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宝塚歌劇団演出家、上田久美子先生の退団を知って。

宝塚歌劇団という劇団を追いかけている以上、退団はつきものだ。

大羽根を背負ってキラキラと輝くトップスターも、屋台骨となって組を支える生徒さんも、その例外ではない。

退団は全てのタカラジェンヌに訪れるものであり、宝塚歌劇団を追いかけ続ける限り、応援しているスターの退団は訪れるものである。

ただ退団するのは、タカラジェンヌだけではない。
舞台の幕を上げ続ける以上なくてはならない、演出家にも退団はある。

「もしかしたら」とある程度の予想ができなくもない生徒さんとは異なり、演出家の先生の退団は突然である。
まだまだ短い私の宝塚ファン人生の中では、それはまだ経験したことのないことであった。

退団の"た"の字も考えていなかった時に、宝塚歌劇団 演出家の上田久美子先生の退団をネットニュースで知った。

インターネット上でそれとなくうわさが流れていたのは知っていたが、どこかでただのデマだろうと信じ込んでいた。いや、そう信じたかったのかもしれない。

しかしニュースを見て、それは現実となった。
もちろん、生徒さんのように退団発表がなされてから卒業までに一定の期間がある訳でも、サヨナラ公演がある訳でもない。

退団のニュースを見た際に、ふと『桜嵐記』が終わった際には、宝塚を去ることを決められていたのかもしれないなと感じた。
そう感じさせるほど、あの作品には、「演出家 上田久美子」の並々ならぬ想いが込められているように感じられたのだ。

上田先生の作品をはじめて見たのは、いつであっただろうか。
はじめて見た作品は、「あの作品は私の財産です」と言ったご贔屓の言葉がきっかけで興味を持った、『翼ある人びと -ブラームスとクララ・シューマン』だったように感じる。

一人の才能溢れる音楽家の一生。彼を取り巻く人々と、抗えぬ運命。
芸術家として飛翔する主人公の姿は、ブラームスを演じる朝夏まなとの、これからの飛躍を感じさせる姿と重なった。

こんなにも美しく、静かに胸に響く舞台を生み出す人がいるのだと、画面越しながら衝撃を受けたことを思い出す。

あれから上田先生の作品をいくつも、何度も見た。
『月雲の皇子 -衣通姫伝説より-』『金色の砂漠』『星逢一夜』『神々の土地 -ロマノフたちの黄昏』『桜嵐記』。それから、『BADDY』。

パッと思い出せないだけで、まだまだある気がする。
記憶の海の引き出しに引っかかり続けて、すぐには浮かんでこなくても、どこか頭の中をずっと漂っている。そんな作品ばかりだ。

随分前に、上田先生のインタビュー記事で読んだ「悲劇を専門にする演出家がいても良いと思う」という言葉が、今でも記憶に残っている。

たしかに先生の生み出す舞台は、いわゆる"悲劇"なのかもしれないが、ただの悲しい物語としてだけで終わらないものがあると感じている。

他者の"誤訳"を許さぬ情報過多気味のセリフも、一切の無駄が削がれた美しい舞台セットも。舞台の上を懸命に行き続ける人びとの動きも。
その全てが、観る者の心を掴んで離さない。

先生の作品は、見終わって現実世界に引き戻された後にも、舞台上の人びとが心の中で生き続ける、そのような作品ばかりだと感じている。

『神々の土地』をはじめて見た時の、息も忘れるような衝撃。1シーン1シーンの、絵画のような美しさ。このまま額縁に押し込めて眺め続けたいと感じた、初見時のあの強い衝動を思い出す。

最後まで見たいけれど、終わって欲しくはない。
2人には幸せになって欲しいけれど、それが彼らの望むものではないならば、無理に幸せにはならないで欲しい。

そんな風に感じたのは、はじめてだったようにも感じる。

自分の信念のもとに生きることを選んだ人びとの、数々の人生がそこにはあった。

生徒さんのことを徹底的に観察して考え抜かれたのであろう、その人の魅力を底から引き出すような役の作り方が本当に素晴らしくて、その観察眼にもいつも感動させられていた。

だが数々の作品を見るうちに、「宝塚」という枠を出た作品をいつか見たいと思っていたことも事実だ。

またインターネット上では、同様の意見がちらほらと見られていたように思う。私も「卒業後のご贔屓を、上田先生が生み出す作品の中でまた見られたら」と願う観客の1人だ。

宝塚歌劇団という特殊な環境のもとで展開される舞台だからこそ、生み出された作品の数々を見られたことを、心より幸せに思う。

そして、これからの「演出家 上田久美子」の作品をこの目で、劇場で見続けられることを、願ってならない。


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