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「遠景」について、サークルについて

写真は本日の本郷キャンパス、法文一・二号館。絵になるので。
蝉が鳴き始めていました。


まず、「遠景」を最後まで読んでいただいた方がいらしゃいましたら、心から感謝いたします。多くの方々が投稿を行っているnoteにおいて、読者の方がいるというのは奇跡的といいますか、正直「スキ」を頂けることにまだ十分な現実感を持てないでいます。

後でも述べますが、この投稿は徹頭徹尾、私自身のためだけの投稿です。投稿するのも申し訳ないのですが、可能性として人の目に晒される場にこれを出さないと意味がないため、投稿させていただきます。

一昨日まで4日間投稿していた「遠景」について

・書誌?

これは、2年前の5月、文芸サークルの同人誌『駒場文学 85号』に掲載したものです。

もっとも、それは縦書き・紙媒体に掲載したものだったため、このnoteに投稿するにあたってはいくらか体裁を変え、また数か所、目に着いた部分を変更しました。

ラストも少し変えています。
それは、合評会(掲載した作品について議論し合う会)で受けた指摘を反映したものです。
参考:http://blog.livedoor.jp/bunken_u_tokyo/archives/1851138.html#more

と言っても、noteで「遠景」を読んでくださった方々には確かめようのない変更ですから(読み切ってくださった方々がいるかどうかわかりませんが、そう仮定せざるを得ないので)、これはやはり完全に自分のためのメモです。

そして、次の次の部分(「死の倫理について」の部分)もより一層自分のためのメモです。
ですから、もしこの投稿を読んでくださっている方がいらっしゃいましたら、是非最後の「サークルについて」の部分だけは(あとできれば次の「書き方について」も)読んでいただけると幸いです。

・書き方について

書き方としては、情報同士をきちんと結びつけるような、読者がすべてを納得しながら読んでいけるような、そういった書き方はしていません。これはレイモンド・カーヴァーの短編を読み、いま私たちの周囲で起きていることを真に書こうとしたら、こういう書き方しかできないのではないか、と考えたためです(もちろんもっともっとたくさんの理由があるのですが)。いわばその実験を行いました。

その一方で、今日流通している物語の多くは、これの反対の書き方をされています。作者と読者はすべてを見通し、その眼下で登場人物たちが右往左往している、というような。
だから、きっと読んだ方の多くが、どうしてこんなにわかりづらい、自分勝手な内容なんだろう、と思ったのではないかと思います。

でも、と私は反駁したくなります。私たちが生きているこの世界は、もっと見通しが悪く、何が起きているか、誰もよく分かっていないはずなのに。

・死の倫理について

これは、悼みの小説だと思っています。「思っています」とするのは、客観的に読んでどのように読めるのか、書いた本人としてはよくわからないためです。
私が文学部で5年費やして学んだのは、創作とアカデミズムの間隙の大きさです。幼稚な皮肉として、私はこの短い小説を悼みの小説だと思っています、と書きます。

そして、悼みの小説を書く上できっと大切なのは、そこに現れている死を濫りに扱わない(「きちんと」濫りに扱うならばむしろ良いでしょうが)ことだと思います。だって、現にそこでは人が亡くなっていて、また同時に、現実の世界(と私たちが呼ぶところ)で多くの人が亡くなっているのですから。

私にそれが出来ていたでしょうか。私がそう心配するのは、この倫理を守ることと、この小説を書く上での私の目標が――そして何よりもこうして作品として掲載すること自体が――相反している可能性があるからです。

上記の合評会で私が述べていた、この小説の目標を一言でまとめると、「悲劇が収束しないことを書く」ことになります。
そのために、言うなればかなりぶっきらぼうな書き方を、私はしました(特に『駒場文学』に掲載したものは、最後の一文がよりその色を強めています)。上手な起承転結が働いて、物語の最後に、残された我々に対する救いがあからさまに用意されているようには、どうしても書けません。
それこそ、他者の死を馬鹿にした行為に思えてなりません。

ごちゃごちゃとわかりづらいことを述べましたが、私が『駒場文学』への掲載以降ずっと心配していて、そしてこんな不必要なエッセー?の投稿を行っているのも、上記の相反の可能性を思ってのことです。
つまり、私はこの小説によって、その人の死を犯してしまっていないか、ということです。
「収束しない」ということを書くことは、私なりのその悲劇に対する悼みであり、そして何よりも、そこにある「何か」に対する祈りです。ですが結局それは私の身勝手であり、その人が遠くへ行ってしまったこの状況を、薄汚く利用しているだけだ、という自覚が、拭い難くあります。

もちろんこの文章を平気な顔をして投稿することも、この悪行に対するさらなる加勢であり、そして『駒場文学』へ掲載しさらにnoteへ投稿したことの、文字数の多い言い訳です。

では、私がいま正義に則って行動しようとするならば、何をするべきでしょうか。それは間違いなく、noteに上げた「遠景」の投稿を削除し、またこの下書きも投稿しないことです。

ところがそうはしません。私自身としても、本当に残念なことなのですが、このまま進んでいくことになります。


サークルについて

この投稿をすることの、いわば言い訳として、私の参加する文芸サークルの宣伝をします。

名前は「東京大学文学研究会」です。大学当局の公式めいた名前ですが、ただの文化系サークルです。そしてインカレです。東大生と他大生の割合は、半々といった感じでしょうか。

扱うジャンルは純文学です。活動としては、主に「読書会」と「文章会」、そして年に2回ある学園祭で発行する『駒場文学』の制作です。

「読書会」は、ある課題作品を読んできて、参加者同士でいろいろと議論しあう会です。
一方「文章会」は、各自作品(たいてい小説か詩)を書いてきて、それを互いに批評?しあう会です。
『駒場文学』には、「文章会」などを通して自分たちが創作した作品(評論などもあり)を掲載し、それを学園祭で販売します。

活動記録があるので、興味を持っていただいた方がいらっしゃいましたら、以下のリンクをご覧ください。ここから見学の連絡などができます。
http://blog.livedoor.jp/bunken_u_tokyo/
(なお、大学のサークルであるために参加可能なのは大学生の方のみとなります)


終わりに

ずいぶんと論理の不全な、とにかく分かりづらい文章になりました。
同様に、「遠景」自体も決して上手に書けたとは思っていません。
だからこそ、もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当に、ありがとうございました。

明日以降もまたいけしゃあしゃあと上げていきますので、読んでいただけたら嬉しいです。

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