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読むという行為が救ってくれるたくさんのこと

最近落ち込むことがあった。大学院の勉強が進んでないこと、もしかして卒業できる前に退学になるかもしれないことが今さらわかったからだ。同時に苦手なテストのために暗記に取り組むやる気がもてず、大学院卒業という目標に向かってがむしゃらに頑張れない自分にもやもやしている。3人の幼児を含む子ども達の育児でエネルギーを使うことも多いので当たり前と言われればその通りなのだが、子どもが何人いようと歯を食いしばって仕事や勉強に努力を重ねている人はたくさんいる。なぜ自分はそれができないのだろう。やはり社会に出る人間として何か欠けているのだろうか。そんな思いがぐるぐるしながら向かうのは本の世界だ。文字を追う先にある何かがわたしを慰めてくれているような気がして心が落ち着く。

小さい頃からわたしは本を読むのが好きだったらしい。特に読書に夢中になっていたのは小学生低学年から三,四年生にあがる頃で友達と遊びに行くということはほとんどなくひたすら家で本を読んでいたらしい。そのころの鮮明な記憶はなく、学校の図書室に足蹴く通っていたことは朧気に覚えている。

読書好きな両親だった。父は自称作家志望で家には本があふれていた。そんな家庭にありながら、母が心配して担任の先生に相談するくらいだから当時の私はよっぽど本を読んでいたのだろう。自分の読書量や幅がぐんと広がったのもこの時期だと思う。高学年向けの本を好んで読んだ。読書は娯楽であり挑戦であった。同時にいわゆる子どもらしさがないことで両親を心配させていることを熟知していた当時のわたしは、友達と遊んだり子どもらしいことをしていない自分にコンプレックスも抱いていた。

図書室で知り合った友達にミニバスケットボールクラブに誘われたのは小学四年生の頃。週二回の放課後と土日の午前中に自転車で小学校の体育館に通い汗を流すことで普通の子どもに近づけた気がして嬉しかったしほっとした。バスケットボールをするちょっと蓮っ葉で同時に子どもっぽい女の子たちと付き合うのは刺激的でも苦痛でもあったが、活動的な子どもに慣れたことは嬉しかった。バスケットボールは中学でも部活で入り卒業まで続けた。上下関係もあり辞めるきっかけがなかったのだ。徐々に活発な中学、高校生活をおくるようになり読書量は減ったが本は常にそこにあった。

イギリスの大学時代は苦手な英語での読書にも挑んだ。英語でも読みやすいと思った海外文学、トルストイやオブローモフにチェーホフ、ガルシアマルケスの圧倒的な物語性は言葉の壁を越えて響いた。社会人になり徐々に遠のいた読書に引き戻してくれたのはつわりだった。ほぼ寝たきり生活の私を癒してくれたのは乃南アサ、真梨幸子、桐野夏生の少し怖い小説だった。そこから日常や労働を見つめる津村紀久子、社会の暗部や事象をドラマティックに描く篠田節子に夢中になった。産休育休中は子ども達と図書館に通いまた色々なジャンルの本を手に取るようになった。集中する時間はなかったけれど、本があることは私を安心させた。

そして今、日中人と会わずポッドキャストを聞きながら家事をして申し訳程度に勉強をし、読書にのめりこむ。幼少期の自分が戻ってきたようだ。書くこともだが読むという行為は、ベルギーという未知の世界に出ていく準備ができていないわたしを受け入れてくれる。本にはどんな親しい人からの言葉より響くなにかがある。少しアンチソーシャルな現状の生活が、未来の自分を動かす力を蓄えている、そう信じて今はひたすら読書に向き合う日々である。もちろん適度に、であるが。

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