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この世界に生きる我々人間と「動物」の関係

こんなタイトルですが、私は・・・人間より動物の方が好きです。
動物全般は好きですし、愛されなければならないと思いますし、我々は動物たちを貴ぶべきであるとも考えています。これを前提に・・・でもちょっと、深く掘り下げた記事を書いてみようと思います。

※ただ、うまく脳内から言語化できていないので間違った論調の可能性もあって、そこはいずれブラッシュアップ予定なので、今回は軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。

動物全般は絶対に愛されるべきという事に・・・例外はあると思うのです・・・。
そのようなくくりで行くとちょっと横暴じゃない?というか行き過ぎてしまう可能性があるなと思うのもあり、自分が「ヒト」であることを前提とした記事を書こうと思って記しました。

改めてですが、先に記述すると・・・、私は動物がとても好きですし、飼うことも好きです(勿論最期まで面倒を見る前提で)。また動物園・水族館での動物たちに会うことも大好きですし、自然界でのレクリエーションで動物たちと出会うことも好きです。でも食肉も好きですし、人間社会を脅かすような動物(=下山し人里に降りてくるクマ等)に対して処理しなければならないという事は仕方のない事なのかなと思う派です。エゴありきで。もちろんエゴ丸出しです。そういった事を・・・かこうと思います。

動物と記していますが、陸生動物及び、水産系生物も含めて記します。

今回のまとめを先に↓
人間はエゴありきで、動物を飼うし、愛するし、飼育下に置かれた動物を見るし、またそれも愛するし、またそれと矛盾するけど、命に感謝しながらお肉は食べるし、ヒトに危害を与えるような動物はごめんなさいしながら、処分するのもしょうがないよねってことです。


〇ヒトとして生きるという事

我々は動物の種類の中で「ヒト」に分類されますよね。あとまあ、高度な文明社会(ホントに?)を築いて他者とのコミュニケーションをしたり、文化を築き上げたり、通貨を用いて他者と取引したり、農耕や牧畜を行ったり、サービスを提供し社会の質を向上させたりしています。
こういう風な生活を我々は行っており、まるで「あたかも」他の動物とは「違うような」高次的な存在であるかのように存在してますよね。

私は実質、人間はやはり「本能」からは逃れられないなって思うところがあって。社会と言うか、理性と言うものを確かに人間は持ちえますが、それと同じくらい本能を捨てきれていなくて。その二者の相反するような存在の流動性の中、個として生きており、それが集団となり、それが社会となっていると考えています。だからこそ社会は流動性が高いと思うのです

ヒト

まあそれはおいておいて・・・、そのような「ヒト」であるからこそまるで高次的な存在で、他の動物を「管理下」においてますよね。実際、ペットを飼う事だって、動物園や水族館で飼育だって人間の「エゴ」でしかないと思うのです。只、私はその「エゴ」を忌避すべきでないと思う人で。エゴ・・・また後述しますが、人間は「エゴ」ありきで動いていると思うので・・・。
そういった、矛盾を多くはらんだ「ヒト」としての社会の中で我々は生きているわけです。

その「ヒト」社会においては、様々なルールがありますよね、倫理とか、各国と言う国の縛りでみるなら法律とか、あとは条約とか、言ってしまえば「宗教」とかもそうだと思います。いろいろなルール、規律を作って流動性のある社会をある程度形をKeepしているわけだと考えています。

決まり、ルール、法律、条約、宗教・・・いろいろ

そういった社会の中で、我々は生きているのです。その枠組みを出ることは、現状「不可能」に近いと思います。別次元に行く?あるいは宇宙?「ヒト」の手が全く及んでいないところに行くしか、方法は無いと思うわけで・・・。

〇ヒトとその社会

ヒトが中心となって形成している社会である以上、上述した「ルール」や「規律」は守らなければなりません。ここがとても難しい所なのです。
後述しますが、動物を愛するがあまり、動物を食べてはならない、と言う意見もありますよね。それも一つの意見としては尊重されるべきであるし、個々人がそのルールを守るというのは「間違っていない」と思うのです。
ただし、現行の我々が生きている社会において「肉を食べてはいけない」と言った共通のルールは「存在」していません。つまり声高に「食肉をやめろ!」と他者に呼びかけるのは「一つの啓蒙活動」にはなりうるかもしれませんが、現行のヒトの「ルール・規律」には反する行動になります。

ヒト中心の 社会

簡単に言ってしまえば、「他者に食肉を禁じたり」「人に害を与える動物を処理することに反対する」事はヒト社会のルールに反してしまうよねって話です。詳しくは後述します。

〇まず、エゴについて

これはいずれまた別記事にしようと考えているのですが、ヒトは「エゴ」ありきで生きていると個人的に考えています。エゴって言葉、嫌われがちですよね。エゴイズム(=自己中心主義)として定義されていますし、エゴ=自己中みたいなイメージがあると思います。実際大きく的を外しているわけではないのですが、ちょっと言いすぎている部分があると個人的には思っていて。「エゴ=個人」なのです。私はエゴと言う言葉を、個人の意見と解釈しています。個人的にですけどね(これもエゴ?)。

これでいいんだと思います。感想を無下に崇高なものに昇格させようとするから、ほころびが生じる可能性があるのだと思っています。

ほんで、世の中の大半のヒトの行動原理って、深掘りしていくと大体帰着する部分は「個人的な理由」になると思うのです。「個人的な利益」とかそういった類のものです。それってつまり、私の解釈で見ると「エゴ」になるんですよ。基本的にほとんどのヒトの活動は「エゴ」が行動原理にあると、私は考えています。

それでいいんだと思うのです。否定もしないし、自分もそうだと思っています。だからこそ、「エゴ」を無下に否定しないでほしいのです
「エゴ」という個人的な行動原理を無下に否定して、ルールや規定を新規に作ろうとすると、必ずかは分かりませんが、多くの場合矛盾が生じると思います。そもそもエゴって多くは矛盾をはらむものですし、エゴを無下にひた隠しにして世界のルールを新たに作ろうとしたらそりゃあほころびが生まれますよね。

だからこそ、エゴは簡単に否定されるべきものではないと思うのです。

〇動物との関係:ペットや、観察対象として

古来より我々は動物と共生関係にあり、特にオオカミから派生したワンちゃん達は我々の狩猟民族の友として始まり・・・、番犬等も含め多くの意味を持って我々と共存してきました。もちろん護衛犬や番犬、闘犬、獲物を獲ってくる役目の犬や牧羊犬など様々です。でも今はそういった意味より、愛玩動物としてつまりペットとして、愛するべき存在としてワンちゃんを飼ったりしますよね。ワンちゃんに限らず猫たちや鳥類、爬虫類、その他さまざまなペットがいます。
そして普段は飼えないような動物たちでも、その生態を知る、という意味も含め動物園や水族館で飼育下に置かれているわけですよね。鴨川シーワールド(千葉)とかでは、飼育下のシャチの「ショー」なんかも見れたりして、一定のパフォーマンスをするための動物もいたりしますよね

鴨シーのシャチショーは必見ですよ!

現代におけるペットは・・・我々が「飼いたい」というエゴから生じたものだと思いますし、動物園の動物などは、ヒト「達」のエゴによって飼育下に置かれているのだと思います。でもそれで、良いのだと思います。それがヒトが構成する社会ですし、それがルールで許されているのですから。

だからこそ、その社会で生きているからこそヒトはペットを飼ったり動物を見に行くことができるわけで・・・。

〇動物との関係:自然との共生

上記の内容と重なってしまいますが、ダイビングであったり、ツアーとかで動物を見に行く、と言った事が出来ますよね。国内だとなかなか難しいかもしれませんが、海外とかだと動物ツアーとかもあったりしますよね(私自身は未経験)。
そういったエンターテイメントも、言ってしまえばヒトが「見たいから」開拓してそういったルートやコースを作ったわけですし・・・、これもやっぱり、ヒトの「エゴ」からできたものだと思うのです。

クマは正直、イラストとかアニメーションでの表現と現実が乖離しすぎていると思う

後最近問題になっているのは、「人里に降りてくるクマ」などの問題。よく話題になりますよね、人里に降りて来て、ハンターたちが処理した話がニュースに・・・。そしてその地域の役所に「苦情の電話」が殺到する・・・。
これは「良くないな」って思うのです。あくまで「ヒト」が中心で作った社会で・・・、その「ヒト」に対して危害を及ぼすという事は、確かに理不尽であると思います(人里に降りてこなければならない理由がヒトにもあるかもしれないから)が、「ヒト」中心で回っている社会に生きている我々であるからこそ、そこは線引きをしっかりして、対処しなければならない
ヒトに危害を及ぼしてしまった時点で、大事件になってしまうわけですから。それを「可哀そう」という感情(これもエゴですが)で苦情を入れるってのは、ヒト社会の枠組みを逸脱しちゃっているのではないかなあと思うのです。(まあ、苦情を送るってのはエゴありきの行動だと思うので、生じるのも致し方ないなと思う部分もあります)。

ただ、上述したように「人里に降りてくる理由がヒトにも十分あると考えられるなら」ば、その解決策はしっかりと行っていく必要があるとも考えます。しかしその実それに取り組むのは「当事者」の人たちとなりますので、外野がとやかく言うことではないのだろうとも思います(私は少なくともそのような地域に住んでいるわけではないので、外野になってしまいますが・・・)。

とかくまあ、ヒト中心の社会に生きているわけであるからこそ、そのルールを守ったうえで、「動物」は愛さねばならぬよねって思うのです

〇動物との関係:食物として

そしておそらくほとんどの「ヒト」は肉を食べていると思います
その「肉」となった動物たちは、我々がペットとして飼っている動物と「何が」違うのでしょうか?
もちろん種族が違うとか、そういったものはありますが・・・、「生命」という観点から見て、何か違いはありますか?

その実、無いと思うのです。でも「食べられる」命と「愛される」命がありますよね。これの差って、どこにあるんでしょう?

ないですよね・・・?でも、それでもヒトは食べられる側の命を「食べてる」し、愛される命を「愛して」いますよね。

矛盾がはらんでいるのだと思うのです。同じ命、同じ動物なのに・・・。
でもそれは、つまるところ食べられる命と愛される命は別であると認識する我々ヒトの共通した「エゴ」があるからではないかと考えるのです。

〇行き過ぎた矛盾訂正

その「エゴ」を否定する・・・と言うより、動物を「愛する」事を絶対とすると、「食肉」は愛する事に対して矛盾をはらむものになりますよね。
だから・・・「ヴィーガン」などの考え方が出るのだと思います。もちろん、そういった考え方自体は否定できないものであるし、そういった考え方も貴ばれなければならないと思います。しかし・・・この「エゴありき」のヒト社会において・・・、むやみに「食肉をやめろ」とヴィーガンの人たちがわめきたてるのは、それは「違うかも?」と思うのです。もちろん喚きたてるのは「個人の自由」なので無下に否定すべきではありませんが・・・。

自身の行動に対して、行き過ぎたルールの制定化を試みるがあまり、ベースにあるのは「エゴ」なのに「ルール」に昇格させようとするから、矛盾が生じてしまうわけで・・・。無理やりなルールにしようとすると、ちょっと無理があるルールになってしまうかもしれない・・・と思うのです。
→生き物は食べてはいけないというルールになれば・・・どのラインから「生き物」と定義する?植物は?とか。

〇終わりに

かなり抽象的な内容になってしまったと思います。
ある程度またブラッシュアップが必要になる記事であるとも考えています。
自身の脳内ではまとまっているのですが、うまく言語化しきれなかったかも・・・。

ただ今回の記事で言いたいのは、人間はエゴありきで、動物を飼うし、愛するし、飼育下に置かれた動物を見るし、またそれも愛するし、またそれと矛盾するけど、命に感謝しながらお肉は食べるし、ヒトに危害を与えるような動物はごめんなさいしながら、処分するのもしょうがないよねってことです。それをちょっと深く深く掘り下げて、抽象的な事項までさかのぼって考えてみました。


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