジェルミーナは自分は王にはなれなくても、王を支配する存在になれるのかもしれないと期待する。

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15 約束

 反乱発生から、数週間後。
 ギジェルミーナの雑な期待に反して、交渉をしても反乱は続き、反逆者たちは勢力を広げて王都に近づいている。

 しかしそれでもギジェルミーナは、本当の意味では危機感を抱かずにいた。

(元はと言えば、この反乱の原因はオルキデアとユルハイネンの戦争にある。だから兄上に頼んでオルキデアの軍を送ってもらって、ユルハイネンの息がかかった反逆者たちを蹴散らせばいい)

 長兄アルデフォンソに書簡を送るため、朝食後に自室の書記机を前にしてペンをとる。

 可愛げのない妹であるギジェルミーナは、アルデフォンソに愛されてはいない自覚があった。しかしまた同時に、自尊心が強い長兄は妹が反逆者に殺されることを許さないだろうとも踏んでいた。
 自分を優秀だと驕っているわけでもなく、無能だと蔑んでいるわけでもないギジェルミーナは、身内に頼ることを恥とは思わない。だから祖国を頼るのは、当然の選択だった。

(グラユール王国に軍を差し向けることは、オルキデア帝国の防衛のためにも必要であるはずです……、と。文章はこんな感じでいいだろう)

 上等な羊皮紙に深い褐色のインクを使い、ギジェルミーナは書簡をしたためた。
 書き上げたところで、ドアをノックし年若い侍女が入ってくる。
 侍女はギジェルミーナがペンを手にしているのを見ると、邪魔をしたのかもしれないと謝った。

「申し訳有りません。お仕事中でしたか」

「ちょうど終わったところだ。用はなんだ」

 ギジェルミーナはペンを置き、侍女の方を向く。
 すると侍女は困り果てた様子で肩を落とし、ギジェルミーナに助けを求めた。

「あの、陛下がお目覚めになったのですが、また何もお召し上がりにならないと言っています」

 侍女が話すのは、やはりイェレのことである。
 イェレは風邪か何かをひいたようで、今朝はギジェルミーナが起こしても調子が悪いと言って寝ていた。

 最近はギジェルミーナの不在時にイェレが機嫌を損ねる機会は減っていたのだが、やはり不調時には扱いが難しいのだろうと思われた。

「わかった。今行こう」

 書き終えた書簡を引き出しにしまい、ギジェルミーナは立ち上がって部屋を出た。
 そして侍女を廊下に残し、夫婦の寝室に入る。

 イェレは綴織のカバーのかかった毛布を被ったまま、背を向けてベッドで横になっていた。
 こちらからは起きているのかどうかわからなかったが、侍女が言うからには目は覚めているんだろうと考え、声をかける。

「おはようございます、陛下。今日は気持ちがいい天気ですね」

 そう言ってから窓の外をみると、どんより曇っているわけでもないが、まっさらに晴れているわけでもない微妙な天気だった。

 猫のように身体を丸めて寝ているイェレは、何も言わない。

 侍女が掃除はしてくれた清潔感のある部屋を見ると、近くの丸テーブルには軽めの朝食が一式載っている。
 そのうちのまだ冷めてはいないスープ皿を手にして、ギジェルミーナは再び話しかけた。

「このスープ。私も朝食に食べたのですが、大麦が入っていて美味しいですよ。一口だけでも、どうですか」

 ギジェルミーナはイェレの近くに寄って、ベッド脇の椅子に腰掛けた。
 そこでやっとイェレは、毛布の中からかすれた小さな声を発した。

「……でもこのしろに、こわいひとたちがくるんでしょ?」

 イェレは風邪で気が弱くなっているのか、反逆者たちを妙に怖がっている。

「来ませんよ。そうなる前に、私の祖国の軍を呼びますから」

 祖国に頼れば万事問題はないと考えているギジェルミーナは、無駄に自信を持ってイェレの不安に答える。
 しかしイェレはその返答では安心できず、寝返りをうって毛布から顔を出し、熱で潤んだ水色の瞳でギジェルミーナを見つめた。

「だけどもしも、ギジェルミーナもしんじゃって、ぼくがまたほんとうのひとりぼっちになっちゃうなら……」

 幼いままでいることで生き延びたイェレは、そのたどたどしい言葉の続きを言えない。
 だが少なくともイェレよりは大人のギジェルミーナは、イェレが望んでいることをわかっていた。イェレはギジェルミーナが死んで再び一人になる日が来るのなら、そうなる前に殺してほしいと頼んでいるのだ。

(イェレは私に、殺されたがっている)

 不憫な王の懇願は、ギジェルミーナに憐憫の情を抱かせると同時に、仄暗い喜びも与える。

 伝える言葉も奪われながらも死を望む、小動物のような青年の弱った姿を、ギジェルミーナはどうしようもなくいじらしいと感じた。
 だからイェレの赤い頬に、手を添えた。

「私はあなたよりも先に死にませんよ」

 撫でた頬はやはり熱があるのか、冷えたギジェルミーナの手には熱かった。
 しかしその冷たさが心地よいらしく、イェレは辛そうな表情をかすかにゆるめる。

「うそじゃない? やくそく、してくれる?」

「はい、誓います。私はあなたより長く生きます」

 念を押すようにイェレは、ギジェルミーナを凝視する。

 その眼差しを受け止める言葉は、自然とすらすらと口をついて出た。まるで詐欺師のようだと、自分でも思う。

 ギジェルミーナは理由もないのに、自分もイェレもすぐには死なないと信じていたし、自分は誰より長く生きる気持ちでいた。
 だがその適当な誓いにすっかり救われて、イェレは素直に微笑んだ。

「じゃあ、スープもたべる」

 もう酷い目にあわずにすむなら、生きて食べてもいいのだと、イェレはギジェルミーナが手にしているスープをせがんだ。そして雛鳥のように口を開けて、餌を待つ。

「はい。食べて元気になったら、二人でどこか遠出をしましょう」

 ギジェルミーナはイェレに生きる許可を出す気持ちで、匙を手にしてほどよく冷めたスープを与えた。
 手にした皿からは、スープに使われている牛乳の甘い匂いがしていた。

16 毒の小瓶

 長兄アルデフォンソに出した書簡がオルキデア帝国に届き、その返書を携えたカミロがグラユール王国の王都にやって来たのは、生け垣の白樫が新葉を伸ばしはじめた春の午後のことである。

 城を下から見上げる低い位置にある庭園の木陰に設けられたベンチに座り、ギジェルミーナはカミロに会った。

「こちらが、皇帝陛下からのお返事です」

「ああ、さっそく見せてもらおう」

 カミロから金の筒に入った書簡を受け取ると、その場で見事な象嵌細工が施された筒をふたを開け、中の羊皮紙を広げる。

 ギジェルミーナは当然アルデフォンソは要請に応じてくれるものだと信じ、疑うこともなく書簡に目を通した。
 しかしその羊皮紙に書かれた長兄の筆跡は、ギジェルミーナがまったく考えてもなかったことを綴っている。

「これは何だ?」

 自分の目を疑い、ギジェルミーナは顔を上げてカミロに尋ねる。
 その疑問符に、カミロはギジェルミーナの様子を伺うように、書簡に記されている内容が嘘ではないことを告げた。

「ギジェルミーナ様が、読んだ通りです。皇帝陛下は、ギジェルミーナ様がイェレ国王陛下を暗殺することをお望みです」

 聞き間違いようもないほどはきはきと、カミロは祖国の長兄の意思を語る。

(兄上はまた、勝手なことを)

 想定よりもずっと思いやりのない兄の返答に、ギジェルミーナは苛立った。

 アルデフォンソは嫁いだ国の危機に援助を求める妹に、夫である国王を暗殺しろと命じていた。イェレを殺すことと引き換えに、援軍を送ると言うのだ。

「私にイェレを殺させてどうする」

 ギジェルミーナは声を少々荒げる。花壇や噴水から遠い庭園の隅は人の気配がなく、会話を聞かれることはない。
 腹を立てているギジェルミーナに、カミロはそっと書簡の続きを読むように促した。

「グラユール王国の王位継承権をお持ちのデルフィノ様とギジェルミーナ様がご結婚して、この地をオルキデア帝国の領土として支配する計画だと書いてありますよね」

 デルフィノはオルキデアの皇族の末端にいる青年で、ギジェルミーナの従兄弟にあたる。彼の父はグラユール王国の王家を出自に持つ人物であり、彼自身もグラユール王国の王位継承権を持っていた。
 グラユール王国をオルキデア帝国の領土にして、デルフィノをその領主にしたいというアルデフォンソの考えは、ギジェルミーナも書簡を読んで理解している。

「そうだ。従兄弟のデルフィノと私がこの国の支配者になれば、グラユールは完全にオルキデア帝国の一部になる」

 ギジェルミーナは書簡を強く手で叩いた。イェレを殺すように命令されたことも気に入らなかったが、同時に無理な再婚を決められたことも許せない。

「皇帝陛下はおそらく、イェレ国王が弱い立場でいることが自国の不利な状況につながるのなら、この地を直接支配化に置きたいのです」

 素朴な顔は本人に何も似ていないが、カミロは控えめな言葉でアルデフォンソの考えを代弁した。

 皇帝アルデフォンソは数多の国を侵略し領土を広げてきたオルキデア帝国の歴史を受け継いだ支配者であり、ギジェルミーナはその妹である。
 かたやイェレは、内乱後の混乱の中でなんとか即位できた傀儡の王でしかない。

 世界で最も力を持っているオルキデア帝国から来た王妃のギジェルミーナなら、イェレを暗殺し、グラユール王国を祖国の領土の一部にしてしまうことは可能だろう。

「だから私にイェレを殺せと?」

「ギジェルミーナ様には、選ぶ権利があります」

 何とか冷静さを取り繕い、ギジェルミーナはこの場にはいない兄への問いを口にする。
 するとカミロは今度は臣下としての立場に戻って発言し、一つの小瓶をギジェルミーナに手渡した。

「遠い東の国に生息している、怪鳥の羽根からとれた毒だそうです。飲み物や食べ物に混ぜて使います。毒性が強く少量で熱病に似た症状が出て死に至るものらしいですから、取り扱いには十分気をつけてください」

 手のひらに収まるほど小さな小瓶は、丈夫で硬い金属でできていて、振ると液体が揺れる音がする。
 ギジェルミーナはその小瓶を、反射的に黙って受け取った。

(私はイェレを殺すんだろうか。それとも殺さないんだろうか)

 半信半疑な気持ちで、ギジェルミーナは考え込む。

 長兄アルデフォンソは、妹がどこまで冷酷になれるかを、遥か高みから試していた。
 きっとギジェルミーナが暗殺の命令を断っても、別の誰かがイェレを殺し、すべては兄の思い通りになるのであろう。

(だったら別に、私がイェレを殺してもいいんじゃないのか)

 落ち着いて状況を見てみると、身も蓋もない考えが頭をよぎる。

 確かに、他人からも身内からも、勝手に命令されるのは腹が立つ。
 しかし正直に言えばギジェルミーナには、イェレを殺してみたい気持ちがあった。王であるイェレを殺したらどんな気分になれるのかを、知りたかった。

 ギジェルミーナは王冠を与えられた王を殺してすべてを奪ってみたいという幼少時の願いを、今日まで押し殺して生きてきたのである。機会があるならば当然、夢を叶えてみたい。

 だが自分の行動が結局兄アルデフォンソの意向に沿ったものになるのがしゃくで、素直に従う意思を示すことはできなかった。

「兄上への返事は、もう少し考えてから書く。それまでお前はオルキデアに戻らずに待て」

 小瓶をドレスの内ポケットにしまい、ギジェルミーナはベンチから立ち上がる。

 カミロは冷めた反応の主を一瞬、目をすがめて見つめた。

 長い間侍従を務めていたカミロは、ギジェルミーナが返答を先延ばしにする裏で、イェレを殺す決意を固めていることを見抜いているはずだった。そうでなければきっと、ギジェルミーナが毒を受け取ることはないからだ。

「かしこまりました」

 余計なことは何も言わずに頭を下げて、カミロはその場を去る。

 カミロのくすんだ金髪が庭園の木陰の向こうに消えて行くのを見届けてから、ギジェルミーナは深く息をついた。
 脳裏に浮かぶのは、孤独を恐れ、つたない言葉で誓いを望んだイェレの姿である。

(イェレより長く生きるって約束は、私がイェレを殺しても守ったことになる。だからきっと大丈夫だ。私はイェレを裏切らない)

 レースで縁取られた藍色のドレス越しに毒の入った小瓶を握り、ギジェルミーナはイェレを殺すことを決めた。

 未熟で一途なイェレのことはそれなりに真面目に愛していたので、暗殺はまったく痛みのない決断というわけではない。
 しかしどちらにせよ死ぬしかないのなら、ギジェルミーナが手を下すのがイェレにとっても幸せなのだと勝手に信じる。

 春の暖かな日差しに反して、ギジェルミーナの手は冷たくなっていた。だが心は不思議と熱く、何かの期待に満ちていた。

17 最後の一日

 カミロから書簡を受け取った翌日は、風邪の治ったイェレがギジェルミーナと城外へ出かける約束をした日であった。
 ちょうど都合が良いと考え、ギジェルミーナはその日を最後にイェレにとびきり優しくする別れの日にする。殺す前に楽しませてあげようという、ギジェルミーナなりの気遣いだ。

「きょうはすごく、いいてんきだね」

「はい。出掛けるのにちょうどよい日です」

 馬車の窓から外を覗き込んで、ギジェルミーナの隣の席に座るイェレがはしゃぐ。

 イェレの言葉通り、窓の外はほどよく晴れた春の陽気が気持ちが良さそうで、新緑の輝く田園風景が馬車の進む速さで軽快に視界を流れていく。
 しかしギジェルミーナは外の景色を見ずに、陽光に照らされたイェレの絵のように整った横顔を見つめていた。

(かなり楽しみにしてくれていたようだし、今日は頑張って最後にふさわしい日にしてあげなければ)

 嬉しそうに景色を眺めているイェレの様子に、ギジェルミーナは改めてまごころを込めて過ごそうと思う。

 グラユール王国の自然の中を走る馬車は小回りがきく小さな一頭立てで、ギジェルミーナとイェレは狭い座席に二人でいた。
 侍女や供の者は別の馬車や馬に乗っていて、国王の外出を安全なものにする。内乱への対応等の任せる仕事が多くあったので、ヘルベンは城に置いてきた。

 やがて馬車はいくつかの林を抜けて、昼前には山の麓に着く。御者の腕が良かったのか、非常に快適な道のりだった。

「ほら、ギジェルミーナ。はなとちょうちょ、きれいだよ」

 馬車を飛び出すなり、イェレが明るく素朴な言葉で景色を喜ぶ。

「そんなに綺麗なんですか?」

 ギジェルミーナが後を追って金の留め具付きの革靴で馬車を降りると、そこは山頂に雪を残して春を迎えた山々がすぐ近くに見える高原だった。

 澄んだ空にそびえ立つ山々の緑の濃さをより引き立てるように、あたり一面には青い春咲きのリンドウや可愛らしい薄紅色のプリムラの花々が広がっている。
 春の太陽に照らされた小さな花は一つ一つが瑞々しく、淡くともはっきりを色づいて輝いていた。その花と花の間を、鮮やかな黄色の蝶が飛んでいた。

 普段よりも質素な薄茶のケープを羽織って花々の中に立ち、ギジェルミーナに手を差し伸べるイェレは、何も言わなければごく普通の優しげな青年に見えた。

「そうですね。本当に、色とりどりの絨毯みたいです」

 ギジェルミーナはイェレの側まで歩いていき、その差し出された手をとった。そして上品な王妃らしい言葉で、目の前の素晴らしい自然を語る。

 侍女や供の者たちは、二人の時間を邪魔しないように遠くで見守っていた。

 イェレはこの場所をよく知っているようで、いたずらっぽく微笑むとギジェルミーナの両手を掴んだ。

「ここでねころんでも、たのしいんだよ」

 そしてイェレはギジェルミーナと二人で舞踏会で舞うようにくるりと回り、そのまま花の中に倒れ込む。

 引っ張り込まれたギジェルミーナは、イェレに覆い被さる形で地面に手をついた。
 どの花も草丈が高く密集して生えていたので、衝撃はそれほどない。

(これじゃ絨毯じゃなくて寝台だな)

 自分の身体のすぐ下で、花に埋もれてこちらを見ているイェレの澄んだ表情を、ギジェルミーナはしげしげと見つめる。ちょうど頭の上に綺麗に花々が並ぶ様子は花冠を作ったようで、薄青や薄紅の花の色がイェレの亜麻色の髪に映えていた。

 ギジェルミーナは服が地面につくのも気にせず、イェレを押し倒したような姿勢のままでいる。 

 高原に出かければ土で汚れることもあるかもしれないと思っていたギジェルミーナは、絹よりも洗いやすい、袖や裾を赤い刺繍で縁取った亜麻布のドレスを着ていた。服が簡素な代わりに、耳飾りや指輪などは故郷から持ってきた上等な宝石を使ったものを身に着けている。

 寝転んだままのイェレは、ギジェルミーナとその後ろに広がる青空を遠く見上げた。

「そらと、くもも、きれいだね」

「春らしくて優しい、やわらかな青空と雲ですよね」

 背中に陽の光の暖かさを感じながら、ギジェルミーナは頷く。ギジェルミーナはそのとき空を見てはいなかったが、イェレの薄い水色の瞳に映っているものについて考えれば言葉は自然と口をついて出た。

 ギジェルミーナがイェレの瞳を見つめ続けていると、イェレは遠い空に手を伸ばすのと同じ調子で、ギジェルミーナの耳飾りに触れた。

「ギジェルミーナのみみかざりも、きれい」

 イェレは白く細い指でそっと、銀の籠型の飾りにルビーを嵌めて吊り下げたギジェルミーナの耳飾りを撫でる。
 耳を直接触られたわけではないのだが、どこかこそばゆかった。

「これは職人に注文して作らせた、特別な耳飾りですから」

 実際に注文したのは衣装係であるが、ギジェルミーナはその耳飾りを気に入っていた。だからその出来栄えを自慢する。
 しかしイェレの語彙の少ない賛辞は耳飾りだけではなく、それを身に着けているギジェルミーナにも向けられた。

「みみかざりだけじゃなくて、ギジェルミーナもきれいだよ」

 ギジェルミーナと視線を合わせたイェレが、花や蝶を見ているときよりも、一層明るい笑顔になる。イェレにとっては何よりも、ギジェルミーナが大事なのだ。

 容姿を褒められることに慣れていないギジェルミーナは、半ば照れ隠しにイェレに一つ提案をした。

「ありがとうございます。今日の記念に、これに似た耳飾りを作って陛下に贈りましょうか」

 よくよく考えてみると、ギジェルミーナがイェレに贈り物の約束をするのは初めてのことである。
 ギジェルミーナから何かをもらえると聞いたイェレは、目を輝かせた。

「ほんとうに、ぼくにくれるの?」

「はい、お揃いにしましょう」

 不必要に優しい声で、ギジェルミーナは答える。
 今日が終われば殺すつもりなのに、未来のことを約束するのは誠実ではないと、自分でも思った。

 だがイェレはそんなことは知らないので、嬉しそうにはにかんでお礼を言う。

「ありがとう、ギジェルミーナ。ぼく、すごくたのしみにしてる」

 イェレはギジェルミーナの心を疑うことなく、約束された日が来ることを信じている。

 そのひたむきな信頼を可能な限り受け止め、ギジェルミーナはイェレの細い手首を掴んで引き寄せた。そしてそのまま花の上で横になって、山々と反対側にある王城の尖塔と街を、イェレの頭越しに見る。

 亜麻色の髪の王と黒髪の王妃は二人で、淡く色づく春の花々に埋もれていた。深く息を吸い込めば、花と草の青々しい匂いが鼻の奥をくすぐった。

(私は嘘つきだな)

 自虐的に心の中でつぶやくが、不思議と罪悪感はない。

 腕の中のイェレは、自分よりも細いけれども固い大人の男性の身体だった。しかし反応はやはり子供っぽくて、抱きしめ返されても無垢な愛情と少し熱めの体温以外は何も感じない。

「陛下は本当に、私で良かったんですか」

 イェレの亜麻色の髪に顔をうずめ、ギジェルミーナはその耳元にささやく。
 するとイェレは、澄んだ声でギジェルミーナの問いに答えた。

「ギジェルミーナはせかいでいちばん、やさしくてきれいなぼくのおうひだよ」

 顔が見えない分、そのややずれた答えはギジェルミーナの心に深く響く。

 しばらく一緒に過ごした上で、イェレはギジェルミーナのことを大切に想ってくれている。そのことを改めて伝えられ、始まりがどうであっても、ギジェルミーナは自分がイェレに本当に愛されているのだと思うことができた。

 だが同時に「世界で一番優しくて綺麗」という称賛は自分にはあまりにも過剰で、一体ギジェルミーナの何を見ているのかイェレに問いただしたい気持ちにもなる。

(私が世界に誇れるのは、世界帝国の皇女に生まれたことくらいだろう)

 自分を美しいとも思いやりがあるとも思ったことがないギジェルミーナは、イェレはきっとギジェルミーナを現実とは違う姿に見ているに違いないと感じる。
 だからやはり綺麗なのは銀とルビーの耳飾りであって、地味で可愛くないギジェルミーナではないはずだった。

「では陛下は、世界で一番素敵で愛しい私の王様です」

 ギジェルミーナはイェレの見ている美しい自分を壊さないように、真っ当な王妃を演じる。
 たとえ取り繕った嘘だとしても、嘘に気づかないイェレはその反応が嬉しかったようで、顔を上げてギジェルミーナを見つめて笑った。

「うん。ぼくはきみがいてくれるから、せかいでいちばんしあわせなおうさま」

 日に照らされたイェレの笑顔があまりにも綺麗だったので、ギジェルミーナはもう何も言えなかった。

 たまたま婚約者であっただけで、ギジェルミーナが特別に愛されるべき理由は本来は何もなかった。
 イェレは幽閉されて孤独だった幼少時に、ただの政略結婚の相手だったギジェルミーナを将来の家族として理想化していたに過ぎない。

 だが虐げられた子供の思い込みや勘違いだからこそ、イェレの愛は無償で、恐ろしいほど純粋だ。
 ただそこにいるだけでギジェルミーナのことをすべて肯定してくれるのは、イェレの他には誰もいない。

(こんなにも私を好きだって言ってくれるイェレを、私は殺そうとしてる)

 自分の腕の中にあるイェレの身体の温度や感触、真っ直ぐに好意を伝える瞳を、深く記憶に刻み込む。
 ギジェルミーナは冷静な切れ者というわけでもないが、普通よりは情が薄い人間だった。

 だがそれでもさすがに、イェレを殺せば自分も傷つくだろうと予見する。

 イェレはギジェルミーナを好きでいてくれているし、ギジェルミーナもイェレをそれなりに愛している。
 些細な装飾品の紛失にも喪失感があるのだから、相思相愛の夫を殺せばもちろん辛いだろう。

(しかしだからこそ、私はイェレを殺せるのかもしれない)

 ぼんやりとイェレの顔を見ながら、ギジェルミーナは決意をさらに固くする。

 イェレへの愛に、逆に背中を押されたような気がした。奪われ続けた王であるイェレから最後に命を奪うことができるのは、イェレに誰よりも愛されている自分だけであるように思えた。
 辛くて苦しい結末であればあるほど、ギジェルミーナはそれを成し遂げてみたくなる。

 やがてイェレが、二人で花に埋もれているのに飽きて起き上がる。

「あっちにも、きれいなみずうみがあるよ」

 ギジェルミーナの手を引いて、イェレが駆け出す。
 土を払う時間もなく、ギジェルミーナはイェレについて行った。

 それに従って、侍女や供の者も移動する。

 ギジェルミーナは、自分が先ほどまでとは違う世界にいるような気がした。
 だが花の色もイェレの手のぬくもりも実際はそのままで、変わったのはギジェルミーナ一人である。

 ギジェルミーナは薄茶のケープが揺れるイェレの後ろ姿を見ながら、どこか知らない場所へ続く高原を歩いた。
 これがイェレとの最後の思い出になるのだろうと、そう思っていた。

18 王妃が王を殺す理由

 湖のほとりで侍女に運ばせた昼食を食べ終え、ギジェルミーナがイェレと城に戻ったのは午後のまだ明るい時間である。

 春になり、太陽が沈むのも大分遅くなった。

 だがイェレははしゃぎ疲れたのか到着前から熟睡していて、ギジェルミーナは肩を枕として貸さなければならなかった。

「陛下はよくお眠りだ。起こさないようにな」

「はい。かしこまりました」

 馬車が止まった後、供の者に寝ているイェレを寝室まで運ばせる。ギジェルミーナは、その隣をついて歩いた。
 西陽が差し込む寝室では、ヘルベンが待っていた。

「おかえりなさいませ。遠出は楽しかったようですね」

 供の者の手によってベッドに寝かせられるイェレの安らかな顔を、ヘルベンはほっとした表情で見る。

「ああ。この国の春は初めてだが、良い雰囲気だな」

 長椅子に座って足を伸ばし、ギジェルミーナも一息をつく。
 ヘルベンは微妙な顔で笑って、自国を卑下して頷いた。

「自然の美しさだけが、取り柄の国ですから」

 自国に国土を守る力がないことを、大国に庇護を求めなければ立ち行かない国であることを、ヘルベンは恥じている。

 ギジェルミーナはヘルベンと同じ意見ではなく、グラユール王国の自然以外の料理や文化も好きだった。
 だがそのことを伝える前に、ヘルベンが話題を変える。

「草案を頼まれた文書は、書斎に置いてあります」

「わかった。後で確認する」

 頼んだ仕事についての連絡を受けて、ギジェルミーナは軽く返答した。ギジェルミーナも疲れたので、今すぐ文字を読む気にはなれない。

「では、問題がありましたらお知らせください」

 お辞儀をするとヘルベンは、供の者と一緒に部屋を出る。
 ベッドで眠るイェレの寝息だけが聞こえる寝室に、ギジェルミーナは残った。

(少し、のどが渇いた)

 何かを飲みたい気分になって、ギジェルミーナはあたりを見る。
 主のために部屋を整えて待っていたであろうヘルベンはとても気が利いていて、長椅子の近くの丸テーブルの上には、ちょうどよい具合に冷めた茶の入ったポットとカップが載っていた。

 ギジェルミーナはカップに自分の分のお茶を注ぐと、まずは一杯飲み干した。中に入っていたのは、黄金色がきれいなすっきりとした味わいの紅茶である。
 二杯目を注いでもポットにはまだたっぷりのお茶が入っていて、それはイェレのために用意されたものであるはずだった。

(このお茶に毒を入れれば、イェレを殺せるな)

 イェレと二人っきりの部屋に飲み物がある状況にいることに気づいたギジェルミーナは、ドレスに隠し持っていた毒の小瓶を握りしめた。

(おそらく今日の疲れ具合だと、イェレは日が沈む頃には一度起きるだろう。そのときに私がお茶をすすめれば、イェレは絶対にそれを飲む)

 安らかに目を閉じて眠っているイェレを眺めて、ギジェルミーナは殺す手立について考える。

 結婚してから何ヶ月も経っており、ギジェルミーナはイェレがどう行動するのかをかなりの精度で把握していた。
 まだ窓の外は明るく陽が沈むまでは時間があったが、暖かい日の寝起きならきっと、イェレは冷たくなったお茶でも美味しく飲むだろう。

 さらにギジェルミーナは亜麻布のドレスのポケットから小瓶を取り出し、カミロから聞いた毒の効用を思い出す。

(熱病のような症状が出て死ぬ毒なら、悪い風邪がぶり返して死んだことにすれば怪しさも薄れる)

 イェレが先日まで季節の変わり目の風邪で寝込んでいたことと、毒の特性を結びつける。
 殺した際の偽装について結論を下せば、いよいよ本当にもうイェレを殺すだけである。

 冷たい金属製の小瓶を握りしめて、ギジェルミーナはイェレを起こさないようにそっと立ち上がった。
 金細工の天蓋からベッドにかかる薄絹のカーテンを手で寄せて開けて、ギジェルミーナはベッドを覗き込む。

 イェレは絹のガウンを身に着け、真っ白なシーツに包まれて、何も知らずにベッドで眠っていた。
 切り揃えられた髪と同じ亜麻色のまつげが震える寝顔は清らかで、手を胸の上に置いて眠る姿は箱にしまわれた人形か、棺の中の遺体のようにも見える。
 しかしイェレは人形でも遺体でもなく、まだ生きて息をしていた。

 作り物のように美しいイェレの姿を、ギジェルミーナは赤い褐色の瞳に焼き付ける。

 ギジェルミーナはその小さく寝息をたてているイェレのくちびるに、口づけをしたかった。
 しかし起こしてしまっていけないので、代わりにシーツの端を持ち上げて口づけをする。やわらかで清潔なシーツは、甘い香りが焚いてあった。

(私はとうとう、王を殺すんだ)

 自分よりも確実に美しく端正なイェレの目を閉じた顔を見たギジェルミーナは、かつて幼いときに見た兄の即位の儀式を思い出す。

 長兄アルデフォンソは新たな王として、ギジェルミーナよりも綺麗な姿で、ギジェルミーナが絶対に手に入れることのできない王冠を与えられていた。
 ギジェルミーナはその時からずっと、王になって王冠がほしいと思っている。
 だが自分は王になりたいけれどもなれないから、王を殺してしまうのだ。ほしい物が手に入らないのなら、与えられなかった者はそれを壊す。

(イェレだってきっと見知らぬ誰かに殺されるよりも、私に殺された方が幸せだろう)

 自分を正当化して、ギジェルミーナは冷たい小瓶の蓋に手をかける。それはイェレの細く白い首を、両手で掴んだような感覚だった。

 小瓶の蓋を外し、イェレのために紅茶を注いだカップに数滴たらせば、あとはもう一押しである。

 だがギジェルミーナは、完全にイェレを殺す決意を固めたはずなのに、蓋を開けることができなかった。

 そのときギジェルミーナがイェレを殺そうとする手を止めたのは、イェレを愛しているからではない。イェレを殺すことは、ギジェルミーナの思い描いていた王殺しではない気がしたのだ。

(だってイェレは、あまりにも多くのものを奪われている)

 そのときやっとギジェルミーナは、自分がしようとしていることと目指していたもののずれに気がついた。

 愛しているからこそ、イェレを殺せるというのは嘘ではない。しかし本来のギジェルミーナが殺意を抱いていた対象は、自分より恵まれた強者である。

 ギジェルミーナの目の前で眠るイェレは美しい姿をした完璧な王に見えるけれども、実際には精神を大きく損なっていた。過去に長い間幽閉されていた心の傷は癒えることなく、イェレはこの先も大人になれないまま、幼い傀儡の王であり続けるだろう。

 そんな弱く虐げられた存在は、ギジェルミーナが壊そうとしたものではなかった。
 ギジェルミーナが殺したいのは、謝肉祭に捧げられる哀れな羊ではなく、世界のすべてを手に入れた権力者である王なのだ。

(ならば私は、誰を殺すべきか)

 顔を上げれば部屋の中は、真っ赤な夕日に染まっていて、そのまぶしさにイェレも起きる気配を見せていた。

 イェレの首と重ねた小瓶の蓋から手を離し、ギジェルミーナは自分自身に問う。
 これは愛ではなく、ギジェルミーナの自尊心の問題である。

 考えてみれば答えは、最初から決まっていたものだった。

19 葬られた者

 ギジェルミーナがイェレを殺さなかった日から数週間後、ギジェルミーナのもとに一通の書簡が届いた。
 それはオルキデア帝国の皇帝アルデフォンソが急な熱病に罹って死んだことを報せる、次兄エルベルトからの書簡である。

 ギジェルミーナは静かに雨の降る午後の書斎で、次兄からの便りを読んでいた。
 窓の外は曇り空で暗いので、部屋は蝋燭の火で明かりをとっている。エルベルトの書く書簡は達筆の名文とは言えないが、文字が大きいので読みやすかった。

(本当に、アルデフォンソ兄上は死んだのだな)

 木製の書記机に紙を広げて、言うほど驚かずに冷静に、次兄の書いた文章に目を通す。

 あの日ギジェルミーナが手にしていた毒薬の効用と同じ症状で、皇帝アルデフォンソはこの世を去った。
 ギジェルミーナがアルデフォンソの死にそれほど衝撃を受けないのは、侍従のカミロに兄を殺せと命令して毒薬の入った小瓶を返したのは、他でもないギジェルミーナだからである。

 不幸なイェレを殺すのは自分の望む王殺しではないと感じたギジェルミーナは、皇帝として本当に権力を握っているアルデフォンソを殺すことにした。
 それはギジェルミーナが幼いころから長兄に対して抱いた嫉妬や殺意に従う、初心に立ち返った選択だ。

(こんなにも簡単に死なれるのも、拍子抜けしてしまうが)

 兄を殺した実感のわかないギジェルミーナは、椅子の背にもたれて格子状の飾りがついた白い天井を見上げた。

 南のオルキデア帝国と北のユルハイネン聖国の戦争が長く続いて終わらないのは、皇帝であるアルデフォンソが父から受け付いた領土拡張の野心を捨てなかったことも大きな要因の一つにある。
 軍事大国であるオルキデア帝国は、武勇に優れた士気の高い人材が揃っていると言われていた。しかしあまりにも戦争が長期化していたため、陰では内心戦争を継続を望んでいない者が増えていたのだろう。

 もしかするとユルハイネン聖国との戦争と関係なしにアルデフォンソの排除を狙う、皇帝の政敵もいたのかもしれない。
 ギジェルミーナがカミロに暗殺の指示を出しただけでその通りにアルデフォンソが死んでしまうのは、ギジェルミーナ以外にも皇帝の死を望んでいた者が大勢いたからだとしか思えない。

 だがたとえどんなに多数の人間がアルデフォンソの死を願っていたとしても、盤上の駒を動かし死なせたのは確かにギジェルミーナだった。杯に毒を入れたのが誰であったとしても、その死を決めたのはギジェルミーナなのである。

(アルデフォンソ兄上は本当の悪人ではなかったが、やはり死ぬべきだったのだ)

 もう生きて会うことない兄の記憶を、ギジェルミーナは何もない天井を見ながら振り返る。

 アルデフォンソは妹であるギジェルミーナに対しては冷淡であったし、非道な所業もそれなりにしてきたが、自身の妻子には優しく君主としても無能ではなかった。
 しかしそれでもギジェルミーナは、アルデフォンソを殺したことを後悔しない。多少望んだものとは結果が違っていたとしても、ギジェルミーナは自分の信じたものを肯定した。

 衝動に従って生きるギジェルミーナは、正義や道徳といった言葉には興味がない。
 考えがまとまったギジェルミーナが目を閉じようとしたところで、書斎の部屋が開く音がする。

「ギジェルミーナ、何してるの?」

 部屋の主に無断で入ってきたのは、一応はギジェルミーナの主であるイェレだった。昼食後の午睡から目覚めたイェレは、目をこすりながらギジェルミーナの元に来る。
 ギジェルミーナは椅子に座ったまま振り向き、イェレを迎えた。

「兄が、死んだのです」

 子供のように駆け寄るけれども、背丈は子供ではないイェレの顔を、ギジェルミーナは見上げる。そして淡々と、兄の死について報告した。

 王妃の身内の死について知ったイェレの反応は、ギジェルミーナが想定していたものとは大分違った。イェレは王妃の身内の死を悼むのではなく、露骨に嬉しそうな顔をした。

「じゃあ、ギジェルミーナにとっても、かぞくはほんとうにぼくだけになったの」

「はい。そうです」

 無邪気に明るい声でイェレに尋ねられ、ギジェルミーナは思わず勢いで頷く。
 実際には次兄エルベルトも、身分の低い腹違いの兄弟姉妹も大勢いるのだが、とっさにそのことは触れずに隠した。

(イェレは、私を独り占めにしたいのか)

 今はっきりと目にすることになったイェレという一人の青年の独占欲を、ギジェルミーナは意外に思う。これまでも薄々感じられる場面はあったのだが、それでも改めて向き合うその表情は見知らぬ人のように見えた。
 イェレはギジェルミーナが自分と同じ孤独な存在になることで、二人の結びつきがより深くなることを望んでいた。

(だけどイェレのことを引き受けられるのは、私だけなんだから仕方がないな)

 自分を見下ろすイェレに手を伸ばして、ギジェルミーナはその顔を引き寄せ口づけをする。もう何度目かわからない、口づけである。

 イェレが可愛らしいだけではない歪な想いを抱えていることを知れば、むしろ逆に愛しさが増す。たとえそのイェレの愛が危険なものだとしても、ギジェルミーナは何もせずにそれを手に入れたのだから、多少の代償は払うべきだと思った。

 世界の王だった兄アルデフォンソは今や死んだ羊と同等の存在と成り果て、イェレはギジェルミーナの手の中にいる王として生きている。ギジェルミーナはその事実がただ、嬉しかった。
 数を重ねるごとに長くなっていく口づけは、やがてはっきりとした感触を残して終わる。

「きっと、やくそくはまもってね」

 イェレはそっとくちびるを離すと、ギジェルミーナを見つめてつぶやいた。

 その言葉にギジェルミーナはイェレに耳飾りを贈る約束を思い出し、結局殺さなかったのだからまた渡す品を用意する必要があることに気がつく。
 ギジェルミーナはエルベルトからの書簡を一瞥して、返書は後回しにすることを決めた。

(全部アルデフォンソ兄上が悪いのだ。イェレを殺せなんて、ひどい命令を私にするから)

 ギジェルミーナは身内だったはずの兄に他人のように責任転嫁して、今度はイェレのやわらかな耳元に口づけをする。
 外は暗く雨が降り続いていて、その厚い雲が去った先にはまた新しい季節が来ているはずだった。

20 平和な国

 急逝した皇帝アルデフォンソの後を継いだのは、領土を広げることに熱心だった兄に比べると穏健な政治を好む弟エルベルトだった。

 新皇帝エルベルトの意向によって、オルキデア帝国とユルハイネン聖国の戦争は急速に終結に向かい、最終的には二国間の講話が結ばれる。
 国力の劣るユルハイネン聖国が戦争を続けることは難しかったので、オルキデア帝国の皇帝の姿勢が変われば和平はあっさりと成立した。

 戦争の終結に従って、周辺の国々の状況も変わった。

 グラユール王国の内乱も二つの大国の戦争を背景にしたものだったので、その対立が解消されてしまえば争いも自然と収まっていく。ユルハイネン聖国からやって来た扇動者が目的を失って姿を消せば、農民たちは素直になって王都から派遣した使者との交渉に応じた。
 交渉が成功するまでの、時間稼ぎの小競り合いで負けずにすんだのも幸いである。

 こうしてグラユール王国は、イェレを玉座に据えたまま、何とか平和を取り戻した。

「だがオルキデア帝国は、逆に混乱しているようだな」

「はい。エルベルト様を皇帝と認めない方々が現れて、内乱が始まってしまいましたから」

 城を背にして庭園に立ち、ギジェルミーナは再会したカミロに尋ねる。
 オルキデア帝国の様子を見聞きしてきたカミロは、ギジェルミーナに自分の知っている情報をまとめて伝えた。

 呑気で面倒くさがり屋の男であるエルベルトは、皇帝として尊敬される人物ではなかった。そのため今のオルキデア帝国は、新皇帝エルベルトを支持する勢力と、前皇帝アルデフォンソの遺児を担ぎ上げる勢力、そして自らが皇帝になろうとする有象無象の皇族出身者の勢力に分裂し、争っている状態であるらしい。

(まあオルキデア帝国も、大きくなりすぎたのかもしれないな)

 カミロの報告によって現状を見通したギジェルミーナが、無責任な感想を抱く。
 内戦の発端を作ったのは確かにギジェルミーナなのかもしれないが、ここまで大きな争いになると自分が原因であるという実感もわかない。

 良くも悪くも兄を殺したことによって、世界を変えた。その達成感は確かにある。
 しかし同時に、結局自分は大きな歴史のほんの一部でしかないのだと、自身の身の小ささも感じる。

 侵略した土地で成り立つ大帝国は、いつかは分裂して崩壊する。以前歴史の本で読んだ気がする原則が、たまたま今起きただけなのだとも、ギジェルミーナは思った。

「ここまでよく働いてくれた。お前は戻らずに、しばらくこちらで過ごせ」

 一通り話を聞いたギジェルミーナは、ここまで裏切ることなく従ってきたカミロを労った。内乱中のオルキデア帝国には戻りたくないだろうと考え、気を利かせてグラユール王国での滞在も命令する。

「ありがとうございます。かしこまりました」

 丁重にお礼を言って、カミロはギジェルミーナにお辞儀した。

 カミロは今のオルキデア帝国で流されている血の多さを知っており、その混乱の起点にはギジェルミーナがいることを、暗殺の命令を受けた者としてよく理解していた。
 だからその瞳は何かを言いたげにしていたが、結局カミロはギジェルミーナを批判せずにその場を去る。

 カミロと別れて庭園に残ったギジェルミーナは、深く息を吸った。

 庭園のいたるところでは木苺が赤く実り、遠くでは一人の使用人の少女が果実の収穫をしている。ギジェルミーナはその風景を眺めながら、もう一度祖国のことを考えた。

(オルキデア帝国は世界で一番強大な国であったからきっと、一番恨まれている国でもあった。だからこの世界のどこかで虐げられていた誰かは、オルキデア帝国の崩壊を望んでいたんだろう)

 ギジェルミーナには、戦争や貧困の悲惨さを知る機会がなかった。だが自分が手に入れている豊かさの裏にある犠牲を、多少は想像できるくらいの知性は持ち合わせている。

 隣国を焼いていたはずの炎が自国を焼き、謝肉祭で立場の上下が反転するように、大国だったオルキデア帝国が分裂していく。
 おそらく帝国の繁栄の犠牲となった大勢の者たちは、いつか帝国の民も不幸になるよう、呪い続けていたはずである。その願いは叶えられ、今のオルキデア帝国は戦火の中にあった。

 ギジェルミーナの頬を、生暖かい初夏の風が撫でる。

 なぜかそのとき、ギジェルミーナの脳裏には、ぼろぼろの服を着ている赤毛のやせた少女の姿が思い浮かんだ。十二、三歳くらいに見える幼い少女は、石の床にしゃがみこみ、手を合わせて必死に何かの偶像に祈っている。
 ギジェルミーナはその少女は、オルキデア帝国を呪う犠牲者の一人なのだと理解した。

(だけどそれは、私には関係のないことだ)

 考えることが煩わしくなったギジェルミーナは、木苺の熟す庭園に背を向けて城の室内へと戻る回廊を歩き出した。

 ギジェルミーナは王を殺したいから殺しただけで、別に平和を望んでいたわけでも、戦争を望んでいたわけでもなかった。

 根からの善人ではないギジェルミーナは、自分が良い統治者である必要性を感じていない。だから自分と無関係ではない問題を投げ出し、突き放しても、良心が痛むことはそれほどなかった。

21 羊と王

 ギジェルミーナとイェレが結婚してちょうど一年がたった晩夏のある夜、グラユール王国の城では豪華な晩餐会が開かれた。
 オルキデア帝国の内乱から距離をとることに成功したグラユール王国は、国境はともかく王都は平和で、城には大勢の貴族たちが招かれて来た。

 闇深い新月の、星空の美しい夜が城を包む。
 その宵の暗さを打ち消すように水晶のシャンデリアが輝く大広間には、豪勢な料理の載った真っ白なテーブルクロスのかけられた食卓がいくつも置かれていた。可能な限りの贅を尽くした食卓を前にした客人たちは、立派な背もたれのついた椅子に腰掛けて、王国の平和を祝福する。

「グラユール王国の平安が末永く続き、イェレ国王陛下とギジェルミーナ王妃殿下のご結婚がいつまでも幸せなものでありますように」

 一年前の婚礼の儀式でも祝いの言葉を述べていた貴族の代表格の青年が、堂々と胸を張って声を張る。

 ギジェルミーナとイェレはその大広間の前方の、一際華やかに花で飾られた食卓に二人で並んで着席していた。
 隣でにっこりしているだけのイェレの代わりに、ギジェルミーナは青年に応えて杯を掲げた。

「グラユール王国に、永久の栄光を」

 ギジェルミーナの凛々しい祝辞が、大広間の丸天井に朗々と響く。
 その声を合図に「乾杯」と口にして、正装で着飾った客人は次々と杯を空にした。

「かんぱい、ギジェルミーナ」

 イェレも慣れない手付きで、ギジェルミーナに杯を近づける。

「乾杯。イェレ国王陛下」

 自分の杯をイェレの杯に軽く触れ合わせると、ギジェルミーナも中のワインを飲み干した。

 豊穣な香りが広がり、心地の良い冷たさがのどを通る。グラユール王国特産の白ブドウを使ったワインは口当たりがしっかりとしているのに、湧き水のように澄んで飲みやすかった。

(私は美しい姿には生まれなかった。でも私はきっと、世界で一番美しい王と並んでいる)

 ほろ酔いになったギジェルミーナは、誇らしげに横を見る。

 卓上の華燭に照らされたギジェルミーナとイェレは、同じ藍地の金襴ブロケードを使った服を着ていた。

 イェレは地面を引きずる長さの長衣トーガを仕立て、白色の繻子織サテンの内衣と合わせている。王冠は亜麻色の髪に映える銀製で、耳にはギジェルミーナが贈ったお揃いのルビーの耳飾りがあった。
 涼やかな目元に、弓なりの眉。鼻筋の通った顔立ちに、形の良いあご。何も言わずに微笑んでいれば高貴で麗しいイェレの美貌に、ギジェルミーナは見惚れている。

 一方でギジェルミーナは、胸元の金細工のブローチで留めて広げた藍色のローブの下に、青く小さなリラの花の文様が織り込まれた白地のドレスを重ねて着ていた。地味な顔にはやや濃い目の化粧を施し、黒髪は編み上げて額は宝石のついた鎖で飾る。耳にはもちろん、イェレに贈ったものと同じ形のルビーの耳飾りをつけた。

「どれからたべたらいいのか、わかんないや」

 ワインを飲んで頬が淡く赤くなっているイェレが、たくさんの料理が並んでいる食卓を見つめて迷う。

 ひよこ豆とセロリのサラダの載った大皿に、ポロネギのスープが入った器。オーブンから焼き立てで運ばれてきたじゃがいもの肉詰めに、薄く切ったパンの添えられた豚肉のリエット。
 薄紫色の花で飾られた食卓には、城の料理人が腕によりをかけて作ったイェレの国とギジェルミーナの国の献立が、たっぷりと用意されている。

「ワインとよく合うので、まずはリエットはどうでしょうか」

 ギジェルミーナはまず、取っ手のついたココット皿に入ったリエットに手を伸ばした。リエットは豚肉を煮込んで作ったペーストのことで、その白練色には刻んでふりかけられたバジルの緑が映えている。

 ギジェルミーナはペーストに突き刺してあった木のヘラを手にして、二枚のライ麦のパンの薄切りに塗った。一枚は自分のためで、もう一枚はイェレのためである。

「うん、しょっぱくてワインがおいしい」

 リエットを塗ったパンをもらうなり、イェレはすぐにかぶりつき、ワインの入った杯を手にした。
 空になった杯には、給仕の少年がすぐに水差しキャラフからワインを注ぐ。

(これと一緒にワインを飲めば当然、良いものになるに決まっているだろう)

 ギジェルミーナはイェレよりもよく味わって、ゆっくりとリエットを塗ったパンを口にした。

 煮込まれた肉の繊維が確かな塩気とともにほろほろと崩れて、その濃厚な味わいをライ麦のパンの酸味が支える。
 切った後にさっくりと軽く焼かれたパンの熱で脂が溶け、豚肉の旨味がよりまろやかに広がるのが美味しくて、ギジェルミーナはそっと舌を転がした。

(元々美味しいワインが、より美味しくなるな)

 肉の後味とワインの風味が重なるように、ギジェルミーナは時間をかけて杯を傾ける。濃い塩味のついた白身の豚肉には、しっかりとした味わいの白ワインがよく合った。

 それからギジェルミーナとイェレは、もう二、三枚のパンにリエットを塗って食べた。リエットを前菜に思う存分ワインを飲んだところでやっと、他の料理に手をつける。

「このスープ、やさいがやわらかくてすき」

「卵の揚げ物も、中の具が凝っていて美味しいですよ」

 好きな料理を、好きなだけ食べて言葉を交わす。

 イェレの言った通り、スープはポロネギやにんじんなどの野菜が食べやすい大きさに切って煮込まれていて、どの具もやわらかいのに鮮やかで濃い自然の味がした。
 鶏がらの風味が香る山吹色のスープを匙ですくって飲めば、野菜の旨みが溶け込んだ美味しさは優しくて温かい。

 きつね色の衣が香ばしい卵の揚げ物は、半分に切ったゆで卵にパン粉をつけて揚げたものである。黄身の部分は角切りの塩漬け肉とホワイトソースを混ぜて詰め直されていて、ナイフで切るととろりと淡黄の中身が姿を見せた。

 ギジェルミーナは切った揚げ物からソースがこぼれないように注意して、フォークに刺して口に運ぶ。
 思ったよりも揚げたてだった卵はまだ熱く、上等なバターと牛乳でできたなめらかなソースが弾力のある白身と香ばしい衣を包む一口にはなんとも言えない妙味があった。

「ギジェルミーナといっしょにたべると、なんでもおいしい」

 挽き肉の入った皮付きのじゃがいもを平らげながら、イェレが明るい声で話しかける。
 ギジェルミーナは口の中いっぱいに揚げ物を頬張っていたので、無言で微笑んでイェレに応えた。

(これが私の、手に入れたもの)

 目を細めてイェレを見つめて、ギジェルミーナは揚げ物を飲み込む。

 ギジェルミーナは王を殺しても王にはなれなかったが、自分だけの王を手に入れた。
 特別なものを与えられた存在だからこそ奪われ続けたイェレと、特別なものを与えられなかったがゆえに奪う側に立てたギジェルミーナで、二人だけの世界が成立する。

 長過ぎる孤独の中でイェレは、ギジェルミーナを唯一の存在だと錯覚した。
 ギジェルミーナはすべてを奪われた王の、すべてになった。それはきっと王になるよりも、素敵なことなのだと思う。

(だってただの王様は、こんな気持ちにはなれないはずだ)

 二人を照らす燭台の眩しさに視線をずらすと、少し離れたところでヘルベンが忙しそうに給仕に指示を出しているのが見えた。

「この皿は、国王陛下と王妃様のところへ」

「はい、かしこまりました」

 そんな会話が聞こえた後に、ヘルベンから料理の載った皿を受け取った給仕の少年が、緊張した面持ちでこちらに歩いてくる。
 ギジェルミーナとイェレの前にやって来た少年は空いた皿を除け、そこに新しい料理の皿を置いた。

「こちらは国王陛下と王妃様だけにご用意いたしました、ミルクラムの炙り焼きでございます。母乳だけを与えられて育った仔羊の、特別な味をご賞味ください」

 給仕の少年が料理の説明をして、お辞儀をする。
 丁重に置かれた白磁の深皿に載っていたのは、赤みを残して焼かれた小さな仔羊の骨付き肉だった。

(これがミルクラムか。確かに普通のラム肉よりも色が薄いな)

 味が気になったギジェルミーナは、さっそくイェレと自分の分を取り分けた。
 母乳以外の味を知らないまま屠殺された仔羊の肉の、淡く綺麗な薄紅色を見つめれば否応なしに期待が高まる。ここまで幼い仔羊の肉は、あまり食べたことのない食材だった。

「これはぼくとギジェルミーナだけがたべられる、とくべつなりょうりなんだね」

 無垢なようで意外と欲深いイェレが、ギジェルミーナが取り分けた仔羊の肉を嬉しそうに食べ始める。
 ギジェルミーナも焼きたてのうちに食べようと、ナイフとフォークを手にした。

 絶妙な加減で焼かれたミルクラムは簡単にナイフで切れるやわらかさで、ふわりと優しい香りがする。
 皿にかかっていた黄金色のソースに肉をよく浸して、ギジェルミーナはまず一口フォークで食べた。そしてその味の良さに驚いた。

(これは、多少可哀想でも殺す価値がある味だ)

 想像以上の美味しさに、ギジェルミーナは思わず吐息をつく。
 ほの温かい肉は羊の肉とは思えないほどくせがなく、かすかにミルクの味がした。脂身が少なくあっさりとしているのに、甘くやわらかいのが不思議である。

 ソースはスパイスをふんだんに使ったものではなく、羊の骨を煮込んで塩胡椒で味を整えたものだと思われた。しかしそれだけで十分味に奥行きが生まれて、美味しさが引き出されている。
 赤子のまま仔羊を殺すというのは残酷だが、その残酷さに見合っただけの美味しさはあるとギジェルミーナは納得した。

 隣のイェレも、何とも言えないとろけるような表情で、満足している様子である。

 それからしばらくの間、ギジェルミーナとイェレは黙ってミルクラムを味わった。
 二人以外の席には、普通のラム肉を焼いたものが運ばれているようで、客人たちは変わらず歓談していた。

 小さく幼い仔羊の肉は量が少なく、ギジェルミーナとイェレの皿の肉はすぐに最後の一切れになる。

「こんなにおいしいのに、すこししかないんだね」

 残り少なくなった皿を、イェレは残念そうに見た。
 ギジェルミーナも名残惜しかったが、最後の一口まで堪能することにする。

「でもほら、パンにソースをつけても美味しいですよ」

 リエットに添えられていたものとは別の、白くやわらかいパンをちぎってイェレに渡す。
 黄金のソースにひたして食べれば、ミルクラムの骨を煮込んだ風味だけをじっくりと味わうことができた。

「ほんとだ。パンとたべてもごちそうだ」

 イェレが笑って、熱心にパンをソースに浸す。
 その笑顔に、ギジェルミーナは永遠に心を掴まれた。

(仔羊と同じくらい、可愛くて可哀想な私の王様)

 自分がイェレを殺そうとしていたことを思い出し、ギジェルミーナは罪悪感と幸福感を同時に抱いた。

 イェレはギジェルミーナが毒を盛ろうとしていたことを知らずに、一緒にご飯を食べてくれる。ギジェルミーナだけを信じて、ギジェルミーナのちぎったパンを食べてくれる。
 何も知らない家畜のように与えられたものを食べるイェレの姿を見て、ギジェルミーナはその命が手の中にある快感に心を震わせた。

 生かす行為には、殺す行為と同じくらいの権力がある。

 だからイェレを殺さなくて良かったと、ギジェルミーナはそのとき心から実感していた。

(イェレが何をどう食べるのか、決めるのは私だ)

 人の人生を左右することのできる万能感に、ギジェルミーナは浸る。

 婚礼から一年を迎えた今日、ギジェルミーナとイェレは二人で一緒に食事をしている。ギジェルミーナが望めば、今日のイェレの食事にも毒を入れることができる。
 だが食事に毒はなく、どれだけ食べてもイェレは死なない。あの日も今日も、最後になることはない。

 実のところ自分にはそれほど統治者としての才能はないことに、ギジェルミーナは気づいていた。
 ギジェルミーナは王ではないし、多分王には向いていない。良い血筋に生まれた、ただの幸運な女である。しかしギジェルミーナは、王を支配する立場にいる。

 王が羊になり、羊が王になる世界にギジェルミーナはいる。
 イェレはギジェルミーナの王であり、ギジェルミーナが望めば羊にもなる。

 いつかは盗まれ殺される日が来るかもしれないけれども、それでもギジェルミーナは育てて屠る側の人間だった。

「ぼくはひつじが、いちばんすき」

 最後のミルクラムの欠片を食べながら、イェレがつぶやく。

 その小声の主張に、ギジェルミーナも同意して囁いた。

「私も羊が、一番好きです」

 イェレとギジェルミーナは、同じ耳飾りをして、同じ肉を食べ、同じ食卓についていた。
 かつての幼いギジェルミーナが好きだったのは、一羽丸ごと焼いた鶏肉である。
 だが今日からは、ギジェルミーナも仔羊の肉が一番好きになることにした。

〈完〉


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