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Loving-Kindness

「バリ島の人ってお金なくても明るいし、悩みもなさそうで羨ましい」「貧困なんて気にしないって感じ」「やっぱお金は必要じゃないよね〜」みたいなことをよく耳にする。

そう思う人達の気持ち、すごーく分かる。
みんな底抜けに明るいし、すごくポジティブだし。

けど、どんなに大きな笑顔でも、明るく振る舞ってても、みんなそれぞれ悩みも苦労もある。

子どもにご飯を満足に食べさせてあげることができない親や、学校に行けず我慢してる子は、「お金なくても人生最高だぜ!」とは、もちろんなかなか思えない。

別に悲観的になりたいわけでも、感傷的になりたいわけでもないけれど、でも現実として、自分で自分の身を守ることが少し難しい人達が、私の周りには結構いる。

そんな中、私みたいな人にでも何か出来る事はないかなと、Nido English Schoolを横浜に起業し、バリ島キッズの学費支援を始めたのが9年前。
(あっという間に創業10年目になりました)

これまで100人以上が学校に通い始め、全員の高校卒業までの学費サポートが続いている。

そして学費支援の目処がついた2019年に、私はバリ島へ移住することに。

Nidoハウスを設立し、学校を卒業した若者達と一緒にNidoハウスに暮らしながら、小さなサーフィンショップや旅行業を始めた。

バリ島へ毎週のように友人知人が訪れてくれ、たくさんのローカル体験をみんなで共に楽しんできた2年間。

(横浜Nido English Schoolの生徒さんを中心に、これまで100人以上の人達が訪れてくれたと思う)

ゆっくりだけど着実に、横浜Nidoとバリ島Nidoの繋がりが深まり広がり、今後の可能性に絶好調にわくわくしているのを感じる中、コロナが到来。

空港は閉鎖してしまったし、サーフィンショップや旅行業は休業。

Nidoハウスは、コロナで住居を失ってしまった人たちに無料提供することにした。また、必要に応じて炊き出しや食料支援・物資援助等を始めた。

今は、その支援活動の中で出会った子ども達や大人達、さらには今年産まれた我が家の息子レンと、総計20人以上のみんなで一緒に、大家族のようにわいわい暮らしている。

レンはひたすらひたすらみんなに可愛がられ、笑い茸(キノコ)を食べたかのように毎日笑ってばかり。

最近は、ミルクを飲んでは豪快に嘔吐し、そこからケタケタ笑った後、たっぷりの追ミルクをキメる。妖怪レン様。
ま、飲み会は吐いてからが本番みたいなとこあるもんね。「さすが我が子!」と毎回褒めている。

-----さて。
この9年間を振り返ってみると(特にバリ移住してからは)、「大志を抱いて動いてきた」とかでは決してなく、ひたすらみんなの期待や希望に懸命&丁寧に応えてきた結果として、「今・ここ」がある私。

だから順風満帆な毎日なわけではなく、実際はかなり波乱万丈だ。

この間なんて、すごくすごく仲良くしてたママDian&息子Andreが突然いなくなってしまった。いわゆる「夜逃げ」。

DVが酷かったという元旦那さんに住所がバレてしまったのか、その元旦那さんの借金が膨らみすぎて、取り立ての人達に何か指示をされたのか、真相は全く分からない。

誰にも何も言わず、最小限の荷物だけ持って、真夜中にこっそりと出て行った2人。

夜逃げするしかないところまで追い込まれていたのに、私は何の力にもなれなかった。
あんなに毎日一緒にいたのにな…。

2人がいなくなる前日の夜、Andreは私の部屋に何度も来てくれたんだけど、私は仕事中(zoomレッスン中)で、話をすることができなかった。

レッスンが終わったら、Andre大のお気に入りのクマのぬいぐるみ&手紙がドアノブに掛けられていた。

今までAndreが私のレッスン時間に部屋に来ることなんて、1回もなかった。Andreが手紙をくれるのも初めてだった。

けど、もう23時をまわっていたし、レンも夜泣きを繰り返してグズグズしていたしで、私はAndreの部屋を訪れず、その日はそのまま寝ちゃったことを今でも悔やんでいる。

翌日朝、Andreは&ママDianは太陽が昇るより早く、誰にも挨拶しないままいなくなっていた。

……Andreは、私がバリに移住してからできた、私の最初の小さな友達。これまで毎日毎日毎日毎日、これでもかってくらいに一緒に時間を過ごした。

スケボーにサーフィンに魚釣り、プールにBBQにピクニック。一緒に勉強したり料理したり、ドラえもんについてアツく語ったり。

お互いの部屋で何万回とお泊まり会をしてるのに、お泊り会をする度に「あぁ楽しいね。今日は朝まで話そうね!」って言う。そして毎回10時前には必ず爆睡しちゃうかわいい奴。

初めてショッピングモールに行った時は、エスカレーターが怖くて乗れなかった。

初めて映画館に行った時は、「ポップコーンってこんなに美味しいんだ!」って目をまんまるにして感動してた。全部食べたいのに必死に我慢して、持ち帰ったポップコーンを近所の子ども達に1粒1粒、それはそれは嬉しそうに大切そうに配ってた。

レンが退院してからは、毎朝6時には必ず部屋に迎えに来てくれて(←早いよ笑)、一緒にお喋りしながらお散歩するのが日課だった。

そしてそのAndreのママのDianは、初めて会った時から私のことをなるべく「外国人扱い」せずに接してくれて、まだ私が大してインドネシア語を喋れない時から仲良くなった人。

少し仲良くなってから、元旦那さんのDVから逃げてきたはいいけど、頼れる身寄りもいないし、握りしめてきたお金も底を尽きてきて、Andreの薬(アトピー)も買うことが難しくなってきてこの先が不安だと、打ち明けてくれた。

私とアリフはDianに洗濯機や乾燥機をプレゼントさせてもらうことにし、DianはNidoハウス目の前に、小さな小さなクリーニング屋さんを開業。

クリーニング屋さんで毎日懸命に働いてたDianだったけど、たまのお休みには、一緒に山や海に遊びに行ったり、お酒を飲んだり、ヨガをしたりして楽しんだ。

「Andreの面倒をいつも見てくれてありがとう」と、よくご飯やお菓子も作ってくれたな。

私がレンを出産した日は、夜中に30分かけて病院まで駆けつけてくれた。

早産かつ突然産まれてしまったレン。
「赤ちゃんは危険な状態です」と伝えられたまま、出産から10時間たってもその後の様子を教えてもらえず、とにかく不安でいっぱいだった私。色々な事情が重なってアリフもいなかったしで、10時間1人でずっと病室でドキドキしてたもんだから、Dianが現れた時には涙があふれたよ。

「強く祈ろう。赤ちゃんはきっと大丈夫。Nozomiの子だもん、みんなが楽しみにしてた希望の赤ちゃんだもん。きっと大丈夫。」と、一晩中ずっと祈りながら、私の手を握ってくれてたDian。

私がどれだけ救われたことか。
今思い出しても涙が出る。

そんなAndreとママDianがいなくなり、もう2週間以上になる。

-----この世の中は、世知辛いことも、理不尽なことも、やるせないことも沢山だ。
頭では分かっていても、現実的にどうにもできないようなことも、残念ながら山ほどある。

でも、だからこそ、目の前にいるみんなと向き合って、どこかに糸口や希望があるのではないかと、一緒に考えながら生きていたいと、改めて思う。

迷っても悩んでも。正解が分からなくても。
感謝されなくても、お節介でも。手の届く範囲で。

みんなの安心感や信頼感を広げる一助になれたらいいな。自分達の生きる社会や世界が少しでもいい場所になるように。

強い人がより強くなるだけでなく、弱い人が弱いままでも生きやすい世界に向かって。

どうかどうか、AndreとDianが元気にどこかで生きていますように。

いつかまた2人が戻ってきて、一緒にみんなで暮らせる日がやってきますように。

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