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小説 『普痛』(十二)

※前回


十二

 目を覚ますと日は落ちていた。布団で作る温もった暗闇ではない暗闇が部屋に敷き詰められていた。外に見える街灯が窓に打つ幾つかの線を光らせた。
 雨が降っているという事実に私は胸を撫で下ろした。私が彼女らに謝るためにはどうしても必要なモノのように感じていた。
 着替えると尻ポケットに小銭を突っ込み、玄関前の傘に見送られる形で家を出た。
 

 いつしか彼女に会った日をなぞりながら公園までの道を抜けた。暗闇という絶対的な介入が行く道をふさぎ、街灯の弱弱しい明かりが私の足元だけを確保して公園までの道を点々と作った。
 公園に近づくにつれて雨は私の身体を濡らした。髪は額に張り付き、服はいくつかの滴る筋を作りながら足元を侵し始めていた。酷く不愉快だった。
 しかし、それ以上の後悔と罪の意識が身体のほとんどを支配した。突然に街灯の明かりが消えたのなら歩む方向さえもわからず、そのまま闇に消えてしまう気配があった。
 それも悪くない。私が消えたところで世界は変わらず周り続ける。世界にとって私が消えることは〈選択〉の一つでさえない。ならば、消えても消えなくても一緒だった。今この瞬間、公園に向かうことだけが私にとっての唯一正しい行動であり、世界にとっての存在意義だと自らに言い聞かした。そうさせたのは私の後悔の念であったのか、それとも『僕』であったのか、私には判らない。

 公園内はベンチ横のおぼろげな明かりによって存在を保っていた。古い白熱灯は笠の下その使命果たすが、明かりが公園内にいきわたることはなく、シンボルマークである水色の象も視えなかった。象も気を使ってくれたのかもしれなかった。私の懺悔を聞かないためにこっそり公園を抜け出してくれたのだと思えた。ならば、公園にいるのは私と彼女だけだった。
 白色と橙色が混ざった光がスポットライトのように空のベンチに降り注いでいた。私は吸い込まれるようにベンチに近づいた。笠の下には幾つもの羽虫たちが灯りとその熱を求めて群がっていた。しばらく見ていると私も仲間に入れてもらいにやって来た羽虫になった気がした。虫だって雨は嫌いなのだと誰に言うわけでもなく思った。だから笠に入りたがるのだ、暖を取ろうとするのではないかと。
 空いたベンチに目を向けるがそこにいつもの待ち人はいなかった。
 いや違うか。私は頭を振って自分の頬を叩いた。水の飛沫が縦の線と交差する。
 彼女は私よりも先にいて、私よりも遅く来ていた。いつだって彼女が合わせ、私は合わせられていた。
 私は目を閉じた。
 雨の音が響いた。時々ノイズのように虫の羽音が入ってくる。白と橙の灯りが瞼の上から色味を差した。暗く冷たいはずの空間に温度が宿るのを感じる。すると水たまりを車がブレーキをかけて通るような派手な音が私の世界を唐突に終わらせ、弾けるように目を開けた。
 「んああ…」と乙女の欠片もないくしゃみが似合う彼女がスポットライトに照らされていた。

 『燿子』は初めからそこに居たように私の前に現れた。髪も服も長い間雨に打ち続けられていた様子だった。彼女は私の方を振り向くこともなく、ただ、前を見据えていた。 
 何から話せばいいか判らなかった。あの日、私は彼女に、『僕』に何をしたんだろうか。どんな気持ちで私から〝切り離された〟のだろうか。私を恨んでいるであろうか。
 身体が冷えるのとは裏腹に胸は焼けるようだった。心臓の脈を打つ機能や体温を保つ機能が全ておかしくなっていた。
 私は彼女と『僕』に殺されることも疑わなかった。
 それはかつて私が彼らに行ったことだった。

 八月二十五日
 私は自殺した。
 あの日、私はぼんやりとこの世界に留まることを辞めたのだ。
 どんな死に方が良いかだけを考えてその日の仕事を終えた。自殺と言えば首吊りなんて安直なことを考えて、道具を揃えるために夜のコンビニに繰り出したのだった。コンビニに入った瞬間、そんな紐が売っていない当たり前のことを思い出してアイスだけを買った。口にしたアイスがとても冷たくて、私は自分が今生きていることを知り、そしてなんで死のうなんて考えたのか判らなくなって泣いた。
 泣いたことが逃げるような気がして、絶対に死んでやると息巻いて家に帰った。
 鏡に映る私は私だった。『僕』でもなく、『燿子』でもない、他ならぬ私だ。
 その時、私は悟っていたのだ。『僕』なんて人間は存在しないことを。彼は私が逃げるためだけに作った偽物の化物だった。私が普通であるために作ったもう一人の私。だが、彼に背負わせたものはあまりにも普通ではなかった。すべての苦痛を、罵声を、嘲笑を、常識を押し付け、人形の様に操った。その結果が自殺であったのなら、私は彼を、私を殺すしかなかった。彼が生き続ける限り私は一生正しい選択を取れずに、普通に戻れない気がした。ならば殺すしかなかった。それが〈正しい〉と信じた。
 首にかけた両手には私の意志とは思えないほどの力がこもっていた。自分の手で自殺なんかできるわけないのに、あの時、あの両手には間違いなく私に殺される私の意志があった。
 結局、私は死ねなかった。自分の手で自分を縊り殺すことなんてできないのに、鏡の欠片と血が飛び散った洗面台で目覚めた私は、あたかも本当に私を殺す私に抗って、生き残った気になった。
 普通にもなれない、殺すこともできない、この時ほど自分を惨めに思ったことはなかった。
 私は医者に診てもらうまでもなく病気だったのだ。
 〈普通〉という不確かなモノを欲しがり、そのクセ、それが手に入らないとわかると馬鹿にして殺そうとした。自分が正しいと思い込んだ。私が必死に望んだ〈普通〉を得るべく努力した『僕』を、私は私でないと切り離したのだ。
 そして私はまた〈普通〉という概念と戦おうとしていた私を、『燿子』を無かったことにしようとしている。
 自分を自分じゃないと否定することほど恥ずかしくて苦しいことはない。それを知っていたはずなのに、私はそれを平然と何食わぬ顔でやってのけたのだ。これを病気と呼ばずになんと言えばよいのか。
 ああ、そうだ、あの医者もヤブだったのだ。私は不器用でも生真面目でもなんでもないのだから。
 私はただの人殺しなのだ。

 どれだけ時間が過ぎただろう。一瞬であったかもしれないし、何時間もここに突っ立っている気にもなった。彼女は変わらず座っていた。私の考えは彼女や『僕』に聴こえているのだろうか。確かめるように胸を触ったが何も応えてはくれなかった。
 私は今この瞬間に自分が生きていることが彼らが許してくれた証なのかもしれないと調子のいいことを思い、願った。
 ひらかれた掌が『燿子』の肩に伸びる。掴んだ肩は小刻みに上下した。すると雷鳴の如く、笑い声が雨空に轟いた。私はその声に稲光を見た。
 ひとしきり笑い終えたのか肩の上下運動は呼吸のリズムへと変わった。
「あー、ナーバス」私の顔を見て笑った。
「どういう意味」
「黄昏てるなあって。黄昏すぎて夜になっちゃう」
「……わかんねえ」彼女はなぜ笑えるのだろう。わからない。私はずっとわからないのだ。『僕』を殺そうとしても、『燿子』と話していても、私はどこにも居ない。間違いたくなくて歩いた道のりに、正しい選択なんてなかったなんて説教は今更わかっている。だが、そう選択するしかできなかった私はどうすれば良かったのだろう。〈正しい〉と思い込むしかないではないか。
「……痣。痛かっただろう」拳を握った。『燿子』はまた私を茶化したがすぐにトントンと胸元を叩いて治ったことを示した。ブラウス越しに見る彼女の肌は透き通るように白かった。
 視線が足元へ落ちる。地面はぐちゃぐちゃと水を吸い込み、泥水が靴に絡まった。
 懺悔の言葉が出なかった。言葉に出せば途端にゴミみたいな媚諂いの言葉に変わってしまう気がした。しかし、言わずとも伝わるという錯覚が何の役にも立たないことは私がかつて証明していた。
 視線を意識して上げた。彼女の笑い顔をすり抜けて遥か上を見た。
 暗闇に降り注ぐ無数の光の線が流れては次々に消えていった。こんな光景をいつか見た気がした。いつだろう。私がまだ子どもだった時だったかもしれない。学校のグランウンドでやった流星群の観測会で見た気がした。
 いや、嘘だ。あの時は結局星なんか流れなかったんだった。皆、不平不満を漏らしていた。だが、彼女のように皆笑顔だった。

 『私』は懺悔した。

 ――自分が欲しかった。いつだって人の目をばかり気になって、自分のことをどう見ているのかだけが気になった。俺の発言は可笑しくないのかな、俺は期待に応えていられるのかな、普通でいるのかなって。できもしないことを口にして、なんとか下駄を履かせて自分を大きく見せてた。それでその自分が正しいんだって思ってた。会社に入ってもそう。頑張らないと、みんなこれぐらいやってるから落ち込んでなんかられないのにって。なのに、俺は否定された。苦しくて、悔しくて、間違ってたなんて絶対認めたくなくて、全部『僕』に押し付けた。それなのに、一所懸命〈普通〉を演じる『僕』を嘲笑ってた。嫌いになった。誰よりも〈普通〉を渇望してたのに〈普通〉じゃなくなった自分が嫌いだから〈普通〉からも逃げた。
 その結果が、自分殺しだ。

 黒い血にまみれた両手がもう取り戻せないモノを思って拳を作る。
 瞬間、衝撃が走った。左右から放たれ衝撃は、痛みのない音だけが頬と鼓膜を揺らした。
 『燿子』は『私』を見た。
「なんで傘差してないの」顔をわしづかみ、目を覗きこんだ。
――わからない。
「雨に打たれてみた感想は?」意地悪な質問をした。
――最悪だ。
 彼女は既に答えを持っている。それはすなわち『私』の答えでもあった。
「知りたいと思ったんじゃないの。〈正しい〉でも〈間違い〉でも〈普通〉でもない、何かをさ」
 『私』は傘を捨てられなかった。彼女の世界は覗けないモノと諦めていた。だが、違う。『私』は彼女で、彼女は『私』なのだ。そこに傘を捨てられない道理は初めから無かったのだ。
 空からは無数の雨が身体に降り続いている。汚れた身体を流し、顔を打った。良いこともあるものだと俺は彼女を抱きしめた。とても暖かく、俺の心臓と同じタイミングで彼女の心臓も脈を打った。
 俺は誰にも見られず静かに泣いた。

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