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身体パラフレニー【自分の身体ということ】 

唐沢先生の著書「臨床は、とまらない」から抜粋して、麻痺側を自分の手と認識できな症例について、投稿したいと思います。

「見えているけど触っている感じがわかりません」

「見ていると、先生は私の手をさわりながら、これは誰の手ですか?と質問してくる。だから私は答える。それは私の手です。でも触っている感じは分かりません、と」これはある患者さんが語ったことだ。
(『臨床はとまらない』より引用)

この方は、見えているけど触れている感覚が分からないと話しています。

自分に置き換えた時、「触れている」感覚が無いのに、どうやって自分の手であると認識できるか、何を基準に自分の手と認識するのか、混乱していきます。

何が言いたいかというと、
 
『「触れている」ということがどれほど「自分であること(自我)」に深くかかわっているかを想像しつつこの言葉を読み解いていくと、見えているのに触っている感じが伴わないということは、自分であるということを揺るがすほどの出来事ではないですか?
 
ということです。

そこにあるのが当たり前な「感覚」は、それが無くなったり、弱くなったりした時に初めて、その存在が現れるように思えます。

上記の患者は、まだ自我が保たれていますが、次の患者との会話はどうでしょうか…

「孫です」

私「これは誰の手ですか?」
患者さん「その手ですか?私の孫です。かわいそうに」
私「ではあなたの手はどこにありますか?」
患者「…その辺にあると思います。」
(『臨床はとまらない』より引用)

この会話の方が違和感を覚える方が多いと思います。
自分の手を忘れるということはまずあり得ないですし、非現実的でありますが、言っている本人はいたって真面目です。

「触れている」感覚が無いのに関わらず、自分の手であるという自己所有感を持っていられるのは、今まで経験した事が非常に意味のあるものだったからです。
今まで経験したものの全ての中心にはいつも「自分の身体」が存在しており、それを認知できているからこそ「自分の手」と認識できるのです。

しかし、脳卒中を発症すると、感じる経験、動かす経験の情報が得られなくなり、全ての中心であった「自分の身体」が中心ではなくなり、「自分の手」とは思えなくなります。

その時に必要なのが、今の自分を『受容』する事です。

脳卒中を発症した後、動かない、感じれない身体を目の当たりにした時に、「自分に何かがあったこと」を認める必要があります。

このおかげで、自己所有感が保たれます。

しかし、自身の手を「孫」と発言した方はなぜ自分の手と認識できなかったのでしょうか。

自己を保つため

側頭葉のある部分を損傷すると「これは自分の手ではない。動かない、感じないはずがない」という結論を出すことがあります。

認めない事で自己を保とうとします。それがたとえ非現実的であったとしてもです。

触っているものが見える➡しかし触れている感じはない➡いま見えているのは自分の手ではない、ということになります。

しかし、脳卒中の患者の話を聞くと、最初はみなさん、麻痺側上下肢を「自分の手ではないような感じがした」とお話して下さる方が非常に多いです。

ここから、この障害の受容の可否がどうして起きるのかは、はっきりしませんが、リハビリにおいて非常に重要なウェイトを占める事は間違いありません。

つまり、ここにはセラピストが立ち向かうべきものが存在しています。


この話は3つにまとめて投稿していきます。
1.本日の内容:自分の身体ということ
2.自己所有感について
3.そして訓練…

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