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若松英輔「連載 見えない道標12」(「群像」)/若松英輔『藍色の福音』/柳宗悦『柳宗悦茶道論集』

☆mediopos-3078  2023.4.22

若松英輔の「群像」誌上の連載「見えない道標」の
2021年3月号から2022年10月号までが
『藍色の福音』と改題され刊行されている

今回はその連載の第12回の
柳宗悦における「観る」ことについてとりあげる

「見る」ことと「観る」こと

物を「じかに」見ることが「観る」である
そこでは観の眼が見ている

「物」とそれを見る「我」との関係においては
マルティン・ブーバーの言葉を使えば
「我」と「それ」ではなく
「我」と「汝」の関係における「物」である

「我」と「それ」の関係は
たとえば科学者が「物」を「見る」ときの関係である
そのとき「我」は見られる「物」とは切り離されている
そしてその観察が客観的であるとされる

またそれはウィリアム・ブレイクのVisionの知覚でもある
現代において使われるヴィジョンは
空想・予想・願望と関係した幻像だが
ブレイクにおいては
「人がこの世界にありながら、
彼方の世界を垣間見るときに与えられる経験」を意味する

「じかに」見ることを妨げるのは
「主義」であり「思想」である

人の名で語られる「思想」
デカルト主義者の「カルテジアン」
ベルクソン主義者の「ベルクソニスト」
マルクス主義者の「マルキスト」なども
哲学者本人の眼で世界を見ているのではなく
哲学者の眼だと想定されている視点から
投影された「主義」のレンズで世界を見ている

「思想」には「思想」なりの意味があるのは確かだろうが
それは「じかに」世界を「見る」ことにはならない

むずかしいのはそれを
科学的に客観化することはできないということだ
しかしそのように「じかに」「観る」ことについては
さまざまな示唆が残されている

以下は論考にはない敷衍だが

釈迦が霊鷲山で説法したとき
花をひねりって示したところ
その真意を知って微笑したのは摩訶迦葉だけだったという
摩訶迦葉はそれを「じかに」「観た」のである

またシュタイナーは
「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」において
カント的な物自体の認識の不可能性を超えて「見る」
つまりは「じかに」「観る」ということを示唆している

さてこの論考における「観る」ことは
「読む」こと「聴く」ことにおいても起こるという

そして「読む」ということにおいて
「再読するたびに新しくなっていく」経験が示唆されている

比較的長く生きていると
たしかに「再読」することが
新たな経験になるということがよくわかる

それはおそらく読書が
「我」と「汝」の関係だからだろう
「我」も変わり「汝」もまた変わる
世界は常に変化しつづけ新しい姿で立ち現れる

それは科学的に示すことのできる「それ」ではないが
たしかに立ち現れる新たな世界にほかならない

「汝」は常に新しい
そしていうまでもなく
「我」も常に新しい

■若松英輔「連載 見えない道標12」
 (「群像 2022年06月号」講談社 所収)
■若松英輔『藍色の福音』(講談社 2023/4)
■柳宗悦(熊倉功夫編)『柳宗悦茶道論集』(岩波文庫 1987/1)

(若松英輔「連載 見えない道標12」/若松英輔『藍色の福音』〜「第十二章」より)

「再読するたびに新しくなっていく、そう感じさせる作品にいくつか出会ってきたように思う。もちろん知性は、過去にこの本を読んだことを記憶している。しかし感性は、その記憶がないかのように未知なる何かを前に驚く。新たに手に取ると、異なる地平に誘われるような気がするのである。

 同質のことは絵画や音楽についても起こる。何度となく見た絵に新鮮さを感じ、旋律を口ずさめるほどの音楽にふれ、突然、心が打ち震えることもある。昨日まで感じられなかった何かが急に立ち現れてくる。

 民藝運動を牽引した柳宗悦が「見る」という営みの奥にあるものをめぐって、興味深い言葉を残している。柳は、茶道における初期の茶人にふれ「彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から涌き出る」と書き、こう続けた。

  誰だとて物を見てはいる。だが凡ての者は同じようには見ない。それ故同じ物を見ていない。ここで見方に深きものと浅きものとが生まれ、見られる物も正しきものと誤れるものとに分れる。見ても見誤れば見ないにも等しい。誰も物を見るとはいう。だが真に物を見得る者がどれだけあろうか。その少い中に初期の茶人たちが浮かぶ。彼らは見たのである。見得たのである。見届けている故に彼らの見た物からは真理が光る。(「茶道を想う」『柳宗悦茶道論集』)

 「見る」を「読む」に変えても、あるいは「聞く」に変じても文意はまったく損なわれない。人は、同じものを前にしながら、まったく異なるように認識している。

 柳がいう「物」とは、どこにでもある物体の謂いではない。それは哲学者のマルティン・ブーバーの言葉を借りれば「我」と「それ」ではなく、「我」と「汝」の関係である。

 人であっても、「ある人」と「あの人」では意味はまったく違ってくる。出会いとは「ある人」を「あの人」へと変容させることだともいえるだろう。柳が書く「物」も「ある物」ではなく、「あの物」である。茶人たちは「見る」ことによって、「ある物」を「あの物」に変じるちからを有していた。

 本を「読む」という営みにも柳がいう「見る」ことの秘儀が生きている。真の意味で「読む」とは「ある本」の群れから「あの本」を生むことだといってよい。

 小説での話を追うだけでも、哲学書を概念的に読んでも「あの本」は生まれない。それは「ある本」について詳しくなるに過ぎない。どう「読む」べきなのか。真に「見る」とは、「じかに見る」ことにほかならないと柳はいう。もちろん、ここでも「見る」を「読む」に置き換えてよい。

  どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が眼に映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。それらも一つの見方ではある。だがじかに見るのとはまちで違う。(同前)

 「じかに」見るとは、単に目を凝らして見つめることではないだろう。直観という言葉があるように。何かを直に観るということでもあるだろう。

 別なところで柳は、人生観という言葉が如実に示しているように、ある歳月のあいだに何かが見えてくることを含意している。価値観も世界観も急には持てない。そこには歳月のちからの参与がいる。「見る」と「観る」が同時に起こる。瞬間的に「見る」と同時に持続的に「観る」ことが深まっていくとき、人は「じかに」物にふれ得るのだろう。むしろ、柳がいう「見る」は、直観のはたらきなくしては成就しないというべきなのかもしれない。

「思想」が「じかに」見ることを妨げる、と柳はいう。世のなかには無数の「思想」がある。およそ「主義」の名をもって呼ばれるものは「思想」である。

 人の名をもって「思想」が語られることもある。デカルト主義者は「カルテジアン」、ベルクソン主義者は「ベルクソニスト」と呼ばれる。そうした人はデカルトやベルクソンの哲学によって世界をよく理解したと信じて疑わないだろうが、この二人の哲学者がやったように自分の眼で世界を「見る」ことを忘れている。

 思想が無意味だというのではない。しかし、それはレンズのようなものであって、あるものを拡大し、ときに精緻に映じてくれるかもしれないが、ありのあまには見せてはくれないだけのことだ。

「嗜好」によって「見る」とは、好き嫌いで判断すること、「習慣」とは、惰性的に「物」を「見る」ことにほかならない。この二つも人が「物」を「じかに見る」ことを邪魔する。

 真の意味で「学ぶ」とは、思想によって世界を解釈することではなく、その地平を脱して「じかに」見るための修練なのではないか。そして、さらにいえばその先に、柳の言葉を借りれば「真理の光」を見出すことなのかもしれないのである。」

「現代人はヴィジョンという言葉の原義を忘れている。数年後のヴィジョンを持った方がよい、ということがまことしやかに語られる。だがこの言葉は、そうした空想や予想、あるいは願望とは無縁な言葉なのである。若き柳宗悦が、詩人であり、画家でもあったウィリアム・ブレイクをめぐって次のように書いている。

  吾々の眼が深く天の霊に開ける時、吾々は事物の幻像Visionを知覚してくる。彼らは空しい幻覚の所作ではない、最も統一された生命の経験である。それは決して空漠とした夢想の様な心得を意味しているのではない。(「ヰリアム・ブレーク」『柳宗悦全集 第四巻』)

 ヴィジョンとは、人がこの世界にありながら、彼方の世界を垣間見るときに与えられる経験にほかならない。人はそこにあるとき、亡き者たちが「生きている」ことをまざまざと「見る」のである。」

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