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小説 『普痛』(完)

※前回


十三

 東口のターミナルは平日だというのに忙しなく人々が流れていた。体のどこがぶつかろうと、それが日常のように足早にその場から消えていく。前まではこの異様な流れが嫌いだった。自分だけが浮いているような、取り残されているような気がした。今でも嫌いなのだろうか。判らない。楽しくはないが、ぶつかることは少なくなった。
 あの日を境に『燿子』も『僕』も、俺の前に現れることはなくなった。変わったところがあるかは判らないが、解らなくていいことなのかもしれなかった。
 スズキとの約束まで街を歩こうと思い、適当に足を動かした。分厚い雲が暗がりを速めるように空を覆っていた。バスやタクシーのライトが点々としている。駅から遠ざかるにつれ、どこか聞いたことのある音の割れたマイク音が耳に大きくなってきた。
 男はターミナルから一段降りた広場で歌っていた。通りゆく人々の格好は厚さを増しているのに、彼の黒シャツは熱く、胸元から腹にかけて一部の色を濃くしていた。トレードマークのクシャクシャな帽子が揺れたかと思うと丁度曲が終わったところだった。
 「ありがとうございます」汗を垂らしてお辞儀する彼に足を止める者はいない。
 彼は最後の曲だと告げると「いつか俺が売れた時には今日のことを自慢してください」カセットのボタンを押した。
 男の口から紡がれた言葉はやはり歌というよりかは詩で、相変わらず歪で不器用な歌だった。
 〈生きる〉をテーマにして書かれた詩はとても凡庸で当たり前の普通が連なった。
――生きることは、食べること、眠ること、話すこと、歩くこと、泣くこと、笑うこと、迷うこと、悩むこと、鳥が飛ぶこと、魚が泳ぐこと、芽吹くこと、問うこと、急がないこと、美しいものに出会うこと、手をつなぐこと、そして人を愛すること。
 つい最近思い出した言葉が一つ、また一つと彼の口から紡がれる度に俺の心を撫でた。

 彼が左手を突き出すのを最後に曲はフェードアウトしていった。深いお辞儀をする彼から汗が地面に落ちる。自然と手を叩いていた。男は少し驚いた様子で顔を上げるとまた深いお辞儀をした。
「良かったです」「あざます!」挨拶がもどかしかった。
「何ていうんですかね、こう、ね?」
「はい!」俺の下手な感想に彼は付き合ってくれた。
「良かったんだけど、なんだろうな。それだけで終わっちゃいけない、みたいな。そう思えました」
 男はただ首を縦に動かして何度も頷いた。ふと思い出したかのようにカセット横のトランクケースから少し折れ曲がったチラシを私に渡した。
「今度、バーでライブやるんです。出番少ないすけど」照れ隠しに笑ったが、目は熱に満ちていた。
「友達の分も欲しいから、もう一枚もらえます?」
 彼はトランクケースまで駆け寄るとやはりまた角の折れたチラシを一枚くれた。渡す直前で角を直すのが可笑しくて、笑った。
「酒は飲めないんですけどね」
「ソフドリとかもガンガンあります!」
「じゃ、平気だ」また笑った。
「CDとかあるんですか?」聞くと、しまった忘れてたと本当に焦ったような顔をして「一枚五〇〇円です!」とカセット横に積んだ自分で焼いたと思しきディスクを一枚差し出した。
 彼のサインも欲しくなってサインを頼んだ。
「お兄さん、名前何です?」
「え?」誰に向かって聞かれたか一瞬わからなかった。
 もう随分と名乗っていない気がした。いや、それは俺の名前では無かったのだ。『僕』も『燿子』もいなかった『私』に名前なんてあるはずがなかった。
 だが、今は
「*****」

 男と握手を交わし、その場を後にした。帽子に似たくしゃくしゃの笑顔がいつまでも温かった。
 携帯電話で時間を確認すると良い頃合いだった。何を話そうか。まずはスズキの話を聞こう。どんな顔をしているだろう。良いかもしれないし、悪いかもしないが、俺は殿様のように笑ってあいつの話を聞くだろう。それがきっとあいつにも俺にも一番良い。
 その後は、『俺』の話をしよう。他の誰でもない俺の話だ。
 鈍い夕闇の雑踏の中、頬にぽつりと雨が落ちた。

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