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平家物語の「舞台」を巡る旅➂~壇ノ浦合戦

平家物語の「舞台」を巡る旅① 「坂落」編
平家物語の「舞台」を巡る旅② 「敦盛最期」「小宰相身投」編
のつづきです。

屋島は通過しま~す

タイトルが「壇ノ浦合戦」に変わりました。那須与一が見事に扇の的を射た屋島とわら家のうどんに心を残しつつ、これから平家を追いかけて、今治駅に向かいます。

撮影 kayano yukiko

しまなみ海道

今治駅からは乗用車で移動。バスの時刻も調べたけど、しまなみ海道はやっぱり車が便利だなあ。

目的は潮流体験。迫力のある潮流に適した日にちと時間があるとのこと。13時の出航を待っていると、「おねえさんたち13時に乗るの?」と言いながら船長のおっちゃんがやってきました。その後ひとりで船を出し、しばらくして戻ってくると「ええ潮や~」。下見をしてきたらしい。高まる期待。

出航の時間が近づくと船長のおっちゃんが再び現れ、「乗っていいよ」と救命胴衣を渡してくれました。

余裕の金子(右)カバンと救命胴衣が絡んで、ひそかにジタバタしているのざわ(左)

滑るように出航する船。案内のアナウンスが流れ‥‥‥あれ、港に戻ってる?もう終わり?みんなでおっちゃん船長の方をうかがうけど、すまし顔。どうやら時間前に出航してしまったようです。13時になったので、ふたたび、出航!

海を熟知した船長のおっちゃん

壇ノ浦合戦と潮の流れ

なぜ、潮の流れが見たかったかというと、『平家物語』にこんなふうに書かれているからです。

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さる程に源平の陣のあはひ、海のおもて三十余町をぞへだてたる。門司、赤間、壇の浦はたぎりて落つる潮なれば、源氏の舟は潮にむかうて心ならずおしおとさる。平家の舟は潮におうてぞ出できたる。(巻十一 壇浦合戦)

そうこうするうちに源平双方の陣の間隔は、海面330メートルぐらいあいていた。門司、赤間、壇の浦は海水が逆巻いて落ちるような潮の流れなので、源氏の舟は潮に向かって思いどおりに進まず押し戻される。平家の舟は潮の流れに押し出されるように出てくる。

煮えたぎるような潮。これぞ、たぎりて落つる潮!

段になって落ちています!「分段の浪」(先帝身投)ってこれ?

撮影 kayano yukiko

このような潮の流れを熟知し、機敏に舟を操作する、水手《船頭》、梶取《船人》がいなければ、舟の戦さはできません。壇ノ浦合戦で徐々に劣勢になっていく平家。陸からも弓矢で狙う源氏。源氏が非戦闘員の水手梶取を殺害したために、平家の舟は操船不能におちいります。

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源氏のつわものども、すでに平家の舟に乗り移りければ、水手すいしゅ梶取かんどりども、射殺され、斬り殺されて、舟をなほすに及ばず、舟底にたはれふしにけり。(巻十一 先帝身投)

源氏の武士たちは、すでに平家の舟に乗り移ったので、水手梶取たちは、射殺され、斬り殺されて、舟の向きをなおすことができず、舟底に倒れ横たわった。

非戦闘員の水主梶取は殺さないという掟が、舟いくさにはありました。ところが、源義経はその掟を破って、水主梶取の殺害を命じたといいます。

昔の舟着き場

これぞ海の幸

島々の間を船で駆けまわって頭の中はすっかり源平合戦モードでしたが、船が港にもどり、現実にもどると、お腹がすきました。

すべて地物。ご飯少なめでとお願いしましたが、お腹がいっぱいになりました。

その後、大山祇神社に移動します。

大山祇神社の大楠  撮影 kayano yukiko 
拝殿  撮影 kayano yukiko 

大山祇神社に奉納された甲冑や刀剣などが、宝物殿にはたくさん展示されています。義経、頼朝、義仲、平重盛!!奉納した人たちの名前をみて盛り上がる我らオタク。重盛が奉納した剣や舶来の水差しはとても上品でした。

いざ、長門国へ

しまなみ海道を渡って新幹線の新尾道駅に到着。そこから新下関駅に行き、在来線に乗り換えて下関駅に行きます。いざ、長門国へ!

「ふくがあふれる下関」とな。

新下関駅コンコース
下関駅プロムナード
ふぐのカルパッチョ 写真を撮るまえに2枚食べてしまいました
ふぐ皮 ぷるぷる 

神戸、高松、今治、下関‥‥、このように平家を追いかけていくと、どんどん都から離れていくなあ、平家の人たちもこんな気持ちだったんだろうなあ、と思えてきます。

壇ノ浦を一望する

源義経の軍勢は屋島で平家に勝った勢いに乗って、そのまま追撃します。

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さるほどに九郎大夫判官義経、周防の地におしわたって、兄の参河守と一つになる。平家は長門国引島にぞ着きにける。源氏阿波国勝浦に着いて八島のいくさにうち勝ちぬ。平家引島に着くと聞こえしかば、源氏は同国のうち、追津に着くこそ不思議なれ。(巻十一 鶏合・壇浦合戦)

そのうち九郎大夫判官義経は周防の地に渡って、兄の参河守範頼と合流する。平家は長門国引島(彦島)に着いた。源氏は阿波国勝浦に着いて八島の戦さに勝った。平家が引島に着くとうわさに聞こえてきたところ、源氏は同じ長門国の追津(干珠・満珠)に着いたのは不思議なことだ。

島=引く=しりぞく平家、津=追う=追いかける源氏、地名が戦さの成り行きを暗示しているようで、たしかに不思議です。

火の山ローブウエイ

壇ノ浦を山の上からながめます。下関駅からバスにのって、赤間神宮の前をとおり、御裳川のバス停で下車。坂道を上がって火の山公園に行き、火の山ローブウエイに乗りました。今回の旅では須磨浦公園に続いて二度目のロープウエイ。

わたしたちが訪問した2022年4月2日は、ちょうど桜が満開でした。ロープウエイの窓越しに、関門橋がかかる、関門海峡が見えます。これが壇ノ浦!

……とながめている間に、山上に到着。ロープウエイは楽だなあ。

展望台に看板がありました。どれどれと、実際の景色と見比べてみると、右上の手前にあるのが平家が拠点にしていた彦島(引島)、向こう側は日本海の玄界灘です。

そして、こちら側は瀬戸内海の周防灘。

上の写真に写っている景色から視線をもうすこし左に動かすと、ふたつの島、干珠(左)満珠(右)が見えます。ここが『平家物語』にいう追津です。

現在も船がひっきりなしに行き来していますが、源氏方は周防灘を通って、干珠・満珠からこちらにむかってきました。平家方は写真右の対岸から干珠・満珠の方向に漕ぎ出します。
さあ、脳内でホラ貝の音が聞こえてきたぞ!

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さる程に源平の陣のあはひ、海のおもて三十余町をぞへだてたる。門司、赤間、壇ノ浦はたぎりて落つる潮なれば、源氏の舟は潮にむかうて心ならずおしおとさる。平家の舟は潮におうてぞ出できたる。(巻十一 壇浦合戦)

そうするうちに源平双方の陣の間隔は、海面330メートルぐらいあいていた。門司、赤間、壇ノ浦は海水が逆巻いて落ちるような潮の流れなので、源氏の舟は潮に向かって思いどおりに進まず押し戻される。平家の舟は潮の流れに押し出されるように出てくる。

”たぎりて落ちる潮”はしまなみ海道、大島の潮流体験で見てきたところさ。

つぎに向かったのは…

つぎは海上から門司、赤間、壇ノ浦をみる予定です。バスで唐戸に戻り、関門連絡船で門司港に行き、土曜日に一便だけ運行される、関門海峡遊覧クルージングに乗船します。

ロープウエイのまんじゅで下りましょう。

海岸に向かって歩いていくと、“ちょっと待て あの平家茶屋 気になるぞ”(五・七・五)

ということで、立ち寄って昼食。予約はしていなかったけれど、13時まででしたら個室をご利用いただけますと言われ、大喜びでお願いしました。クルーズの出航時間が13時なので時間は大丈夫。むしろ、クルーズの時間に間に合うように食事を終えて門司港に移動しなくてはならぬ。少々急ぎましょう。

平家茶屋の個室の名前は干珠でした。

もちろん食事はしっかりと味わって、目の前にひろがる景色も味わって、いそがしかったけど満足~。

「平家茶屋」の個室からの眺め。目の前の白いタンクの並んでいるあたりが田の浦。そこから平家が潮の流れに押されるように東に向かって出陣しました。

ところが、時間がたつと潮の流れが西に変わります。また義経の命令で水主梶取が殺されたために平家は船の操縦ができなくなり、この辺りに押し戻されてきました。源氏方は陸からも矢を射かけたといいます。

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さる程に、四国、鎮西の兵者つわものども、みな平家をそむいて源氏につく。いままでしたがひついたりし者ども、君にむかって弓をひき、主に対して太刀をぬく。かの岸に着かんとすれば、浪たかくしてかなひがたし。このみぎはに寄らんとすれば、かたき矢さきをそろへて待ちかけたり。源平の国あらそひ、けふをかぎりとぞ見えたりける。(巻十一 遠矢)

そうするうちに、四国、九州の武士たちは、みんな平家を叛いて源氏に味方する。いままで従っていた者たちも、主君にむかって弓を引き、あるじに対して太刀を抜く。むこう岸に着こうとすると、浪がたかくて着けない。ちかくの岸に寄ろうとすると、敵が矢さきをそろえて待っている。源平の国争いは、今日で最後と見えた。

みもすそ川公園

唐戸にむかうバスを待つあいだ、みもすそ川公園を散策。安徳帝御入水之処の碑があります。

真ん中の赤いのぼりがある場所から、平家茶屋をみたところ。

壇ノ浦の海の上

では、あらためまして、バスで唐戸に戻り、関門連絡船で門司港に行き、土曜日に一便だけ運行される、関門海峡遊覧クルージング。門司はモダンな町ですね。ここから出港します。

これから関門海峡をぐるっとまわります。コンクリート建造物は脳内で消去してっと…。

壇ノ浦は急に狭くなっています。最後はあそこで船が入り乱れたのか。

船がぐるっと向きをかえると、満珠・干珠の島が見えます。実際に海の上から眺めると、関門海峡の東と西に広がる海が意外と広いことに気づきます。この海を船がはしりまわったんだなあ。

関門汽船株式会社 – 関門汽船株式会社 (kanmon-kisen.co.jp)

火の山下潮流信号所

ずっと気になっていた電光板。

関門海峡海上交通センターのホームページには、「関門海峡は、日本で、最も潮流が速い海域の一つで、S時型に曲がって行会い船も見えにくく、航海者には、大変な難所であるため、明治42年(1909年)8月から、部埼と台場鼻に潮流信号所が設置されました」とあります。現在の電光板方式は、昭和54年(1979年)から採用され、火の山下潮流信号所が追加されたとのことです。

Wは瀬戸内海の周防灘から玄界灘に向かう流れ、Eは日本海の玄界灘から周防灘に向かう流れ。流れの速さと、これから流れが速くなるのか遅くなるのかという情報も表示されます。

潮流情報 関門海峡海上交通センター(mlit.go.jp)による

源平合戦の時代にはこんな測定装置はなかったけれど、昔も今も変わらず、潮の流れの向きや速さが一日に何度も変わっている。――よく考えれば当たり前のことですが、自然界では昔と今がつながっているなあと感動してしまいます。

赤間神宮

赤間神宮にある平家一門の墓を訪れました。

浪の下の都

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山鳩色の御衣ぎょいにびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇おんいとま申させ給ひ、その後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。
 悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたを散らし、なさけなきかな、分段ぶんだんのあらき浪、玉体を沈め奉る。殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して老せぬとざしとかきたれども、いまだ十歳のうちにして、底の水屑みくずとならせ給ふ。(巻十一 先帝身投)

山鳩色のお召し物にびんづらを結って、涙を流して、小さくかわいらしい手をあわせ、まず東を拝んで、伊勢大神宮にお暇を申し上げ、その後西に向かって、念仏をおとなえになったので、二位殿はそのままお抱きし、「浪の下にも都がございますよ」とおなぐさめして、千尋の底へお入りになった。
 悲しいことだ、無常の春の風が、たちまち花のような御すがたを散らし、嘆かわしいことだ、段になった荒波が帝のおからだを沈めた。殿舎を長生と名づけて“ながきすみか”とさだめ、門を不老と呼んで“老せぬとざし”と書いたけれど、まだ10歳にならないうちに、底の水屑となられた。

ヘイケ・トラベル・ビューロー/平家物語観光案内所

平家物語の「舞台」を巡る旅、いかがでしたか。土地のもつエネルギーが、物語に深みを与えてくれます。平家物語をお供に、みなさんも旅をしてみませんか。



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