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SOSを出す勇気

 ここ最近、自分の心が明らかに弱っていて、休息が必要だと実感することが増えていた。

 例えば、毎日のご飯を作るとか、出かける前に持ち物を用意するとか、今まで当たり前にできていたことが、なかなかスムーズにできないのだ。脳みそ全体がぼんやりしているからか、先日は皿洗い中に手を切り、その後また、浴室掃除中に手を切ってしまうということがあった。血が床に落ちるまで、手を深く切ったことにも気づいていなかった自分にびっくりした。

 なぜこういう状況になってしまったのか?それを説明しようにも、順序立てて話せない自分がいる。心が重くなってしまう何かが確かにあったはずなのに、それをすべては思い出せないし、どれもが原因のようで、どれもが大した原因ではないようにも思える。

 私の日常なんて、とても平凡だ。

 朝起きたら息子の世話をして保育園に連れて行き、帰ったら洗濯を干して皿を洗い、家を片付けて昼食の準備をする。夫と一緒に昼食を済ませ、在宅の仕事をいくつかこなし、夕食の準備を始めるまでの2時間くらいに、残りの家事をしたり、調べものをしたり文章を書いたり、本を読んだりする。

 17時前に保育園へ迎えに行ったら、寄り道したがる息子を30〜40分追い掛け回す。やっとのことで家に着いたら、手洗いさせておやつを与え、その間に夕食の仕上げをする。18時半には夕食を済ませ、片付けた後の30分は、息子と遊んだり絵本を読んだりする。その後、一緒にお風呂に入り、歯を磨き、おもちゃの片付けをした後、20時半に寝かしつける。

 だいたいいつも寝室から出ると、時計は21時半になっている。息子が寝付くまでに1時間もかかってしまうのだ。その頃には、21時過ぎに帰宅した夫が、私が用意していた夕飯を食べ終わっている。少し会話して、22時から1時間、また在宅の仕事をスタート。23時にやっと、1日のすべての仕事が終わる。

 保育園のおかげで、1日数時間でも仕事を再開することができるようになり、家事も前より集中してできるようになった。こうして文章を書くことや、「いつかやってみたい」と長年思っていたことに挑戦する意欲もわいてきたところだった。

 でもやっぱり、一人で生きているわけではないので、夫や息子の体調や精神状態、家族・親戚のスケジュールなどに合わせて動かないといけないことも多く、どうしても自分のことが「後回し」になることがたくさんある。

 結婚してからの3年間、それを「仕方ない」と思って生きてきたのだけれど、自分を後回しにする癖がついてしまうと、例えば服装や髪型ひとつとっても、「もうこれでいいや」と投げやりになってしまう自分がいた。

 毎日履いていたスニーカーに穴が開いてしまい、いよいよ買い替えることになった時も、自分がどういう靴を履きたいかというより、「どうせ息子にたくさん踏まれるんだし、汚れが目立たない色にしよう」と選んでしまったこと。スーパーへ買い物に行っても、息子や夫の好物ばかり探してしまい、自分は一体何が食べたいのかわからなくなっていたこと。

 自分のために物を買ったり、おしゃれをしたり、食べたいものを作ったり、行きたいところに出かけたりすることがほぼゼロに近い毎日を送ってきた結果、私は自分のことがよくわからなくなっていることに気づき、とても困惑した。

 その混乱した気持ちを誰かに話したとしても、相手は私ではないので、100%理解してもらうことはできない。でも一番身近にいる家族には、いろんなことがうまくできなくなっている自分について説明しなければならないので、一生懸命伝えようとした。

 ところが、それを韓国語でうまく表現できないのだ。「日本語でならこう言えるのに」というもどかしさが、私の心を一層苦しめた。そのもどかしさが、日本語がわからない夫への怒りに変わったこともあった。

 「国際結婚したんだったら、あなたもちょっとは日本語を勉強してよ。なぜ私ばかりがあなたの国の言葉を使い、文化を理解し、自分の国に住んでいたらしなくてもよいはずの努力を続けないといけないの?」という風に。

 今の自分を客観的に分析すると、心の8割くらいがもうすでに何か苦しいもので埋まっていて、2割しか空いていないスペースに負担がかかってくると、何かがプツンと切れてしまいそうな状態。今まではその8割の重荷を自分でなんとか軽くしようとしたり、そちらに視線を向けないようにしたりして、だましだまし乗り越えてきたのだが、最近もうそれを一人では処理しきれないとはっきりわかってしまった。

 だから、最初は「小言を言われている」としか受け止めてくれなかった夫に、必死でSOSを出した。夫の実家で夫の祖父母の祭祀(チェサ)が行われる前には、義父に電話し、自分が最近正常ではないので行けないかもしれないと話した。

 結局、祭祀には行ったものの、ひどく疲れていて車で酔ってしまい、普段ならあり得ないのだけれど、祭祀が始まるまで1時間、ひとり別室で寝かせてもらった。もう誰に何と思われても良かった。「いろいろ手伝えなくて申し訳ない」という思いも捨てることにした。

 幸い、家族や親戚は皆、優しかった。義父は「これを飲んだら元気になる」と言って、自分が作ったというハチミツにつけた高麗人参のエキスを飲ませてくれて、帰りにもそれを分けてくれた。義母は「体調が悪いのに来てくれてありがとう」と言ってくれた。

 義弟の奥さんは大量の食器を一緒に片付けながら、今まで言えなかった私の愚痴を聞いてくれた。肝心の夫は、いつも以上に息子の面倒をよくみようとしていた。義弟の奥さんに「これからはもっと、今まで以上に妻を大切にする」と宣言したそうなので、今後大いに期待したいところである。

 まだ完全に復活した感じはないし、省エネルギーで最低限やらねばならないことだけをしているのだけれど、今回「もう一人ではどうしようもできないところまできている」と、家族にSOSを出すことができて本当に良かったと思っている。

 私は今回、自分が出したSOSに家族が応えてくれなかったら、本気で日本に静養しに帰ろうかと思っていたのだが、そうなると保育園や仕事を全部休み、日本でも韓国でも2週間隔離生活を送らねばならい状況だった。今の私には、それがさらに心の負担になりそうだったので、今いる場所でもうちょっと、より良く過ごしていけるようにもがいてみたいと思う。

 我慢は美徳ではない。そして、人に弱さを見せることは悪いことではない。生きていれば誰もが、精神的にも肉体的にも弱くなることが必ずあるのだから。

 「私にはSOSを出せる家族がいない」という人は、友達でもネット上の知り合いでも、悩み相談の窓口でも、本でも映画でも漫画でも、頼れるものは何でも頼って、自分ひとりで全部解決しようと思わないで。

 世間は自分が思っている以上に優しさにあふれていることもあるし、思いもしなかった人から励まされたり、思いもしなかったことから解決の糸口が見えたりすることもあるから。

 さあ、今日もあまりやる気は出ないけれど、元気いっぱいの息子を迎えに行く前に、大好きなコーヒーを飲んで、お味噌汁の下ごしらえだけして行きますか。今日のおかずはもう、キムチ、海苔、カニカマの卵焼きだけで勘弁してもらおう。適当に、テキトーに。

 自分が弱っている時は、元気な人に助けてもらう。自分が元気になったら、弱っている人を支えてあげる。その繰り返し。「人は一人では生きていけない」って、きっとそういうことだから。

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