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鬼滅の刃。最終回は作者の「供養」

●勝手に妄想あとがき
感銘をうけた作品の、あとがきを書くつもりで綴る妄想記。楽しんでもらえれば幸いです。

※下記、ネタバレを避けたい方はお控えください。

鬼滅の刃を読み終えて、、、

原作の最終回を読み終えて、原作ラストに賛否両論が渦巻いていることを知った。
たしかに舞台が現代になったことで、「鬼滅の刃」の世界は崩れた。
読者の振り落とされ方は、ラストの無限城の鳴女の三味線でベべンっと様がわりする部屋に振り落とされる感覚と似ているのかもしれない。激しく動揺する。乗り切れず、酔う者、落下する者もいただろう。

そんな最終回を読み終えて私が感じたのは、あの最終回は、作者にしかできない「供養」なのだということだった。

「鬼滅の刃」の世界では、一貫して「失う苦しみにもがく人間」「失ったものは戻らないという現実を受け止める人間」「何度も打ちひしがれようとも立ち上がるしかない人間」、それを勇気という容易い言葉ではなく、それこそが「命の瞬き」、「生きる」とはそういうことだ、と示していたように思う。

だから、鬼が出るような異質な世界でも、人間はどこまでもリアルに描かれていた。主人公に、安易に才能や生まれ持っての才覚や超常現象で難関を打破させたりはしない。常に鍛錬、努力、実戦、考え抜くことでしか活路を見いださせない。はいつくばって、傷ついて、失って、それでも希望を捨てない「人間」という存在、「生きること」自体に焦点をあてて描こうとしていた。

そのブレない作者の信念に、アニメも呼応し、そして読者や視聴者も魅了されたのだろう。人間はみな、生きることに懸命なのだから。

だからこそ、だからこそ、「鬼滅の刃」の世界では多くの犠牲をはらった。
あまりに多くの命が失われた。誰にも死んでほしくなかった。生きてほしかった。その願いは誰よりも作者が強かったはずだ。
「鬼滅の刃」のあの世界の中では、彼らは失ったものをそのまま抱えて生きる。作者はそれを描く、貫く。本当に辛い作業だったに違いない。

だからこそ、せめて、、、
そうやってできあがったのが、あの現代の最終回なのではないだろうか。
輪廻転生。誰もが願えば幸せになれる世界。鬼が居なくなり、そう信じられる世界。現代をそんな希望の世界として原作者は、あの死闘を終えた隊士たちにプレゼントしたのではないだろうか。伊黒と甘露寺の定食屋なんて、一コマでも泣ける。あの一コマを読めただけでも最終回を読めて良かったと思う。

最終回は、読者はただ微笑ましく覗き見るのみでいいのだ。それだけで良い。賛も否もいらない。ただただ完走を称えたい、拍手したい。頑張ったね。よく頑張った。

私には作者自身が炭治郎のように感じられた。
「鬼滅の刃」の中で張り巡らされた伏線は、時に大きく予想を上回り胸をしめつけたかと思えば、時にさっと交わされ、提示されもする。「そう来たか!」と、「そうだったの?」を繰り返しながら、読者を翻弄し、結果、次を読む手を止められなくする。
作者の頭の中にあった物語はもっともっと壮大で、たとえば早く走れば走るほど、脳みそと足の神経がずれて足がもつれるような感覚で、マンガを作画していたような部分もあったのではないだろうか。炭治郎が戦いの場で自分の体が技に追いついていないと自覚するのと同じように。それでも、作者が絶対にとどめておきたい物語はしっかりと収まっていた気がする。そして、それを読者として受け止められた気がする。

「終わらないでほしい想い」と、「終わってよかった想い」が交錯する。余韻がすごい。中毒だ。

しかも、あの物語に画音が乗るアニメはまだ続く。ワクワクが止まらない。ラストまで読み終えて、彼らの背景を知り、また読み返したりアニメを見ると、初見とは違った感情が芽生える。作者の伏線の散りばめ方は、読み返すと噛み応えが増す仕掛けだった。

私は素晴らしい物語に出会うとワクワクする。それは小説でもマンガでもドラマでもアニメでも変わらない。しかし、社会人になって胸を震わせ、何度も見返すほどワクワクする物語に出会うことは少なくなった。「鬼滅の刃」はそんな数少ない作品である。出会えてよかった。素晴らしい物語をありがとうございます。

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