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小説 『普通』(十一)

※前回


十一

 嘔吐くことで私は現実の、私の布団で目覚めることができたようだった。
 体重を載せた両手がまたズキズキと傷んだ。肺に入る湿気った空気がカビ臭い。窓に映るのはいつか彼女が楽しんだ柔かな雨だった。自分が酷く汗を掻いていることに気づいた。濡れたシャツの胸元が一部赤く滲んでいるのが確認できた。私は酷く焦り、引きちぎるような力で胸元を引っ張った。が、どうということはなくニキビが一つ潰れていただけだった。焦りは汗となり、またシャツを濡らした。
 私は恐れた。『僕』が、『燿子』が、今度こそ私を殺そうとしている。
 あれは夢ではなかった。私があの日、この手で行ったことに違いなかった。だからこそ私は震え、恐れている。
 いきなり羽音が鳴った。
 身体を一度震わせ、音の鳴る方を見た。携帯電話が布団の上から外れ、床板にバイブ音を叩きつけていた。携帯電話はバイブ音の度に死ぬ間際の蝉のように床板を這いずった。背中には〈スズキ〉の文字が光っている。
『忙しかったか?』
「…うん、いや、寝てたんだよ。ちょっと具合が悪くて」
『なんだそうだったのか。悪かったな、またかけなおすよ』
「いや、いいよ。誰かと話したかったし。メール見たよ」
『ああ、まあな。電話もそれを話したかっただけなんだけどさ。なんていうか誰かに聞いて欲しくってよ』
「わかるよ」と言った私は本当にわかっていたのか。甚だ疑問ではあったが、そう答えていた。答えを通った喉が嘘を吐いたように熱い。
『いい機会だから、俺もお前みたいに考えてみよう、って』
「…うん」
『時間とかもう余りまくりだから。来月まで時間あるからまた会おうな』
「ああ、そうですね」
『……大丈夫か?』
 一言一言相槌を打つたびに喉が焼けた。私ではない誰かの言葉がそうさせた。朦朧とする意識の中、『じゃあ、また電話するわ』と電話を切ろうとするスズキを引き留めた。何故そうしたかは私には判らない。ただ、その一言だけは伝えなければならない気がした。
 ――雨を、楽しめるように。
その言葉は聞こえたのだろうか。スズキの返事は聞こえないまま、電話が切れた。
 外の雲は一段と厚さを増して部屋の暗がりを深くした。私は乗じるように布団を頭までかけた。また眠ろう。そうすることで喉の熱さも癒されるような気がした。身体を丸めた。そうすることで夢を見ないような気がした。起きたら会いに行こう、そして謝ろう。そうすることで雨を楽しめる気がした。


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