吉村萬壱「ガザに思う」/永井玲衣「世界の適切な保存㉒見る」/ルドルフ・シュタイナー『悪について』
☆mediopos3400 2024.3.9
ルドルフ・シュタイナーによれば
かつて霊的世界から働きかけていた悪の力が
地上へと追い落とされ
そのことによって
一八七九年以降は一人ひとりの人間の内部に
見出されるようになったという
シュタイナーはほぼ一〇〇年近く前
第一次大戦後の1925年3月30日に
64歳で亡くなっているが
その死後第二次世界大戦が起こり
さらに今や姿を変えたかたちで
第三次世界大戦が進行中であるともいえる
実際の戦闘を伴った戦争はいうまでもなく
経済やそれと連動した生物兵器による戦争
インターネットを含むメディアによる戦争など
とくにここ数年はかなり露骨な仕方で
そうした戦争が引き起こされるようになっているが
まさにそうした露骨さというのは
かつてはある程度隠されたものであった悪の力が
地上の人間の内へと追い落とされたことで
顕在化してきていることから起こっているように見える
吉村萬壱は「ガザに思う」(文學界 2024年4月号)
というエッセイにおいて
「人はいつか必ず
自分の中の暗部と向き会わねばならない。」
と述べている
みずからの「中に存在する他者への理不尽な暴力性、
差別主義、排他主義、事なかれ主義」など
現在ガザで起きているジェノサイドは
「それを抉り出し、命懸けで突き付けている」
というのである
その「悪」はただ外的に存在している
というのではなく
まさに私たちそれぞれの内にこそある
永井玲衣は「世界の適切な保存㉒見る」
(群像 2024年4月号)において
「見る」」ことの必要性を示唆している
しかも「見ることは、ただ見ることではない。
見るとは、ただ経験することではない」
「ものを直視」し「認識する」ということであり
「想像力を発揮すること」
そして「見ることは、変えること」
「自分自身を超え、変えていくことだ」という
永井玲衣は作家の松下新土が
パレスチナ占領とガザ虐殺において
使われている武器を作っている日本の企業の担当者へ
投げかけた問いを紹介している
松下氏はその武器を「自分の目で「見た」のか」と問うが
担当者は「質問にはお答えできない」を繰り返すばかり
(その企業はこの二月には
イスラエルの軍事企業との覚書を終了したとのことだが)
戦争は私たちとともにあり
コロナワクチンを使った戦争も佳境に入ってきている
日本においては認定されただけでも
すでに死者は五百人ほどにもなり
ワクチンの影響だとも考えられる超過死亡者は
四十万人を超えるほどにもなっているにもかかわらず
厚生労働省はいまだ
コロナワクチンによる死者として断定できるのは
ゼロだという回答を繰り返すばかりのようだ
それと矛盾するように来年度のそれに伴う予算は
今年度の110倍にまで計上されているのだが
先の「質問にはお答えできない」を繰り返す担当者のように
厚生労働省の担当者にしてもいずれかの時点で
「見る」ことをはじめないわけにはいかないだろう
そうしないかぎりおそらくその魂は決して解放されない
表に立っている政治家や専門家も
やがてそれなりの態度を示す必要はでてくるだろうが
顕在化してきているこうした「悪」に対して
それなりの態度を示す必要があることはたしかだろう
しかしそうした極端なまでの事態を
私たちが目の当たりに見させられているということは
それを「見る」ことが求められているということでもある
いうまでもなくそれらをみずからの内なる悪に照らし
そのことで「自分自身を超え、変えていく」ために
■吉村萬壱「ガザに思う」(文學界 2024年4月号)
■永井玲衣「世界の適切な保存㉒見る」(群像 2024年4月号)
■ルドルフ・シュタイナー
「ミカエルと龍の戦い〜霊主体従 1917年10月14日 ドルナハ)
(高橋巌訳『シュタイナー 悪について』春秋社 2012/2)
*(吉村萬壱「ガザに思う」より)
「やがて私は人類の歴史に於いて虐殺は常態であり、ゲームのように繰り返される力の誇示であることを知った。
「大量虐殺は技術進歩の副作用である。石器時代この方、人間は手にした道具を殺し合いに使ってきた。人間は道具を作る動物で、攻撃的ではないとしても、殺すことが好きでやめられないのである、」(ジョン・グレイ『わらの犬 地球に君臨する人間』みすず書房)
ナチスドイツやスターリン、毛沢東など、二十世紀の百年間だけで人間が人間を殺した数は一億人を下らないという。植民地主義や人種主義はごく普通の人間を簡単に虐殺行為に引き摺り込み、日本もその例に漏れない。私は四十歳で小説家デビューし、二十年以上自分が最も恐れる人間の暴力性を巡って書いてきたが、幾ら書いても一向に不安は消えず、事態は年年悪くなっていると感じる。この国の差別と排除の空気は、戦後七十九年経った今でも植民地主義や軍国主義の亡霊を跋扈させ、寧ろ肥え太らせている気がしてならない。
イスラエル軍が現在、エジプトとの国境の町ラファに追いやった百四十万人のパレスチナ人の頭上に爆弾を投下している。現地から送られてくるXのタイムラインの映像を見ていると、内蔵が引きちぎられるような思いがする。同時にパレスチナ人を射殺し爆撃するイスレル兵の中に、私はあの真っ黒な欲動を感じておののく。これは私見に過ぎないが、彼らが少しも真面目ではなく遊んでいるように振舞うのは、その根底にホロコーストの記憶だけでなくパレスチナ人の正しさに対する恐怖があるからだと思う。シオニズムがユダヤ教に基づかないこしらえ物であり、自分たちの所業が人間として許されないものであることを暴かれるのが怖いのだ。タイムラインのイスラエル兵たちの自撮り映像には、良心に追い付かれた時に自分たちが終わると知っている人間に特有の、真っ黒な衝動に呑みこまれて我を忘れようとする焦燥の色が見て取れる。歴史上、一旦走り出した虐殺行為はどれも、正しさからの逃避という極めて残酷で子供っぽい性質を帯びる。彼らが恐れるのはパレスチナの武力でも出生率の高さでもなく、パレスチナ人たちの持つ心根の正しさに違いない。
魔女裁判で焼かれた妻は人として正しく神に訴えた、
「私から顔をそむけないでください。私が潔白なことはあなたもご存じです。お願いです。息もつまるようなこの苦しみの中に、私を放っておかないで!」(森島恒雄『魔女狩り』)
焼かれても決して死なないものを、彼女は既に持っている。なぜなら彼女は無実であり。徹底して正しいからだ。それに対して、一九四八年以来今日までずっとパレスチナ人を民族浄化し続けているシオニズムの暴力には、正しさも、存在の奇跡や命に対する畏敬の念も何一つ感じられない。
『魔女狩り』の仲で森島氏は、二度にわたってパスカルの『パンセ』かえあ次の言葉を引いている。
「人は、宗教的信念によって行なうときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行なうことはない」
(・・・)
人はいつか必ず自分の中の暗部と向き会わねばならない。植民地主義へと真っ直ぐに繋がる、母や私の中に存在する他者への理不尽な暴力性、差別主義、排他主義、事なかれ主義。
ガザはそれを抉り出し、命懸けで突き付けている。」
*(永井玲衣「世界の適切な保存㉒見る」より)
「現在進行中のパレスチナ占領とガザ虐殺において、日本の企業は、イスラエルの軍事企業エルビット・システムズと協力関係を結んでいた。伊藤忠アビエーションと日本エヤークラフトサプライ(NAS)である。多くの市民が、提携解消を求めてデモを行い、署名をした。1月には署名をとりまとめた「〈パレスチナ〉を生きる人々を想う学生若者有志の会」が、NAS担当者に、署名を手渡した、そのとき、作家の松下新土さんが、担当者に投げかけた問いは重要だ。
松下新土「実際に作っている武器を使われているところって、ご覧になったことがありますか」
NAS担当者「ごめんなさい、質問にはお答えできないので」
松下新土「意見は話さなくていいので、作られた武器を見られたことはありますか」
NAS担当者「ごめんなさい、全部話せない」
松下新土「作られているものを、自分の目で見たことはありますか」
(「「武器使用をみたことは?」日本エヤークラフトサプライへの署名手渡し(2024年1月15日)Choose Life Project、二〇二四年一月十七日背信、You Tube)
松下さんは自分の目で「見た」のか、と問いかけている。それは、実際に目の当たりにしているかということ以上の意味を持っている。冷たい風が吹くなか、担当者と向きあい、じっと相手の顔を見て、何度も問いかけている。
担当者は「お答えできないので、申し訳ないんですけど」とつぶやき、小さな笑い声をあげる。そうすることしかできなかったのかもしれない。声はかなしく、がらがらとひびく。
「多分ですけど、ご自身の目で実際に見たら、耐えられないと思います、本当に」(同右)
相手をじっと見つめたまま、松下さんは言った。
その少しあと、国際司法裁判所の判断と、全世界の市民の声を受けて、伊藤忠アビエーションとNASは、二月いっぱいでエルビット社との覚書を終了することを決めた。
見ることは、ただ見ることではない。見るとは、ただ経験することではない。見るとは、なんだろう。」
「見るとは、なんだろう。問いが何度もわたしにやってきて、わたしを揺さぶる。見ることができないなかで、それでも見ようとすることは、どういうことなのか。やはり立ち尽くす。立ち尽くした先にあるのは、他者の声を、他者の言葉をきくことしか、ありえない。
ものを直視するとはなにか、ものを認識するということはなにか、それこそが想像力を発揮することではないか、と根本的なところでぼくは反批判したいのです。(同右、十四ページ)
見ることは、想像力の発揮であると作家は言う。ただ目にうつすのではない。もっと、もっと、もっと、見ようとすること。一方的に見ることの暴力性に身をふるわせながら、見ようとすること。そこになにがあるのか、見てとろうとすること。想像力という、手垢のついた言葉が、また息を吹き返す。
そして大江(健三郎)はまた丹念に時間をかけて、想像力というものを考察しつづける。これは、夢幻をつくりあげるものではない。そうではなく、自分が認識しているもの、知っているものをつくりかえていく、変形していくことだと、考えを深めていく。
見ることは、変えることだ。自分自身を超え、変えていくことだ。世界は不適切に保存され、手渡される。それを、もっと見ようとする。見ることによって、知っていたと思い込んでいたものが変形する。知っていたと思い込んでいた自分が変わる。ならば、どうするかだ。
見るだけで終わることはできない。見ることは、わたしを当事者にする。共に生きるひとにする。そうしたとき、わたしはどうするのかというところまで、問われている。」
*(「シュタイナー「ミカエルと龍の戦い〜霊主体従」より)
「たびたび申し上げたように、十九世紀中葉、特に四〇年代は、ヨーロッパとアメリカの人びとの意識の進化にとっての重要な転換点でしや。その当時、地上における唯物主義的な知性がその頂点に達しました。生きた現実ではなく、死せる現実の知的理解が頂点に達したのです。
現在の私たちはこの事実の影響下に立っています。これからも長い間そのような影響下に立ち続けるでしょう。けれどもこの事実の深い根拠は、霊界の経過の中に見出せるのです。そして今述べた事実がその外的、地上的な表現であるところの霊界の経過を洞察しようとするなら、その頃に始まった霊界における一種の戦いに眼を向けなければなりません。この戦いは。これまでもたびたび述べてきた一八七九年の秋という時点で一種の集結を見ました。霊界におけるこの戦いは、十九世紀の四〇年代から一八七九年の秋まで続きました。
このときの戦いは、現代の私たちの戦いとはまったく異質の、霊的存在たちの戦いでしや。一方は大天使ミカエルとその眷属たち、もう一方はアーリマンとその眷属たちでしや。ですからこの叩きは、はじめは霊界でも戦いでした。(・・・)
この戦いは十九世紀の四〇年代、五〇年代、六〇年代、七〇年代と続き、そして一八七九年の秋に、ミカエルとその眷属たちがアーリマンとその眷属たちに対して勝利したことで決着を見たのです。」
「アーリマンとその眷属たちは常に世界史の進化のあれこれに介入しようとしてきました。そしてその都度ミカエルによって打ち負かされました。龍、つまりアーリマンは、(・・・)一八七九年に地上に追い落とされるまでは、霊界にいたのです。
しかし龍の集団であるアーリマンとその眷属たちが人間界へ、天上から地上へ突き落とされたとは、一体どういう意味なのでしょうか。この戦いの成果とは、聖書に従っていえば、アーリマンがもはや天上に見出されず、その代わりに人間界に、一人ひとりの人間の内部に見出せるようになったことです。つまり十九世紀の七〇年代の終わりに、人間の魂は、認識力に関して、アーリマン的な衝動に取り込まれたのです。このアーリマン的な衝動は、それ以前は霊界で働いていたので、人間を巻き込むところまではいきませんでした。ところがアーリマンらちは霊界から突き落とされて、人間界に、一人ひとりの中に侵入してきました。」
「この経過は非常に大きな、まったく深刻な意味をもっています。十九世紀という時代は、そして私たちの時代も、霊界におけるこういう経過や物質界との関連に注意を向けるのにふさわしい時代ではありません。しかしこういう霊的な背景を知らなければ、地上の出来事の究極の理由。究極の衝動を知ることはできないのです。
例えば理想主義的に色づけされた唯物主義はこういう言い方をします。————「無数の有機成分の容器たちが戦争の続く中で死滅していくとしても、永遠に比べれば、どれほどのことがあるか。」こういう言い方がどれほどアーリマン主義に由来するものか、感じとることができなければなりません。(・・・)
一八七九年以降、多くの人の魂の中に生きている深刻な衝動は、それまでは霊界でのアーリマンの力として働いていたのです。そして今やその力が人間界に降りてきたのです。」
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