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【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/北の国の章(前編)

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1 おとぎ話と少女

 ラーストチカが住んでいるのは、寒くてやたらに広い国だった。

 一年のほとんどは雪に閉ざされていて、太陽が姿を見せる夏は短い。山も谷もない凍てついた大地が遥か遠くまで続く地形はあまりにも広大で、その広さが行く手を阻んで住民を土地に縛りつける。

 農奴しか住んでいない何もない村と、凍った森しかない自分の故郷のことが、ラーストチカは嫌いだった。

 そんな荒涼とした虚無に支配された土地での日々の中でラーストチカがたった一つだけ好きなのは、誰もいない壊れかけの納屋で一人空っぽの樽に腰掛け、おとぎ話について考えている時間である。

「昔々、世界に精霊や妖精、魔法使いがたくさんいたころ……」

 幼いころに祖母から何度も聞いた物語を始める決まり文句を、ラーストチカはつぶやいた。そしてその言葉に続く、可哀想な姫君に人を喰う化け物、勇敢な騎士に知恵のある魔法使いたちがいる、ここではないどこかの世界を思い描く。

 そうするとラーストチカは、自分が凍えそうなほどに寒い納屋で一人かじかんだ手を温めているただの農奴の少女であることを忘れて、どこか救われて幸せになれる気がした。

 銀の髪と青い瞳を持ったラーストチカは、農奴にしては目鼻立ちがはっきりとした綺麗な顔をしていたので、一人きりでいればより、自分は塔の上に閉じ込められた姫君のように特別な存在なのだと錯覚できた。

 しかし想像していた物語が最も盛り上がったところで、ある少年の聞きなれた大声が納屋に響いた。

「また、ここで変な話の空想に浸ってたのか。あんまり長いこと馬鹿をやっていると、風邪をひくぞ」

 振り向く前からそこにいることがわかっているのは、幼なじみのスーシャである。

 ラーストチカの隣の家の息子であるスーシャはやせて背の高い赤毛の少年で、そばかすの多い顔は野暮ったさがあり垢抜けない。

 自分が着ているものと同じような、大きさの合わないつぎはぎだらけの古着を着たスーシャが納屋に来ると、ラーストチカはいつも現実に引き戻された気持ちになる。

「あたしは、馬鹿じゃないよ」

 樽から立ち上がり、ラーストチカはスーシャからなるべく目をそらして言い返した。

 するとスーシャは肩についた雪を払いながら、さらにラーストチカに説教を重ねた。

「十六歳にもなって未だにおとぎ話のことばかりを考えているのは、馬鹿だけだ。このままこの大雪が降り積もれば、ここの納屋も潰れるかもしれないのに」

 スーシャは呆れた顔をして、ラーストチカの側に近寄る。その態度は常に、無性にラーストチカを苛立たせた。

(毎回毎回、スーシャはうるさいな。他人の人生に勝手に口を出して)

 スーシャはまともで真面目な男子として、夢見がちで愚かな幼なじみの少女であるラーストチカをいつも心配して、何かと世話を焼いてくれていた。

 その想いの本質が好意であること、ラーストチカは知っている。

 だがラーストチカはスーシャのそうした上から物を言う姿勢が気に入らなかったので、向けられた言葉を素直に受け取ろうとは思わなかった。

「スーシャはいつも、つまらないことばかりを言う」
「つまらないことこそが俺たちを生かすんだから、仕方がないだろ」

 ラーストチカは不機嫌な気持ちを隠さず、文句をつけた。
 しかしスーシャは聞く耳は持たず、手にしていた見た目がどうしようもなください毛糸の帽子と肩掛けをラーストチカに被せて、納屋の外に連れ出した。

 お互いの家まで続く帰り道では雪が音もなく降っていて、氷の塊に覆われた木々の間からは白以外の色はどこにも見えない。
 鼻の奥が痛むくらいに、ただひたすらに寒かった。

 ラーストチカとスーシャは、暗い曇天の下に果てしなく広がる凍土の端を生き、重い雪を踏みしめ歩いている。

 その目に映る虚ろな冷えた空と大地に、ラーストチカは永遠に閉じ込められているような気さえしていた。

2 訪問客

 丸太を組んで壁にして、屋根に樹皮を敷いて芝土を載せた土の床の家が、ラーストチカの一家の住まいだった。

 ラーストチカの一家は父親が数年前に去って、後は母親と幼い妹たちしかいない。
 反対に隣のスーシャの一家は母親が十年ほど昔に亡くなっているので、父親とスーシャと、その兄弟だけがいる。

 男手が足りないラーストチカの家と女手の足りないスーシャの家とで、お互いに足りないものを補うように仕事を任せ合っているので、二つの家は非常に親しく暮らしていた。

 だから雪が止んだ今日もまた、スーシャはラーストチカの家に来てくれて、雪下ろしを手伝ってくれた。

 滑らないように薄く雪を残した屋根の上に立ち、スーシャはシャベルですくった最後の雪の塊を落とす。

「こんだけ下ろせば、とりあえずは大丈夫だな」
「うん。これで終わりだね」

 ラーストチカは屋根に渡した梯子を支えて、頷いた。
 凍りそうなまつげの向こうに見上げた空は、白く冷たい雲に覆われていた。

「雪が降っては下ろして、冬はその繰り返しだな」

 スーシャは梯子で降りてきて、白い息をつく。

(やっぱりスーシャといても、楽しくはないな)

 ラーストチカの方は心の中で、つぶやいた。
 冬は元々退屈な季節なのが、スーシャが何かを言うと余計に面白くなくなるような気がする。

 邪魔にならないように下ろした雪を固めて寄せ、ラーストチカはスーシャに背を向けて言った。

「あとは母さんが、お礼に蜂蜜湯を用意してるって」

 蜂蜜やジャムをお湯で溶かしてスパイスを入れた蜂蜜湯は、この土地ではおなじみの冬の飲み物である。
 ラーストチカは母親の作る蜂蜜湯が嫌いだが、スーシャはわりと好きらしかった。
 だからスーシャは、ラーストチカの言葉を聞いて少し嬉しそうな顔になった。

 しかし外の雪で遊んでいたラーストチカの妹たちが走って戻って来たので、その返事は遮られた。

「おねえちゃん、このいえに、ばしゃがきたよ」

 ラーストチカの足元に勢いよくまとわりつく小さな妹たちは、何らかの来客を告げに来たらしく、口々に言いたいことを言った。

「えらいひとがのってた」
「りょうしゅと、そんちょうだよ」
「スーシャはかえらないと」

 その要領を得ない言葉から、ラーストチカはなんとか必要なことを聞き出した。

「領主と村長が来たって。何の用だろう」

 ラーストチカは顔を上げて、スーシャに話しかけた。

 領主は年に数回は見かける機会がある人物だが、わざわざ村長と一緒に家を訪ねてきた理由はわからなかった。

「何にせよ、俺は帰った方が良さそうだ」

 スーシャも不思議そうな顔をして、ラーストチカの妹たちが走ってきた小路の向こうを見た。

 その森を切り開いた狭い道では、毛皮の外套を着た小太りの領主と白い髭の領主が、馬車を降りてこちらに歩いてきていた。

3 姫君の身代わり

「領主様と村長様が、私の家に一体何しに来てくださったんでしょうかね」

 娘に呼ばれて家から出てきたラーストチカの母親は、腰の低い態度で客人を出迎えた。
 亜麻布リンネルの頭巾を被り、くすんだ色の服の上に無地の前掛けを身につけた母親は、かつては美人だった顔をしている。

 家の住民を前にした領主と村長は二人、顔を合わせて来訪の目的について言葉を濁した。

「それがまあ、どこから話せばいいのやら」
「この国のちょっとした歴史から説明せねばならんですからなあ」

 領主が困った様子で口を開くと、村長も同調をする。

 話が長くなりそうだと思ったラーストチカと母親は、自宅に帰るスーシャに妹たちを預けて、狭苦しい家を軽く片付けて客人をもてなした。

 外が極寒であったとしても、きちんと暖炉で薪を燃やせば丸太小屋の家でも暖かくはなる。
 そしてかまどで温めていた甘辛い蜂蜜湯を木の杯に注いで、羊毛の敷物を敷いた椅子に腰かけている領主と村長に出す。

 領主は杯を受け取ってお礼を言うと、母親ではなくラーストチカの方を見た。

「話したいことって言うのは、そっちの娘さんに関わることでね」

 いきなり自分が一番に関わることだと言われて、ラーストチカは驚いて二人の客人を凝視した。土地や農作物に関わる何かの話なのだろうかと思っていたが、どうやら何か別の話らしかった。

「はあ、この子が」

 母親も同じ認識だったらしく、訳が分からなそうに首を傾げた。

「あたし、なんですか」
「うんうん、そう。あんたのこと。だがまずは、この国を支配しているのが誰かっていうところから話を始めなけりゃならんな」

 ラーストチカが聞き返すと、湯気のたつ蜂蜜湯をすすりながら領主が説明を始める。

「このスヴェート公国を治めるのが大公様っていうのは、もちろん二人とも知っているだろうな。だけど大公様よりも偉い人が、この地上にはいらっしゃる」

 ごく基本的な知識の確認から始まる領主の話を、ラーストチカと母親は向かいに座って聞いていた。

 学のないラーストチカでも大公のことくらいはさすがに知っていたが、それでも具体的に何がどう自分たちと関わっているのかはわからないし、大公よりも偉い存在と言われてもぴんとはこない。

「この僻地に住んでいるとわからんかもしれんが、実はこの国は百年くらい前に戦争に負けてからずっと、大嘉ダージャ帝国という遠い東の大国に支配されとるんだわ」

 領主の説明を受けて、村長は話を続けた。

(遠い東の大国……)

 前置いて言われた通り、それは農奴にはまったく実感ができない大きさの世界についてのことで、まるでおとぎ話のような心躍る話にも聞こえる。

 わからないなりに興味を持っているラーストチカがちらりと横に目をやると、母親の方はちんぷんかんぷんで何も頭に入っていないであろう表情をしていた。
 さらに領主と村長も、よく見ると彼ら自身もまた完全には状況を理解していなさそうな様子だった。

「わしら領主は村々から集めた年貢を大公様に送り、大公様はその一部を奴隷と一緒に大嘉帝国にお送りになる。こうしてわしらの国は何十年も、大嘉帝国に人や物を貢ぎ続けとる」

 領主は自分たちも含めて何とか話に実感が持てるよう、年貢というお互いにわかる言葉を使って説明を重ねる。

「その大嘉帝国を治めとるのが、大帝様。わしらの信じている雷神様よりも偉く、世界で最も天に近いところにいらっしゃるということになっておるお方だ」

 そして村長は、ラーストチカたちがこれまでの人生で一度も存在を聞いたことがなかった、大帝という王なのか神なのかわからない存在について語った。

(雷神様より偉いのなら、それは世界で一番偉い神様のはずだよね。でもその大帝という方は、大嘉帝国という国の王様でもある……)

 空想が好きなラーストチカは、どちらかと言うとわくわくした気持ちで、大帝という新しく知った存在について考えた。

 雷神は作物を育てるのに必要な雨ももたらす神であり、農奴は皆日々の暮らしの中で雷神を祀っている。
 しかしそれはラーストチカがいる村の中だけの話であり、広い世界はもっと別の何かがあるらしい。

「知りませんでした。この国よりもずっと強くて、ずっとすごい国があるんですね」
「はあ、もう、私には何が何やら」

 ラーストチカは朗らかな声で相づちをうったが、母親はややこしい話を聞きたくなさそうにしていた。

 少なくとも片方には話が通じたことに安心した様子で、村長は大嘉帝国の大帝についてさらに深く掘り下げる。

「本題はここからでな……。その誰よりも偉い大帝様は大変お食事が好きな方で、支配している土地の少女を生贄に求めてお食べになる。捧げられる生贄の少女が高貴な身分であればあるほど、大帝様は喜ばれる。だから何年かに一度、大公様は公族の姫君を大嘉帝国の帝都に送られとるんだ」

 それはいよいよ本当に、おとぎ話のような話である。

(人を食べる化け物が、本当にこの世界にいるんだ)

 ラーストチカは人を食べる王の話に、大きく反応した。ないと言われていたものを見つけたような、嬉しい驚きだった。
 現実には陰惨で血なまぐさい惨劇であるはずのに、おとぎ話に憧れるラーストチカには生贄の風習がとても心惹かれる夢物語に聞こえる。

 化け物に食べられる公族の姫君の話は遠い昔の伝承のようなのに、今この世界で本当に起きていることであるらしい。

 領主はその現実にいる姫君がどのような人物であるかについて、ラーストチカに手短に教えた。

「帝国との取り決めで、来年は大公様の御子である四番目の公女イストーリヤ様が送られることになっておった。しかし大公様とその奥方はその公女様をたいそう可愛がっていらっしゃるから、死なせてしまいたくないとお考えになった」

 ラーストチカは何も言わずに、領主と村長の話に耳を傾けた。
 よく聞く物語では化け物の生贄に選ばれるのは継母に冷遇されている姫君であるのだが、どうやらその四番目の姫君は両親に愛されている幸せな娘であるようだった。

「だから大公様は国中に密偵を放って四番目の公女様にそっくりな少女を密かに探し出し、身代わりとして送ることにしたのだ」

 村長は蜂蜜湯をゆっくりと飲み、娘を愛している大公がとった行動について話す。
 大公が選んだのは公女にそっくりな身代わりを探すという、これまたおとぎ話のような選択だった。

 それだけでも十分嘘のような話なのに、領主はさらに驚くような言葉を後に続けた。

「そのそっくりさんっていうのにラーストチカ、あんたが選ばれたんだ。わしは数回ほどイストーリヤ様の姿を見る機会があったが、確かに雰囲気は似とるぞ」

 領主はさらりと、ラーストチカが公女の身代わりに選ばれたという事実を告げる。

 あまりに突然の一言だったので、ラーストチカは思わずぽかんと口を開けて遅れて物を考えた。

(あたしが、お姫様にそっくりな身代わり)

 ラーストチカは、自分の姿が公女に似ていると言われて嬉しい反面、会ったことも見たこともない人物についてのことなので、すぐにはその言葉が事実だと思うことはできなかった。

 しかしラーストチカは、自分の銀髪と二重の青い瞳は農奴にしておくにはもったいないほどに美しいと思っていたし、顔立ちも華やかでそれなりに整っているはずだと常日頃考えていた。

 またおとぎ話に出てくる存在のような特別な何かになりたいとずっと昔から願っていたし、心のどこかでは自分は最初から平凡ではないのだと信じ、納屋で一人なりきってもいた。

 だからラーストチカは、自分が公女の身代わりになるという事実は即座に受け入れた。

「農奴のあたしが、本当にお姫様になれるんですか?」

 ラーストチカがまず口にしたのは、自分が本当に公女のようになれるかという確認だった。

 どこかずれたラーストチカの問いに、領主は若干困惑しながらも答えた。

「まあ身代わりとして死ぬ存在としてだがな。ちゃんと姫君らしく教育する時間も用意しとるし、一応そこらへんは考えてある」

「この国の公族は元々、そう格式が高いわけではないしな」

 さらに村長が、身も蓋もないことを付け加える。

「生きては帰って来れない役割だから絶対に嫌なら無理強いはせんが、どうだろうか」

 蜂蜜湯を飲み干し空にして、領主が尋ねた。

 領主も村長も、人の命がかかっている状況にいるとは思えない呑気な口ぶりである。

 その客人の態度に対してラーストチカの母親は、怒ったり悲しんだりするのではなく、ただ何が起きているのか理解できずに困っている様子を見せた。

「はあ、そうですか。この子がその身代わりとやらになる対価がわからないことには、母親としては何とも……」

 母親はわからないなりに損得の勘定はしているらしく、何かしらの報酬を引き出そうとしていた。
 その雑な駆け引きを打ち止め、ラーストチカは勢いよく立ち上がった。

「あたし、やります。引き受けます」

 何も恐れずに、ラーストチカは客人二人の依頼を承諾した。
 自分ではない何かになる怖さはなく、むしろ夢が現実になったような、喜びに満ちた気分だった。たとえ死ぬのだとしても、ずっとなりたかった存在になれるのなら構わなかった。

「おお、やってくれるか」
「異国では何があるかよくわからんが、いいんだな」

 本人の意志によって話がまとまりそうなことにほっとした様子で、領主と村長はラーストチカの方を見た。

 逆に母親は、訝しむような目を娘に向けていた。

 だがラーストチカはまったく自分を疑うことなく、再度決意を口にした。

「はい、お姫様になります。なってみせます」

 ラーストチカの声は、古びた丸太小屋の室内に明るく力強く響いた。

「では決まりだな。すぐに大公様に返事を送る。大公様が用意した迎えが来たらこの村を離れて、どこかの城で姫君になるための勉強だ」

 領主はこれからラーストチカがどこへ行くのかについて、あっさりと語る。

(あたしが、お城に行けるんだ)

 恍惚とした気分で、ラーストチカは示された将来のことを思い浮かべた。

 農奴でしかないラーストチカは異国で死ぬ代わりに、姫君になる機会を手に入れた。

 いつも心に思い描いていたおとぎ話を現実に生きることができる日は、思いもよらぬ形で突然やって来たのだった。

4 近くて遠い

 ラーストチカが異国に送られる姫君の身代わりになることは、他の村の住民には伏せられた。
 しかし隣のスーシャの一家は半分家族のようなものだったので、秘密はすぐに伝わった。

 だからいつもと同じようにラーストチカが一人で古い納屋にいると、いつもとはちょっと違う顔をしたスーシャが扉を開けて入ってきた。
 大きめの木箱に腰掛けて微妙に床につかない足をぶらつかせるラーストチカを立ったまま見下ろし、スーシャは吐き捨てるようにこう言った。

「お前、とうとう本当に馬鹿なことを引き受けたんだな」
「それって、何の話?」

 ラーストチカは毎日スーシャに会ってきたが、今日のスーシャにはどことなく真剣な表情をしていた。
 そんな雰囲気だからこそ、ラーストチカはとぼけて笑ってみせる。

 余裕を持って笑みを浮かべるラーストチカに、スーシャは苛立ちを隠さず本題を告げた。

「公女様かなんかの身代わりとしてお前がどっかの国に送られるっていう、領主と村長が持ってきた話のことだ」

 スーシャはこちらをにらんでいたが、ラーストチカはまったく怖いとは思わなかった。

 普段なら苛立っているのは、馬鹿にされているラーストチカの方であるはずだった。
 だからラーストチカは、立場が逆であることが楽しくて、さらに冗談めかしてスーシャを煽る。

「それは馬鹿なことじゃなくて、このスヴェート公国のための必要なことなんだよ」

 ラーストチカは政治のことを理解しているわけではないが、スーシャよりも優位に立つために全てわかっているふりをした。

 するとスーシャは、ラーストチカの思った通りに声を荒げた。

「どんな酷い目にあうかわからない余所の国に死ぬために行くことが、馬鹿なことじゃなかったら何だって言うんだ」

 まるで掴みかかってくるような勢いで、スーシャはラーストチカに迫った。
 スーシャは公女の身代わりとして死ぬラーストチカを、大人に騙されて命を無駄にする可哀想な女の子か何かだと思っているようだった。

 だがスーシャがいくらラーストチカを下に見て叱ろうとしていても、本当に死ぬ覚悟を決めた人間に勝てるはずはなかった。

「どうして、スーシャがそんなに怒ってるの?」

 ラーストチカは木箱に座ったままスーシャを見上げて、わざわざ思い遣りを踏みにじった。
 これからラーストチカはただ死ぬのではなく、大帝という王でもあり神でもある化け物に喰われて死ぬのだと知ったら、スーシャはどんな顔をするのだろうかと思う。

 隙間風は耳障りな音を立てて、壊れかけた納屋に吹き込んでいた。

 我慢できなくなったスーシャはとうとう、屈んで目線を合わせてラーストチカの両肩を掴んだ。

「だったら逆に聞くけどな、何でお前は意味もなく殺されるっていうのにそんなに嬉しそうにしてるんだよ」

 スーシャの声は震えていて、厚手の外套越しにラーストチカの肩を掴む手は少し痛いほどに強く力が込められている。

 見てみると、スーシャの目には涙が滲んでいた。
 スーシャはラーストチカと違って、人の死を悲しむことができる優しい人間だった。

 多少、やりすぎてしまったかもしれないと思ったラーストチカは、そのあたりで挑発するのをやめた。
 単なる幼馴染として以上にスーシャに好かれていることは、とっくの昔から気づいていた。

(だったら最初から正直に、お前が死ぬのは嫌だって言えばいいのに)

 ラーストチカは意地の悪い指摘は心の中だけにして、少しだけ物分りが良い態度をとった殊勝な表情でスーシャを見つめる。
 本当に言ってしまいたいことを飲み込んでいるのは、お互い様のはずだった。

「ごめんね、スーシャ……」

 何に対しての謝罪なのかははっきりしないが、ラーストチカは適当に謝った。

 スーシャは黙っていた。

 やがてスーシャの潤んだ瞳が揺れて涙が零れ落ちるのを、ラーストチカは見た。

 ラーストチカは腕を伸ばし、日々の労働でやせたスーシャの身体を抱きしめた。
 そしてそばかすだらけのスーシャの頬に自分の白い頬を寄せて、耳元に甘くささやく。

「でも、ありがとう。あたしよりもあたしを大切にしてくれて」

 ラーストチカの言葉は、まるでないはずの思い遣りがあるかのように響いていた。

 絶対にスーシャは、ラーストチカの言うことに納得するはずがなかった。
 だがこれ以上本音を晒すのは恥だと思ったのか、スーシャは反論の代わりにさらにラーストチカの身体を引き寄せ、きつく乱暴に抱きしめ返した。

 ラーストチカが息苦しくなるほどに狭く腕の中に閉じ込めて、スーシャは声を押し殺して泣き震えていた。
 寒さが厳しい納屋にずっといたためにラーストチカの身体は冷え切っていたが、一方でスーシャの身体は怒っているからか熱かった。

 スーシャの好意に家が隣だった以上の深い理由があるのかどうかを、ラーストチカは知らない。
 しかしスーシャはラーストチカが好きでいるからこそ、ラーストチカが勝手に死ぬと決めたことを許せず憤っていた。

 スーシャの怒りは人の心も冷え切ったこの土地では珍しい熱い激しさがあり、ラーストチカはそれを愛でるべきものなのだと思った。

 自分のためにスーシャが心を乱しているのだと思うと、嬉しさとおかしさで笑みがこぼれる。
 その熱くて冷たいほろ苦い達成感の中で、ラーストチカはもう一度決意を新たにした。

(お姫様の身代わりになって死ぬのは、この何もない土地で生きるよりもずっと素敵で意味のあることだと、あたしは思う)

 薄汚れた納屋で薄汚れた服を着た幼なじみの腕の中に身体を預けて、ラーストチカはそこから抜け出せる自分の未来のことを考える。

 果てしなく近くにいながらも、涙を流すスーシャと微笑むラーストチカの心はどこまででも離れていた。

 ラーストチカはこの幸運を理解しないスーシャこそが馬鹿なのだと思いながらも、その生真面目なまごころは愛しく受け取り、そして返した。

5 最初で最後の口づけ

「迎えが来たら呼ぶから、ここで待っとってくれるか」

 部屋のドアから出ていこうとしながら、村長がラーストチカに声をかける。

 ラーストチカは村長の家で、大公が手配した馬車を待っていた。これも一応は秘密裏に行われているため見送りはなく、家族とは自宅での別れが最後だ。

「わかりました。待ってます」

 高ぶる気持ちを押さえて、ラーストチカは頷いた。

 村長の家もラーストチカの家と同じように丸太小屋だが、もっと大きく造りがしっかりしていて部屋の数も多い。

「そいじゃ、後でな」

 間抜けそうな呼びかけを残して、村長は他の部屋へ行った。

 一人残されたラーストチカは、身だしなみを整えて待った。

(お姫様になれたら、これよりもさらにもっと綺麗な服が着れるんだ)

 ラーストチカは未来への期待に胸を膨らませながら、自分が今着ている服を改めて見た。
 楕円のブローチで胸元を飾った上着と鮮やかな青の手織りのスカートは、村長があまりみすぼらしい格好でも良くないと用意してくれた卸したてものである。

 そうしてラーストチカが三つ編みにした髪を手で撫でたりしていると、ぎいっと何かが開く音がした。それはドアの音ではなかった。

 後ろを振り向けば木製の雨戸が下りていた窓が外から開けられて、白い粉のような雪が振り込んでいた。

「ラーストチカ」

 見慣れた赤毛の人影が、ラーストチカの名前を呼ぶ。
 窓の外にいたのは、妙に落ち着いた表情をしたスーシャだった。

 もう会うはずがなかった幼なじみがやって来ても、ラーストチカにそうたいした想いはわき上がらない。

「何か、言い忘れたことでもあったの」

 窓辺に近寄って覗きこみ、ラーストチカは尋ねた。

 スーシャとは昨晩、夕食を家族同士で食べたときに別れを済ませたはずである。
 地味でしょうがないスーシャの顔を今更見るのは、現実に引き戻された気分になるから嫌だった。

 スーシャは無言のまま手を伸ばして、窓辺に立つラーストチカの頬に触れた。

 その指の冷たさに、ラーストチカはおもわず目を閉じた。

 そしてスーシャはそのままそっとラーストチカを引き寄せて、くちびるとくちびるを触れ合わせた。
 それはかすかな、雪解けのようなはかない口づけだった。

(またスーシャは勝手なことをする)

 ラーストチカは心の中で毒づいたが、スーシャとの口づけを心の底から拒んでいるというわけでもなかった。

 目を閉じてしまえば、相手のスーシャが平凡な農奴の少年であることも一瞬だけは忘れることもできる。

 外の空気もスーシャの身体も冷えていたが、そのささやかな口づけにはほのかな温もりがある気がした。
 お互いの存在をふれ合わせた二人の間には、長いのか短いのかよくわからない不思議な時間が流れる。

 やがてスーシャがくちびるを離すと、ラーストチカもゆっくりと目を開けた。
 淡く甘い感覚が、ラーストチカのくちびるには残されていた。

 とりあえず目的は果たしたらしく、スーシャは深いため息をついていた。そしてラーストチカの頬に手を置いたまま、優しげな顔で諭す。

「ラーストチカ。お前は、姫君なんかじゃない」

 死地へ旅立つ幼なじみを見送る、スーシャの声は穏やかだった。
 しかしラーストチカにとっては、姫君のふりはできても所詮はまがいものでしかないのだという、スーシャが話す真実は聞きたいものではなかった。

(違う。あたしは……)

 その思い遣りに虚を突かれて、ラーストチカは目を見開いた。

 しかしスーシャは冷静なふりをした表情で、ラーストチカを見つめ続ける。

「お前がどこの誰に似ていたとしても、これからどんなに立派なお城へ行ったとしても、お前は農奴のラーストチカだ」

 まるで暗示をかけるように、スーシャはラーストチカにささやいた。
 それはスーシャの告白であり、忠告であり、呪いでもあった。スーシャはラーストチカの得た幸運を、根本から否定していた。

 鈍く暗い褐色のスーシャの瞳には、まだ誰のものでもないラーストチカの姿が映っている。

(嫌だ。どうしてここから離れさせてくれないの)

 ラーストチカは、今までで一番にスーシャの言動に苛立った。身体の奥から黒く重い感情がわき上がり、腹が立って怒りを隠せなくなる。

 他人が大切にしている願いを善意と良識で壊そうとするスーシャを、ラーストチカは許すことはできなかった。
 だからラーストチカはふいの衝動に従い、自分にふれたままのスーシャの手を振り払って、さらに反撃を試みた。

(あたしは、あたしじゃなくなってみせるから)

 鋭い音を立てて、ラーストチカの片手がスーシャの顔を強かに打つ。
 避けることなく、反撃することもなく、スーシャはただ平手を受けてラーストチカの方を見た。

 ラーストチカは窓を挟んでスーシャと対峙し、ひどく罵る言葉を飲み込んで前を向いた。

「確かにあなたとのキスじゃ、あたしがお姫様になれる魔法はかからない」

 口づけをしたくちびるを手で拭い、ラーストチカははっきりと言い返した。

 あえて笑みを浮かべるラーストチカに、スーシャは心配そうな顔をして何か言いたげに口を開く。

 しかしそのとき、再び部屋のドアが開く音がした。
 やって来たのは村長だ。

「大公様の馬車がいらっしゃったが、準備はできてるか」
「はい。大丈夫です」

 ラーストチカは即座に返事をしてから、窓の方を振り返った。

 だがもうそこには、スーシャの姿はなかった。

6 古城での教育

 それからは特に問題はなく、ラーストチカは村にやって来た迎えの馬車に公女の身代わりとして乗った。

 スヴェート公国は貧しい国だったので、大公が用意した馬車も、その行先の古城も、ラーストチカが想像していたよりもずっと質素だった。

 特に古城は石造りで重々しい雰囲気があるものの、ラーストチカの村とそう変わらないくらい辺鄙な土地に立っていて、広さは村長の家とそう変わらなかった。
 そのうえその古城は本来は高貴な罪人を幽閉するための場所だったらしく、今はほぼ打ち捨てられてそこらじゅうに蜘蛛の巣がはっていた。

 しかしラーストチカはいかにも陰気で不幸そうな歴史を感じさせるその建物が嫌いではなかったので、かえって前向きになって古城の雰囲気を楽しんだ。

(これはこれで、無実の罪で酷い目にあってる可哀想なお姫様みたいで素敵じゃないかな)

 すっかり悲劇の姫君になりきった気分で、ラーストチカは履きなれない靴を履いて石の床の上を歩く。

「もっと足音を小さく、一歩一歩をなめらかに」

 その歩き方を見て注意するのが、長年公女の教育係を務めてきたという老女だった。
 年老いてはいても姿勢良く立つ老女はラーストチカに、厳しく礼儀作法を叩き込んだ。

「はい、気をつけます」

 やる気は十分にあったので、ラーストチカの飲み込みは早かった。

 教育係には老女の他にもう一人老人の男性がいて、大嘉帝国の言語や文化を学ぶ授業や、公国の歴史や家系図を学ぶ講義をしてくれた。
 大嘉帝国の言葉は文字や発音は難しかったが、文法はそれほど複雑ではないので習得は順調に進んだ。

 またさらに老女は、ラーストチカの食事にも指図をした。

「あんたは顔は公女イストーリヤ様によく似てるが、やせすぎだわ。もっと女の子らしく肉をつけなさい」

 ラーストチカは、故郷の村にいたときにはやせすぎだと言われたことはなかった。周りにはラーストチカ以上にやせて細い住民がたくさんいたからだ。
 しかし姫君を目指すにはやはり農奴の外見では貧相なのだろうと思ったので、老女の指摘には素直に従った。

「では毎日たくさん、お食事をいただきます」

 老女に教えられたテーブルマナーを守りながら、ラーストチカは今までの倍以上の量を一日二食で食べた。食べることは、嫌いではなかった。

 野菜を煮込んだシチューに茹でた卵、塩漬けの豚肉に大麦のパン。
 味付けは城の造りと同じで素朴でも、品数だけは毎日豪勢な食事だ。

 食用の豚のように、もしくは魔女に拾われた子供のように食べて肥えることで、ラーストチカは自分がただの姫君の身代わりではなく、化け物に喰われて殺される姫君の身代わりであることを思い出す。

(これで私も、美味しく食べてもらえるのかな)

 銀のフォークで肉を口に運びながら、ラーストチカはこれから待っている自分の運命に思いをはせる。

 王子と結ばれて幸せに終わる姫君の物語も、無残に殺されてしまう姫君の物語も、どちらもラーストチカは好きだった。
 だから異国を支配する化け物に食べられて死ぬのも、胸がどきどきするくらいに楽しみになる。

 それはきっと不幸な結末として語られるのだろうけれども、何も残らない退屈な死こそが不幸だと思うラーストチカにとっては十分すぎるほどに幸せな死に方に思えた。

7 宝石付きの手袋

 古城での生活を続けて半年以上たったころには、ラーストチカはすっかり姫君らしい身のこなしと言葉遣いを身につけていた。

 よく食べたおかげで背がすらりと伸び、ほどよく肉もついたラーストチカの姿は、どこからどう見ても健やかで美しい公女だ。

 こうしてラーストチカが立派に成長したところで、大嘉帝国からの使者が古城に迎えに来る日がおとずれる。

「これならまあ、公女様の代わりになれるんじゃないかね」

 薄暗い古城の一室で、教育係の老女がラーストチカの耳に金色のカフスをつけながら頷く。

「ありがとうございます。きっと素敵な衣裳のおかげです」

 装飾品が付け終わるのをじっと待ち、ラーストチカはお礼を言った。

 ラーストチカは帝国に出発するにあたり、やっと本当に豪華な衣裳を着せてもらっていた。

 引きずるほどに裾が長い藍白のドレスは金糸の刺繍で細かく縁取られたもので、その上には真っ白で滑らかな絹のショールを羽織る。
 胸元は色とりどりのビーズを重ねたネックレスで飾り、組紐を編み込んで優雅に結い上げた銀髪の上には、乾燥させた花で作った冠が被せられた。

 さらに真っ直ぐな意志を秘めた顔には目を縁取るように化粧が施されて、凛としたまなざしと肌の白さを華やかにひき立てる。

(私は、本当にお姫様になったんだ)

 自分の瞳の色と同じ青色の宝石が散りばめられた手袋をはめた手を眺めて、ラーストチカはうっとりと息をついた。
 シルクの手袋はさらりと手触りがよく、ドレスもショールも軽くて暖かい。

 最後は殺されることと引き換えの姿だとわかっているからこそ、ラーストチカは自分がきらびやかで高貴な装いをしていることが嬉しかった。

 あまりにも喜びでいっぱいで、農奴に生まれた自分が本物の公女の晴れ舞台を奪ったことが、申し訳ないような気さえしていた。

(本物のお姫様らしく振る舞うのなら、生贄なんか嫌だって思うべきなのかな。でも国の役に立って死ねるのなら、それが誇りだって考えることもあるか)

 ラーストチカは、自分がこれからなりすます存在のことについて考えてみる。
 しかし結局のところは、会ったこともない本物の考えることは想像もできない。

 教育係の老女は最後の仕上げに良い匂いのする水を、ラーストチカの髪や首につけてくれた。
 ラーストチカはその香りによって、さらに堂々と美しくなれた気がした。

 そしてちょうど身支度が全て整え終わったころに、語学の先生の老人が呼びに来る。

「帝国の搬贄官はんしかん様のご一行が、もうそろそろいらっしゃる時間だ」
「かしこまりました。そちらに向かいます」

 ラーストチカは姫君らしい言葉遣いで返事をした。

 その一瞬、幼なじみのスーシャが最後に言った、お前は農奴だという言葉が頭をよぎる。

 しかし今のラーストチカには、公女になりきれるかどうかについての不安はなかった。

8 帝国の人々

 ラーストチカは石の階段を下り、建物の外に出た。
 そして木の柵で囲まれた城の前の広場に立ち、城の護衛とともに迎えを待つ。

 薄く曇った雲越しに太陽が弱々しく光を注ぐ、冷え込んだ昼だった。

 しばらくすると広場には、物見台のついた門を通って騎馬兵と荷馬車が並んで入って来た。

 古城にやって来た大嘉帝国の兵士たちは大柄で髪を結い上げていて、魚の鱗のような鎧を着て大きな黒い馬に乗っていた。
 スヴェート公国の風習では男性が髪を結い上げることはないので、それは不思議な光景だった。

 兵士たちは皆一様に表情に乏しい顔をしているので、兜を被った姿はどれも同じ人物に見える。
 しかしその行列の中からラーストチカの前へと進み出たのは、他の兵士とは違う褐色の肌をした、金髪の端整な顔立ちの美青年だった。

「はじめまして、イストーリヤ公女殿下。犠妃ぎひとなるあなたを帝都にお連れする、搬贄官が僕です。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 華やかなで立派な文様の入った裾の長い衣を纏った青年は、綺麗な発音のスヴェート公国の言葉で、ラーストチカがなりかわっている公女の名前を呼んで挨拶をした。

 搬贄官というのは帝国が支配する国々で生贄となる少女を選び、帝都の皇城にいる大帝のもとへ運ぶ役職なのだと、ラーストチカは以前教えられていた。
 犠妃というのはラーストチカのような立場にいる生贄の少女のことで、大帝に娶られる花嫁であると同時に食される食材でもある者として、丁重に扱われる神聖な存在であるらしい。

(だから私は普通のお姫様以上に、特別にしてもらえる)

 ラーストチカは事前に習った知識が間違いではないことを、青年のうやうやしい態度で確認したうえで堪能した。

「何だか、普通に素敵な殿方なのですね」
「世にも恐ろしい大男じゃなくて、残念ですか?」

 搬贄官という奇妙な役職に就いている人物が整った外見であることが意外で、ラーストチカは感想を率直に述べた。
 すると青年は、自分が容姿に恵まれていることに自覚的な微笑みを浮かべる。

 ラーストチカは手袋をはめた手を上品に組み、青年の冗談に答えた。

「少し、期待外れだったかもしれません。でもあなたのような格好良い方が迎えに来てくれて嬉しいですよ。搬贄官殿」

 わざと甘えた声でラーストチカが青年を呼ぶと、青年もまた妙に気取った口ぶりでお礼を言った。

「それは誠に、ありがたいことです。僕は公女様のお美しさにこそ、驚きましたよ」

 ごく自然に値踏みをするように、青年はラーストチカを見つめる。
 外交辞令が混ざってはいても言葉に嘘はなく、青年の深い藍紫色の瞳はラーストチカの美しさをそれなりには認めているように見えた。

(ちゃんとお姫様として、綺麗だと思ってもらえて良かった)

 逆に本当の自分になれた気持ちで、ラーストチカは頬を染める。
 ラーストチカは青年の視線を受け止め、内心かなり満足していた。公女という立場は偽りでも、褒められた容姿は嘘ではないはずだった。

「では公女様は、こちらの馬車にどうぞ」

 青年は優雅にラーストチカの手をとり、豪奢な金張りの外観の馬車に案内した。

 細かな飾りに縁取られた扉の向こうへと、ラーストチカは導かれる。
 その車内は上等なクッションと毛皮が敷かれており、じっとしていても暖かく座るのが楽な柔らかさの造りになっていた。

(ちょっと狭いけど、居心地は悪くはなさそう)

 白いショールにしっかりと包まり、ラーストチカは小さな宮殿のような座席についた。
 外では城の護衛の兵士たちが、神妙そうにラーストチカが馬車に乗るのを見ていた。

 馬車の扉に手をかけながら、青年はラーストチカに声をかけた。

「揺れに酔って気持ちが悪くなったら、すぐに御者に言ってくださいね」
「はい。そうします」

 体調を気遣ってくれる青年の言葉に、ラーストチカは素直に頷いた。
 生贄を健康なまま運ぶのが、搬贄官という役職に就いている青年の仕事だった。

 やがて扉の閉められた馬車は鞭を打つ音とともにゆっくりと動きだし、他の荷馬車や騎馬兵とともに城を囲む木製の柵の門を越えて進む。

 飾り窓を覗けば外は仄暗く、鈍い色の空と白く凍てついた大地の景色が流れていた。

 薄汚れた古城の姿もそのうち地平線の彼方に消えて、ラーストチカは遠く見知らぬ国へと運ばれていった。

9 偽物の姫

 いくつもの凍った河や高原を越えて、ラーストチカの乗った馬車とその一行は大嘉帝国の都である帝都へと向かった。

 とにかく気候が厳しい土地を通るので、旅そのものはそれほど楽しいものではなかった。

 しかしその分、長い旅を終えて目的地に辿り着いたときの感動は大きかった。

(ここが大嘉帝国の、世界で一番すごい国の都なんだ)

 帝都に到着したラーストチカは、巨大な白塔や瑠璃色の寺院が立ち並ぶ街の中心を馬車の窓から覗き、まるで自分が小人になったかのように錯覚した。

(あんなに大きい建物を、いったいどうやって建てるんだろう)

 この土地には巨人も住んでいるのだろうかと思って、街を行く人を見る。
 しかし帝都の住民は、肌や髪の色には様々な違いがあっても、身体の大きさは常識的な差しかなかった。

 やがて馬車は金色の屋根が荘厳に輝く皇城の門を抜けて、ラーストチカは旅の終点に辿り着く。
 進む速度をしだいに緩めた馬車は皇城の敷地のどこかで止まり、扉は搬贄官の青年によって開けられた。

「長旅、誠にお疲れさまです。ご気分はいかがですか?」
「なかなか良い気分です。窓から見えた帝都の様子が、とても素敵だったので」

 青年に手袋をはめた手をとってもらって、ラーストチカは優雅に青いドレスの裾を持ち上げて馬車から降りる。

 外に出た先の石畳に立ってあたりを見渡すと、そこは池の中に浮かぶように建てられた立派な居館の前だった。
 居館はラーストチカが今まで見たこともないような鮮やかさの塗料で彩られていて、軒や柱の装飾に使われている赤や緑などの様々な色が目を楽しませた。

(公国の古城よりも、ずっと綺麗だ)

 ラーストチカは艶やかな瓦葺の屋根まで見上げて、深く息をついた。
 帝都の冬は降雪は少ないものの寒さが厳しいと聞いていたが、気分が高揚しているせいか気温はそれほど気にならなかった。

 隣にうやうやしく控える搬贄官の青年は、ラーストチカを館の門まで連れてくると、かしこまった調子で口を開いた。

「地を這う全ての獣、空を飛ぶ全ての鳥、海に棲む全ての魚は恐れおののき、あの方の支配に服して、あの方の食物となる。僕たちの王であり神でもある大帝は、全てを支配し、全てを食します」

 青年はおもむろにラーストチカに帝国の信仰について語り、そしてそのまま館の役割を説く。

「この饗花宮きょうかきゅうは、至高の救世主である大帝に娶られる尊い食材であるあなたが滞在することになる館です。大帝は別のところにある宮帳にいらっしゃいますから、あなたが召される宴の日まで接することはありません」

 犠妃は妃であると同時に生贄でもある存在であり、夫となる大帝を前にして結ばれるのも死を迎えてからのことである。

 そのため饗花宮もまた、大帝の花嫁となる少女をもてなす場所であると同時に、大帝に食される食材である少女を管理する場所でもあることを、ラーストチカはあらかじめ習って知っていた。

 そしてその何度も繰り返しているのだろう説明の後に続くのは、搬贄官の青年とは違う人物の、低く抑揚のない不遜な響きの声だった。

「お待ちしておりました、イストーリヤ様」

 初めて聞く声の呼びかけに建物を見上げるのをやめると、ラーストチカの目の前にはある一人の背が高い大男が立ってた。

「俺は神である大帝に仕える料理人であり、この饗花宮の番人でもある庖厨官のルェイビンと申します」

 まず男は淡々と、名前と役職を名乗った。

 男は敬語で話しているわりに、気難しげで高圧的な佇まいだった。細い布で結ってまとめられた髪も不機嫌そうな切れ長の目も黒く、精悍な顔は鋭い雰囲気を持っている。

 武器を携えてはおらず武人ではないはずなのに、鴉青からすば色の裾の長い服を着た身体はたくましく、素手で人が殺せそうな人間に見えた。

「あなたが、庖厨官の方なのですね」

 ラーストチカはルェイビンと名乗ったその男を、まじまじと見つめた。
 庖厨官というのは大帝に仕える料理人のことであり、大帝に捧げられた供物である犠妃を屠って肉を割き、料理にして宴の席に出す役割を持つ存在だった。

(そう。だから私を食べるのは大帝だけど、殺してくれるのはどうやらこのルェイビンって人らしい)

 ラーストチカは、大きな獣を魔法で人間に変えたらきっとこの男のようになるのだろうと思いながら、ルェイビンの様子を伺った。
 誰にも興味を持たない狼のような目をして、ルェイビンはラーストチカを見ていた。

 ここ一年でラーストチカの背はかなり伸びたのだが、それでもルェイビンと目を合わせるには下から見上げる必要があった。

 ラーストチカをここまで連れて来た青年は、ルェイビンの隣に立って別れを告げた。

「犠妃となる方をこの饗花宮にお連れする、搬贄官である僕の仕事はこれで終わりです。後は庖厨官であるルェイビンが、あなたに従いますので」
「かしこまりました。ここまでありがとうございました」

 微笑みを浮かべて手を合わせる青年に、ラーストチカはお礼を言った。

「では、これで」

 青年はルェイビンと視線を交わして、立ち去った。
 改めて青年の後ろ姿と目の前のルェイビンを見比べてみると、人に与える印象の良さなど、何もかもが対照的に見えた。

 搬贄官の青年がいなくなると、ラーストチカはルェイビンと二人っきりになった。
 ルェイビンは見るからに重そうな門を一人で開けて、押し黙ったままの仏頂面でラーストチカを中に通した。

(何か、一言くらい言えばいいのに)

 神に嫁いで妃となる神聖な存在に接しているとは思えないルェイビンの態度を、ラーストチカは不思議に思った。

 饗花宮に足を踏み入れて、まず目に入ったのは黒いレンガが敷き詰められた庭だった。
 木々のほとんどは冬枯れしたしていたが、一本の黒い梅の木だけは花をつけている。かすかに紫をにじませたその朱い花は、静かな冬の情景に華を添えていた。

「俺は七日後に、お前を殺して大帝の宴の料理にする」

 ルェイビンはまったく梅に目をやることなく庭を通り過ぎて、ラーストチカのこれからについて語った。
 二人になった途端に、ルェイビンは早くも敬語ではなくなっていた。

 植物を象った庇の装飾が美しい渡り廊下では、淡い青色の衣を着た女官たちがずらりと横に並んでラーストチカにお辞儀をしていたが、ルェイビンが先を急ぐので彼女たちと言葉を交わす暇はなかった。

 やがてルェイビンは花鳥の飾り彫りが施された扉の前で立ち止まり、冷たく一瞥してラーストチカを招き入れた。

 そこは火炉が焚かれた明るく暖かな客室で、部屋の中央に置かれた卓上にはお茶や豆菓子が用意してあった。

 しかしルェイビンは客人を席に案内することなく行く手を阻み、壁に手をつきラーストチカを壁際に追い詰めて迫った。

「お前が死ぬその日まで俺は、お前の面倒を見てお前の望むものを用意するんだが……」

 ルェイビンは自分がこれから果たすべき役割について語りながら、ラーストチカに顔を近づけてじろじろと見つめた。口づけするのかと思うほどに距離は近かった。

(一体、何を?)

 ラーストチカはルェイビンの行動を怪訝に思って、ルェイビンの男らしく骨ばった顔を見上げた。何か酷いことをされるかもしれないという怖さは立場から考えてなかったが、自分よりもずっと背の高い男に退路を塞がれればやはり圧迫感はあった。

 ただ何かを言うために、ルェイビンはラーストチカの動きだけを封じていた。

 そのふれそうでふれることのない微妙な近さにラーストチカが居心地の悪さを感じていると、ルェイビンは目を真っ直ぐにそらさないままつぶやいた。

「お前は、本物のイストーリヤ公女じゃないだろ。身代わりだな」

 ルェイビンの声は、低く鋭くラーストチカの耳に響いた。

(どうして。ばれるようなこと、私はしてないはずだよね)

 突然自分の正体の話になって、ラーストチカは狼狽えた。
 なぜかルェイビンは、ラーストチカが偽物であることを気づいていた。
 正直なところ、ラーストチカは本当に自分が姫君になっているつもりだったので、見抜かれる可能性もあることはまったく考えていなかった。

 しかしその動揺を見せては負けだと思ったので、ラーストチカは堂々と嘘を貫いた。

「いいえ。私はスヴェート公国の第四公女のイストーリヤです」

 ラーストチカはなるべく凛と高貴に聞こえる口調で、自分の偽りの名を名乗った。
 だがルェイビンはもうすでに自分の洞察に確信を得ているらしく、ラーストチカの反応を無視した。

「この饗花宮にはお前のような偽物がよく来るから、どういう人間かは一目見れば見ればわかる。搬贄官のあいつは、いつも気づかないふりをするが」

 捕らえた動物を観察するように、ルェイビンは酷薄そうな黒い瞳でラーストチカの顔を眺めている。

 ルェイビンの言い分を聞いたラーストチカは、自分に落ち度はなさそうなことにはほっとした。

 しかし誰かの身代わりになることをよくある話扱いされたのは、無性に気に入らなかった。
 だからラーストチカは宝石付きの白い手袋をはめた手でルェイビンの壁に伸ばした腕の手首を握り、精一杯の力を込めた。

「私は偽物じゃありません。本物です」

 鋭く冷静に、ラーストチカはもう一度嘘を重ねる。

 元は貧しい農奴に生まれたラーストチカは鍛えた大男よりは非力であったが、何も反撃ができないほどかよわいというわけでもなかった。

 その握力の強さは想定外だったのか、ルェイビンは一瞬痛そうな顔をして、壁から手を離してラーストチカを解放した。

「まあ、お前がそう言い張るなら、そういうことにしておこう。お前が偽物であれ本物であれ、俺はお前を殺すんだからな」

 茶番には付き合いたくはないといった様子で、ルェイビンは言い捨てた。

 語る言葉は冷淡だったが、ルェイビンがラーストチカを殺せばラーストチカは本物になれるという意味にもとれた。

「ご理解いただけたみたいで、嬉しいです」

 ラーストチカは勝ち切った気持ちで、少々乱れてしまった髪を耳にかけてルェイビンに微笑んだ。

 今度は何も言うことなく、ルェイビンはラーストチカのために円卓の前に置かれた椅子をひいた。
 ルェイビンはラーストチカを馬鹿にしているようにも見えたし、憐れんでいるようにも見えた。

(ちゃんと私をお姫様にしてくれるなら、別に何を考えてくれていてもいいんだけどね)

 自分を殺す人間を前にしながら、ラーストチカは席について用意されていた豆菓子とお茶をもらった。

 少なくとも今のところは、ルェイビンの心の内は重要ではなかった。

 ラーストチカはおとぎ話のように死ぬことを願い、ルェイビンは自らの務めを果たすことを目指す。その各々の望みが交わる一点さえ無事に成れば、お互いのことは関わりのないはずだった。

 作法を守りながらも遠慮をすることなく豆菓子を食べてお茶を飲むラーストチカを、向かいに座ったルェイビンは黙って見ていたが、しばらくすると渋々口を開いた。

「さっきも言ったが、料理でも何でもお前が望むものを用意するのも俺の仕事だ」

 犠妃であるラーストチカは庖厨官であるルェイビンに管理される食材でもあったが、世界の支配者である大帝の妃になる者として家臣であるルェイビンに命令を下す存在でもあった。
 そしてやる気が無さそうな口ぶりで、ルェイビンはラーストチカに尋ねた。

「何か欲しいものや、やりたいことはあるか?」
「それならまずは、私は都の中心にあったような大きな建物の中に入ってみたいです」

 ラーストチカは馬車から見た雄大な帝都の街並みを思い出しながら、間を置かずにすぐに答えた。たとえルェイビンにはどうでもよいことだとしても、ラーストチカには死ぬ前に姫君としてやってみたいことがたくさんあった。

「そうか。じゃあ明日、お前をこの皇城で一番高い楼閣へ案内しよう」

 ルェイビンは腕を組み、にこりともせずに頷く。

 実際には偽物なのだとしても、ラーストチカが犠妃としてこの饗花宮にいる限りは、ルェイビンは殺すその日まで主の言葉には逆らえないのだった。



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