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「私のことを何も知らないくせに」と思った夜に考えたこと

 これまで40年近く生きてきて「あなたってこうだよね」と人に言われた言葉がたくさんある。例えば「いつも前向きですよね」、「元気いっぱいだよね」、「楽しそうに仕事するね」、「キラキラ女子だよね」、「平和そうな主婦だよね」といったように。

 嬉しかった言葉もある一方で、「え、私ってそう見えるの?」とびっくりした言葉もあった。いずれにせよ、人に見えている姿と、私が思っている自分自身の姿に、ずいぶんと大きな差があるのは間違いなかった。

 前向きで元気に見えるとしたら、それは、後ろ向きで元気がない時には人に連絡をしないからだ。どんなに切羽詰まっていても、楽しそうに仕事をしているように見えるなら、それは、焦っているうちにテンションが上がってきて、社内をバタバタと走り回ったり、電話の声が大きくなったりしていたからだと思う。

 また、キラキラ女子と言われたのは7年ほど前のことで、その言葉の定義が私にはよくわからないのだけれど、その人とはFacebookでの交流が主だったので、明るい話題しか書いていない投稿を見てそう判断されたのかもしれない。

 「平和そうな主婦」と言った人には、のちに「いろいろあったんだね。全然そんな風に見えなかった。苦労が顔に出ないっていうのはある種の才能だよ」と励まされることになったのだが、とにかく、人が誰かに対して持つ印象というものは、非常に独りよがりで曖昧なものだ、ということを強く実感している。

 それは身近な家族や親戚に対しても同じで、近い人だからこそ、よくわかっていないことが多いものである。近い存在というだけで、わかったような気になっているというか、わかりあおうと努力する必要を最初から感じていない、というか。だから人は意外にも、自分の親の詳しい生い立ちや、夫や妻や子どもの家以外の顔というものを他人より知らなかったりもする。


昨夜、結婚前から数えると4度目になる秋夕(チュソク/毎年秋、陰暦8月15日に先祖を供養する儀式)を終えて自宅に戻り、2泊3日分の大量の洗濯物を干しながら、義両親や久々に会った親戚との会話を反芻していた。

 すると、急に泣けてきたのだ。「結局みんな、私たちのことなんて何もわかっちゃいないんだわ」と。とても楽しい時間を過ごしてきたはずなのに、1つ心に刺さった棘を思い出したら、他にもいくつか刺さっていたことに気づいてしまった。でも、泣いたら少し冷静になれて、私もまだまだ夫の家族や親戚について知らないことがいっぱいあるんだから「おあいこか」と、思い直したのだった。

 今回驚いたことの1つは、ある親戚が、私が韓国籍を持っていると思っていたことだった。結婚した当初、日本の友人の中にも「韓国人になったんでしょ?」と言う人がいてびっくりしたのだが、日本人が韓国人と結婚しても、帰化しない限り日本国籍のままなのだ。

 でも、それで合点がいった。これまで何度か、その親戚が悪気なく日本批判ともとれる発言をしていたのだが、それは私のことを「韓国国籍を取得した人」、つまり「韓国人になった人」と思っていたからだったんだな、と。だから外国人である私に対する配慮がなかったんだと、出会って4年目にして初めてわかり、とてもすっきりした。

 親戚が私のことをあまり知らないように、私もまだ、その親戚のことについて知らないことがたくさんある。義両親の家で会うことがほとんどなので、お互いどこかよそ行きの顔で付き合っている部分もあるし、幼い子どもたちの世話をしながらだと、なかなか込み入った話もできない。

 また、私の性格上、複数人でいる時は常に人の話を聞く側にまわることが多いので、自分の話はほぼできずに終わる。しかもここは外国、周りは全員ネイティブ韓国人。おぼつかない韓国語を話す私が自分の話を切り出すには、まだまだハードルが高いのであった。

 考えてみると、40年近く生きてきても、私はまだ自分という人間について知らないことが多い。自分ですらよくわかっていない「私」という人間について他人に「わかってほしい」と思うのは、無理な願いであり、かなり難しいことなんじゃないだろうか?

 昔、こんなことがあった。仲良くしていた人の心の重荷を一緒に担ぐことになり、次第にそれが辛くなった時のことだ。「苦しかったら言って」と言われていたので、遠まわしに伝えたら、「あなたにそんなことを言われて辛いのは私」と返ってきて言葉を失った。

 その時相手は、私が置かれている立場を理解しようというより、「自分のことをわかって」という思いでいっぱいだったに違いない。しかし、「わかってよ」と強く言われれば言われるほど、私は相手のことがわからなくなっていったのだった。

 洗濯物を干しながら思い出したのは、その時の出来事だった。あの時「私のことをわかってよ」というメッセージばかり発していた相手の姿が、一瞬、今の自分の姿に重なった。そしたら涙が止まったのだ。「私だって、まだ新しい家族のことをほとんど知らないじゃないか」と。

会える機会が少ないことや、子どもの世話でバタバタしていることを言い訳に、自分を知ってもらう努力もしてこなかった。今回刺さった小さな棘は、まだきれいに抜けずにいるけれど、「何で私たちのことをちゃんとわかってくれていないの?」と悲しくなってやさぐれるには、まだ早い気がした。

 昔、こんなことを言った人もいた。「自分たちのことをわかってほしい、というより、どれだけ相手のことをわかろうとするかが大切なんですよ」と。

 当時は、それを言った本人が一番人のことをわかろうとはしていなかったので、説得力がないなと思って聞き流していたのだが、세월이 약이다(時が解決する)ということだろうか。あの時相手をよく思わなかった気持ちはどこかへ消え去り、聞いた言葉が持つ本来の意味が、今の私には素直に響いてくるのだった。

 「愛されるより愛したい」じゃないけれど、「わかってもらうより、わかってあげたい」という姿勢の方が、もしかして、楽に生きられるのかもしれない。人は、少なくとも私は、自分のことをわかろうとしてくれる人に自然に心が開けるものだし、相手のこともわかってあげたいと素直に思えるものだから。

 これからも「え、私ってそんな風に見えるの?」とびっくりすることがあるだろう。「ちっとも私のことなんか知らないくせに」と、ひねくれることもあるかもしれない。でもまあ、それはお互い様なのだから、イライラする前に自分から相手に心を開いて。「少しずつわかりあえたらラッキーかな」くらいの気持ちで。

ぼちぼち行こう。今日も明日も。

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