見出し画像

最近の私から生まれた文字列。

私から音が消えた。音が消えたでは語弊があるか。音を出すことができなくなった。声を失ったのだ。ある日突然。掠れたささやき声しか出ない。話し相手にも伝わらない。
それからの日々は筆談をしたり、スマートフォンに文字を打ち込んだり、ジェスチャーを使ったり、無理矢理に掠れ声を出したり。様々なコミュニケーションを試みた。必然的に。
手話とは便利な言語であるんだと、初めて気が付いた。自分の立場にならないと分からないものだ。
相槌の話し声を発することですら悪化させていると分かっているが、話しかけられれば声を出してしまう。しかし、私は音を取り戻したい。クリアな、音程を操っている、抑揚のある、音。
録音してあったカラオケの歌を聞いた。完全にアマチュアであるが、今の私からすればとても綺麗でいい声であった。何より伸び伸びしていて楽しそうだった。

声を失った日から私はSNSを活発に更新するようになった。Instagram、投稿も、ストーリーも、リールも。今まで二の足を踏んでいたタグ付けも積極的にするようになった。
文字で自分を証言したかったのかもしれない。しかし仕事を休んでいると更新する罪悪感が目覚める。では職場の人とは繋がっていないtwitterへ逃げよう。
閲覧数が表示される仕様になってしまったためか、いいねがつかないこと、嫌、いいねがつくことに喜びを少し覚えた。

久しぶりに職場で2、3時間過ごした。声は失ったままなので、新人の見守りだ。半年前は私もこうだったのだろうか。それは未熟で、でも一生懸命で。改善すべきことに関して何を伝えようか言葉を選んだつもりだ。
作業の慣れを見計らってから次のアドバイスをしたかった。上手くできたか分からない。声を失っていなければ、せめて見本を実演して、魅せることもできたのに。申し訳なさと、物足りなさと。
あれほど連休の職場(観光業に近いジャンルでの接客)は嫌なはずであったのに。働きたくて仕方がない。というか自由に自分を伝えたいのかもしれない。

絵を描くのも好き。写真を撮るのも、写るのも好き。シルバーアクセサリーが好き。昔好きだったヴィジュアル系バンドのアパレル展示会にも行った。メンバーとは時間がすれ違いで出会えなかった。
好きなことはできるし、手元に置けるし、懐かしいものにも触れた。
しかし、満たされた心から声を発せられない。体が元気だから余計にもどかしい。歌うのが結構好きだったみたいだ。今知った。
色んなアーティストのlive映像をYoutubeで見た。もちろん合法でだ。好き過ぎて、変わっているのが怖くて聴けていなかった好きなアーティストの新曲も聴いた。
涙が出た。盛り上がるliveでは手を挙げて、体を揺らして楽しんだ。音が欲しい。
中学の頃から吹奏楽部に所属してアルトサックスを十年間続けた。小学校の音楽発表会もリコーダーや鍵盤ハーモニカではなく、バスマスターというコアな楽器を選んでいた。
合唱も好きだった。ソプラノの音が出ない、それ以上にアルトでハモるのが好きだった。家族で車で出かけたときはアカペラで兄と弟と一緒にアニメソングを歌ったものだ。
私は声が小さいのか、カラオケに行ったときに他の人と比べて自分の声がマイクに入っていないのが気になっていた。
楽器と同じ歌い方をすると言われたときは自信の無さから平坦だと言われているように感じた。
歌ってみたい。coverでも音源を自分で制作しなければならないことを知った時、面倒くささが勝った。いつもそうだ。めんどくさいを超すほどの好きが生まれない。
PC作業が嫌ならギターを覚えてしまおうか。弾き語りができれば、コードさえ分かれば、歌える。
歌いたいのだ。肺活量が他の人よりなくとも。ヘモグロビンの量が少なくて貧血であろうと。歯並びが悪かろうと。
私がした行動で人に喜んでほしい。私を見てほしい。そしてそれは直接であればあるほど私は気持ちがいいのだと、絵や写真を通して知った。
憧れているだけかもしれない。実際に歌手として活動することを具体的に想像すると、曲を作って、liveの場所を抑えて、人脈を作って、発信して。頭が痛くなる。
目の前の「歌いたい」って気持ちを大切にしたい。どの程度なのかは分からない。飽きるまでやれば勝手に飽きる。興味を持てばまた興味を持つ。
しかし、いつも思うのだ。ステージに立つ側に居たい、と。あちらを知っているから。

音を、取り戻したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?