鬱が少し楽になって
あの、衝動的で強烈な
「は?じゃあ死んでやるよ」という短絡的な思考と、
「なにがあったわけでもないけど、消えてしまいたい」
という二大希死念慮が落ち着いてきた。
薬のおかげかもしれないし、思うままに母親に当たり散らしたり、家族に言いたい放題暴言に近いブチギレをかましたこともあって、落ち着いてきたのかもしれない。
僕はまだまだ、メンヘラだ。一生メンヘラなのかもしれない。被害者のような気分になって、とにかく母を罵った。謝ってほしかった。でも内心では寂しくてたまらなかった。埋まらない穴を、素直に「さみしい」と言えないまま、言ったら嫌われるだけの暴言が次々と出る。
言えばいうほど、母はきっと僕から離れていく。物理的にも精神的にも。でも、こう育てたのは母で、悪循環が止まらない。僕がぐっと堪えて、母への憎しみを断ち切らないと、いけないのに、なかなかにできない。
泥沼の鬱の中では、母が憎くてたまらない。
母を思い通りにしたくて、叫び出したくて、泣き喚きたくて、たまらない。
家族にも当たり散らしたが、父方家族は僕と同類であり、母よりも拗れてしまってる人たちなので暴言を吐いた後、結局僕が謝らないといけなくなる。
父方家族はなにかと一言、余計なことを言う。僕にとって嫌なこと、嫌味なことをあえて言葉にする人たちだ。だから、僕もキレて、言い返す。
嫌味なことは受け取る本人次第とはいえ、父方家族は配慮がない。僕が病気で障害であることを口先では「わかる」と言いながら、「しあわせなことだね」と嫌味を言ってくるのだ。これは本当に嫌味で言ってきている。わかるから、僕は腹が立つ。
なんでそんなこと、言うの?
しかも鬱なときに。
そんな家族だから、僕は病んでいるのだが。
閑話休題。だいぶ、希死念慮が落ち着き、noteもかけている。そして、いま、はげしい頭痛で寝てはいるのだが、頭痛がひどいこともあって、なかなか眠れない。いや、ひどいからこそ、スマホなんか刺激になるだけだからやめたほうがいいと、わかっているのだが、悶々としてきたので、ばばっとかきはじめた。
振り返るように、「今までの人生って、つらかったな」と。ふと、頭痛の中で思い返していた。
なぜかいつも辛かった気がしている。
進学してからも、鬱。パートナーとは問題があって、いつも辛い気持ちだった。そんな高校卒業から二十代前半。生まれてきてから高校までも辛い日々の方が多かった気がする。
もちろん、鬱から余計につらかった、のほうにフォーカスされやすいのもあるだろう。楽しかったことだって、あったはず。でも、総合的に、とにかく今の今までを振り返ると辛かった記憶の方が鮮明だ。いや、鮮明だから、辛かった方が多かったと思ってるのかもしれないが。
じゃあ、逆に何が辛かったのかを分析しようと思う。
まず、自分は体力を超えたがんばる、が辛かった。そもそも、発達障害で感覚過敏で生きてるだけで一般人より摩耗することが多い。
一般人と同じ時間軸で生きるのがまず、辛かった気がする。他人と同じ時間、起きてないといけない。昼寝ができない。体を休める時間があまりない。どこに行っても光が強くて、うるさくて。
図書館は静かだが、光が強い。当然だ。読みやすくするためには温度の高い色がいい。
暗いところはうるさいところが多い。カラオケに、ネカフェ。暗いが、うるさい。
外で、あまり体を休めるところが、僕にとっては探せなかった。というか、東京はどこでもうるさい。静かなところもあったが、ずっとその場所にいるわけにもいかなかった。住んでいた場所も、高速道路の騒音があるから安い賃貸となっていた、ワケアリを選んでしまったので、家にいるだけで摩耗していたのだと思う。
特に二十代前半の東京に住んでいた頃は発達障害と診断されたものの、それに対する対策というものをあまり知らなかった。当然今まで生きてきて、感覚過敏でいることは当たり前なので、感覚過敏を緩和することで自分が生きやすくなるということすら、わかってなかったのだ。
「この見てる世界が、一般人と違うんだ」
ということだけをわかっていて、それしかわからなかった。よく、雑踏とした地下鉄の隅っこで体を休めながらそう思っていた。
「違うんだ」
「この、景色が違うんだ……」
悲観してたような、メンヘラな僕はそれを特別と思っていたような半々だった気がする。発達障害とわかった当時の僕はまだまだどっぷりメンヘラで、「発達障害は才能が秀でているところがある」という良いところだけを鼻にかけてたし、信じていた。そのくらい、何もしてなかった人間だったのだ。
話を戻そう。「自分は摩耗する人間」ということを完全に理解したのは最近だ。だから、他人より休まないといけない。まず自分のために。そして他人に迷惑をかけないために。
だから僕は夜は8時間から9時間はまず眠り、お昼寝は2時間は取る。そういう生活を目指したいと思っている。シエスタが必須。それでメンタルが良くなるなら、本当に他人のためになると思っている。
次にやはり、「頑張る」がまず向いていない人間なんだと思う。そして、自分は「頑張る」を「無理をする」と勘違いしてると気づき始めている。
発達障害で躁鬱である僕は、まず、僕の認識として「人間未満」という自分へのレッテルが強烈である。(だからといって発達障害で躁鬱である人が人間未満ということではないですよ。僕が、僕自身に貼ってしまってるレッテルの話です)
先ほど書いたように、まず一般人と同じ体力がない。頑張れない。そして僕は発達障害、という言葉があまり浸透してない時期に育てられたアラサー人間である。(知ってる人は知ってたのかもしれないが、母は書籍を読むのが苦手、ネットも苦手な人間だった)
母はとにかく、厳しい人間だった。僕が発達障害で育てにくかった人間とはいえ、長子でもあることからたぶん、懸命に必死に、立派にやろうと頑張ったんだと思う。父は放置、僕の祖母はヘリコプター系過干渉人間、子供を取られるとも思ったと思う。だから母も過干渉にならざるを得なかっただろうし、心配性でもあったため、「傷つけたくなかった」「失敗してほしくなかった」「可哀想な気持ちを抱いてほしくなかった」と全て先回りしてきた。
が、発達障害で困ることにはいっさい無関心、放置という僕には合わない育て方のせいで、歪みに歪んだ。
僕は、そもそも全てにおいてがんばらないといけない性質なのに、さらに頑張らないといけない子供になった。
過干渉はプレッシャーに。放置は無理をする、に。
だから僕はとてもプレッシャーに弱く、常に「頑張らないといけない」という無理をすることが頑張っていることだと勘違いして動くのが当然になっている。
だからよく、「やりすぎ」と評されているのかもしれない。気が利きすぎて怖いとか、礼儀が正しすぎて重いとか、感情を丁寧にすればするほど重いと言われ、怖いとも言われる。
もっと力抜いて生きたら?とか、考えすぎ、もよく言われる。特に、「考えすぎ」は常に指摘される。弟にも母にも言われ、よくイラッとする。
「〇〇しすぎ」は最近やっと自覚できてきたことだ。
でも、力の抜き方がわからない。がんばらないが、わからなくてがんばらないをがんばってしまう。
このことに関してはいままでもnoteに書いてきた。ふざけてるようだが、真剣なのだ。がんばらない、が、わからない。そして同時に、「正しい頑張り方」もわかってないと気づいたのが最近。そう、僕は先ほど書いた通り、「無理をする」が頑張るだと思っていて、頑張るとは苦痛で、汗水垂らして、血反吐を吐くものだとずっと思い込んできたのだ。
だから、そうしてないと、「頑張ってない気がする」と怖くなる。楽しんでいると、「楽をして、手抜きをしてると思われるんじゃないか」と恐ろしくなる。
だから、僕の描くイラストは、どこか窮屈なんだと思う。そして評価されないのだと思う。本当に楽しんでやってるわけじゃないから。どこか、怖がってやっているから。
ここから解放されたいと強く思う。正しい頑張る、は、楽しくていいのだと。楽しくて夢中になることも、頑張ってるといえるのだと。
親や家族からもらった価値観を育て直す。これは本当に楽じゃない。そして、親はきっと、こんな気持ちで僕を育てたんだと思っている。だから、僕は「こんな気持ちになる」んだと思う。
母が特に、必死に僕を育てた。楽しくもなく、なんとか立派に、と。母になると、理想の子供になるように、と。だから、母はいつもヒステリックだった。僕たちを支配していた。いつも楽しそうじゃなかった。発達障害で常識の通じない父方家族に振り回されて、柔軟に思考を変えられない、「べき思考」で。常識、普通にがんじがらめにされていた。だから八つ当たりのように僕をいつもなじった。僕を悪口のゴミ箱にした。気が利く奴隷にした。ダブルバインドで攻撃してきた。大声で怒鳴ってきた。
でも、いまだからわかる。僕も、母の通りになってきている。その背中のままに僕は育ってしまっている。楽しくもなく、猫の世話でいっぱいいっぱいになると、猫に叫んでしまうことがある。手は絶対にあげないと、自分に誓って自分をめったうちに叩いて気を逸らすが、やってることは、「母にされたこと」のままだ。
そして気づいて、一人で泣く。猫に八つ当たりして、猫を抱いておいおいと泣く。ごめんなさいと、DVのままに泣いている。泣いてるから許されることじゃない。もちろん、これは虐待になるのだろう。僕が被害者なツラしてこう書いてるが、猫からすれば、いきなり叫び出す異常な人間だ。加害者だ。許されないことだからこそ、書いておく。
癇癪持ちになったのは最近だが、猫に対してだけじゃなく叫ぶことは確かに最近増えた。どうしようもなくて、吐き出すようにあー!っと叫ぶ。カウンセラーさんには「感情表現のひとつ」と言われているが、やはり異常者だ。通報されないか心配になってきた。
話をまとめつつ、進めたい。
①時間軸が一般人と合わないこと。シエスタが必須だということ。
②頑張る=無理をする、ではないこと。たのしんで物事を進めることもがんばってる、ということ。そしてがんばる、がむいてないこと。(無理をする事が向いてない)
では次、③として、他人と合わせない方がいいとわかってきた事。
ずっとnoteには「自分らしく生きたい」をメインにだらだらと記事を書いてきた。
逆を言うと、自分らしく生きたいと言いながら、できてないから記事が量産されてきた、ともいえる。
ここにも幼少期の影響が強く残る。母に特に指摘された、他人と合わせるということ、だ。
僕はまず、家族とすら合わせられない。というか、合わせる気が一切無い。どこかへ出かけても一人で先に歩いて行くし、単独で行動したがる。自分の興味があることしか興味がなくて、他人と行動すると摩耗してしまうのもあるし、まず、すぐに「飽きた」と声が出る。
どうやっても、だめなのである。「飽きた」と出る。友人たちはそれをわかっていて、集団行動していて、僕が黙り始めると「ぬいは疲れたモードだね」と理解しほっといてくれる。ものすごくありがたい友人ばかりだ。
ここで「大丈夫?休む?」っていってくるタイプとは多分疎遠になる。ほっとかれるということが、僕にとってはいちばんの特効薬だ。これもきっと、過干渉で育ったからだろうか。
そしてなにより、これがずっと悩みだった。
他人と合わせることが一切できない。でも、合わせろと教えられて生きてきて、結果「過剰適応」になった。いつでもニコニコ。気を利かせてホスト、ホステスのように動いて。これは本来の僕では無いのだ。
過剰適応のせいで人間嫌いが加速していると、以前の記事でも書いたがその通りで、鬱と過剰適応とで歳を重ねるうちに、だんだん神経質になってきている気がしている。
年上の人に、「人間歳を重ねるとおおらかになるし、鈍くなっていくよ」とアドバイスされたことがあったが、僕はそれを聞いて、ずっとそんなわけない!と強く思っていた。僕は以前の方がもっと自分勝手だったし、おおらかだった気がする。なにより学生の頃なんて悪口を言われてることにも気づかないほど鈍感だった。嫌味も嫌味として受け取らず、前向きに捉えることの方が多かったと思う。(だから余計に悪口を言われたのだが)
今の僕は、過敏だと思う。感覚過敏だけじゃなくて、人の機微やら動きやらに、興味が無いのに必死に追いつこうとしてる気がする。社会人としての経験が、過剰適応を加速させた気がしている。
社会人として会社で働いて、「なんか変な子だよね」と扱いが他人とは違い、指導も多く、呼び出しも多かった。僕が働いてきた会社は今の会社以外どこもホワイトだったので、大声で怒鳴られるとかパワハラとかそういうのはなかったが、
「なんか自分、会社で浮いてるんだ」といううっすらとした自覚と、
「なんか自分、社会から“ちがうもの“ってされてるのかな」みたいな
学生の頃に味わった「この子、変わってるからイジってみよう」とも違う、ある意味「大人の“イジリ“」だったのだろうか。社会人として働くようになってから、嫌味というものがわかった気がするし、(それでもまだ一般人よりは幸せな方だと思う、という自分への嫌味)
「無言のメッセージ」と表現するのが今の僕の中での精一杯の説明なのだが、なにかを僕は受け取るようになった気がする。多分そこで、母から仕込まれた「他人と合わせる」技術がはっきされるようになっていき、それが自分を守り、同時に自分を傷つけるようになったんだと思う。
元々中学の頃から躁鬱だったが、進学してから躁鬱がひどくなった気もしている。
進学先でもなにかと攻撃を受けていたし、その頃パートナーとうまくいっていなかった。パートナーとは遠距離恋愛になったのだが、パートナーは大学で遊び放題。部屋に僕以外の僕と体の性が同じ人を泊めたり、泊まりに行ったりとしていたし、僕の進学した大学とは違い、余裕があったのだろう。とにかくサークルで遊んでいたイメージしかない。それを僕は許せなかったし、僕はメンヘラなので、僕自身に自信がなくていつも嫉妬していた。許せなかったのだ。許せる、余裕が無かった。
僕の学校は結構勉強量が多くて、遊ぶ暇がなかったことも余計に嫉妬になった。メンヘラなので、他人に支えてもらうことが当然だった僕にとって、パートナーの行為は裏切りに等しかった。だから、鬱になった。
鬱なんて久々だな、と思ったことを覚えている。さらに病院も合わなくて、処方される薬で眠気を引き起こし、授業中に眠ってしまうことが増えた。そして講師に怒鳴られたこともある。講師は僕が鬱で、眠くなる薬を飲んでいることを知っているはずだった。それでも講堂に響くぐらいの声量で怒鳴られたとき、さらに裏切られた気分になった。
そこらへんから僕は狂っていった気がする。メンヘラとして、人間として。買い物中毒になり、その気に入ったブランドでも、自分がベラベラと自分語りをするので今思えばそのブランド内では厄介な人間だと思われていたと思う。あからさまにため息をつかれたこともあって、それなのに当時の僕は「は?!僕が客で楽しませてやってるのに、なんで僕が店員みたいにあんたたちのご機嫌とってやってないといけないわけ?!」と内心思っていた。今はわかる。僕がおかしかったのだと。それなのに、もう、僕はしんどくてしんどくてたまらなかったのだろう。すべてを他人のせいにして、すべてを憎んでいた。勉学も身に入らず、全てが嫌いになった。
元々、進学自体も問題があって、僕が行きたい分野ではないところへ進学したこともあり、よけいに進学先の大学が嫌いになり、その大学に行くことになった原因の父や母がものすごく憎くなった。
不満が爆発して父や母に訴えれば、「それでも選んだのはあんた」で片付けられて、本当に絶望したことを覚えている。文章として書いてるとそこまで大したことじゃない気がしてきたが、当時の僕は本当に辛かったし、きつかった。なにもかもが嫌で嫌で嫌で嫌で、全て嫌だった。自殺も考えた。練炭で死ぬか、首を吊るか。いろんな方法を考えたりしたが、間違うと寝たきりになって一生を過ごす可能性もあることや、「本当に死ぬ」ということを考えて恐ろしくなって、泣いた。怖かった。死ぬことが怖くて、結局死ねなかった。
死ねなかったのは、東京にいた時もそうだった。
東京でも鬱になった時、毎日毎日電車に飛び込むことだけしか考えられなくなった。電車が参ります、とのアナウンス。電車のくる、音。音。音。生ぬるい風が押し込まれてくる。音。風。
ーー怖い。足が動かないし、なにより、僕は
「飛び込んだ後、きっとその電車にのっているおっさんが、舌打ちして終わりなんだ」
そんなのが、惨めだと思うと飛び込まなくなった。舌打ちされて、迷惑かけて死ぬ人生。舌打ち程度の命。プライドだけは高かったメンヘラだから、それで生き延びているのだろう。
そしてまた鬱。今回の鬱は結構でかい鬱で、長期だ。だいたい3年周期でやってくるやつだ。
鬱じゃなくても、実家に戻ってきてからは母と喧嘩する度に家族と何かあるたびに自殺は試みてきた。しかし、やはり怖くて死ねなかった。メンヘラ特有の、「死ぬから!ほら!こっちみて!」のツール程度だったのだろう。とくに、親に認めてもらえない僕にとっては。
ただ、この間はついにODをした。でも15錠程度しか薬は無かったのが幸いしてか、2日寝込む程度で済んでしまった。検索すると、同じ薬で意識が無くなるまでになるには100錠は欲しかったようで、100錠溜めとかないと、だめなのか、とがっかりしたのは記憶に新しい。
しかし、ODも同じくなにか後遺症が残る可能性のある危ない行為だ。やってはいけない。そして、正常時なら自分自身、ODが嫌いなのである。というのもなんどかやらかしては力が入らず歩けなくなったりと副作用をガッツリと経験しているのだ。たから、怖いことも知っているし、正常時ならば、やらない。
ただ、この間はやはり正常ではなかった。冒頭の話になるが母親に、家族に暴言を吐き散らし、死んでやる!と強く思っていた。絶対に死んでやる。絶対にこいつらに後悔させてやる。
部屋掃除していたら母に向けた「産んでくれて最低だった」という遺書も出てきた。これはどうやら去年の鬱と母との喧嘩の末の産物だったようだが、あえて捨てずに部屋の隅に放り投げて置いた。
今回の鬱でも遺書を書こうとしていた。しかし鬱の時ってのはペンを持つのもしんどくて、文章も支離滅裂。(このnoteもだろうが)結局最近までの鬱では遺書は作られなかった。遺書というか、生まれたことに対する悪口と親や家族への嫌がらせ、ともいう。
今回の鬱は酷いと思うので、またダメになる時があると思っている。記録的な寒さだし、僕も鬱の中でも波はある。今はやっと落ち着いているが、おそらくまた落ちるだろう。
話を戻すが、他人と合わせない。これはまだまだ難しい気がする。他人と合わせないというのは、この過剰適応をやめる、ということだからだ。
すぐにやめれたら苦労はしない。しかも人間は社会動物。日本は出る杭を打つ主義だし、いくら個性、といいながらも暗黙のルールを守って「キャラ」ぶらないと受け入れられない、全然自由じゃない世界だ。田舎なんて特に。
ただ、変わりたい、楽になりたいと僕は強く思っている。ここで書いて、「被害者なんです」アピールで終わらせるつもりはない。
③としては、「嫌われる勇気」じゃないけど、「僕を受け入れてくれる人だけでいいよ」な態度でいて良いと思う。僕は元々がこの態度で、小学生の頃からこれをとにかくしこたま母に指摘された。
「受け入れてくれる人だけでいい、って態度で甘えるな」と。
なにかのテレビ番組で、とあるアーティストも言っていた。「いままで、私を受け入れてくれる人だけで良いと思っていたけど、それじゃダメなんだって気づいて、みんなに感謝するようになりました」みたいなことを言っていて、
僕はテレビに出る人までもが、僕の考えを否定するんだ、と衝撃を受けたから覚えている。
でも、でも、僕は。「僕は」母でもないし、そのアーティストでもない。他人に合わせて辛い思いをする側の人間で、別に僕は受け入れてくれる人だけに感謝してるわけじゃない。
僕は僕ができないことをできる人全てを尊敬している。もちろん、嫌だなって人だっているけども、食卓に魚が並ぶのは漁業の人が頑張ってるからだし、道路を何事もなく走れるのも交通に関する全ての人が頑張ってるからだ。僕は、魚を釣るとしても、でかい魚は無理だろうし、船を運転することだってできない。朝早くに海に出ることもできない。道路だってそうだ、重機を扱えないし、測量とかも全然わからない。
この世は僕ができないことの大半で出来ている。だから、日常を送れるということがどれだけ、いろんな人の支えがあって「当たり前」なのか、は、すこしばかりでも理解してるつもりである。
だから、他人と合わせないということは、他人を蔑ろにするつもりで発していることではない。
ただ、僕は単に、単独行動を好み、人に合わせるのが苦手で、本来は人の機微も読めず、空気も読めず、人を不快にさせる発言をバンバン言うような嫌われ者なのだ。
人を不快にさせやすい、というのは僕がこれから気をつければ良いだけだし、単独行動は別に誰の迷惑にもならない。それを不快に思う人がいるなら、それはその人の問題である。
だから、僕は合わせなくて良いのだ。なにより、はっきりニコニコ毒を吐いてていいのだ。そして、もっとも、そんな時間で自分の創作活動の時間を減らす必要は一切無いのだ。
④嫌を好きに変換させる力を強くすること
僕はすきときらい、ならば、嫌い、の方が多いタイプだ。元がメンヘラなこともあってか、そしてこだわりの強いタイプのせいか、好き嫌いがかなりはげしく、嫌いが多い。
好きなものをあげて、というより、嫌いなものを羅列して、の方がバンバン書ける。なにかと気に食わないとが多い、本当に神経質なタイプなのである。
それを気にして、noteで書きかけたことがある。
自分は嫌いなものばかりだ、と。
そんな自分が嫌いだと。
でもとある本で、「嫌いなものに出会ったらそれはラッキーだよ!より、自分の好きなものの価値観を磨くチャンスなんだ」のようなことをかいてあって、僕は目から鱗だった。
僕は絵を描いたりしている。僕は僕の好きなものを描いてるつもりだが、やはりどこか弱い気がしている。どちらかというと、「あれが嫌いだから、これを描いた」が近いのだ。そんなんだから評価は低い。
そういえば、僕って嫌いなことばかりで頭をいっぱいにして、いつもそれに対して怒っていたから気づかなかったけど、価値観の整理をしてなかったな、とも気づいたのだ。
僕はこうやって自分の分析をすることが好きである。でもその一方で、分析は違和感だったり、嫌いなことだったり、「不快なこと」をメインに分析しているのだ。
そして、不快を楽にする、その目的ばかりだった。
好きなことを分析する、ということをしてこなかったことに気づいたのだ。そして、嫌いを好きの価値観に埋め込むということも、もちろんしてこなかった。
創作者の一人として、価値観とはかなり重要だ。価値観がまさしく売り物になるのだから。
それを深めずとして、何が創作者だ。恥じたし、納得できたし、嫌い、きらいばかりの自分がすこし嫌じゃなくなった。なんでも自分の力にする。その貪欲な力こそ、重要な力なのだろう。
だから、嫌、嫌いセンサーの強い僕だが、これもうまく使いこなせるようにしたい。そうすれば楽になる気がする。
後辛かったことはなんだろうか。
しかし、共通することの根底は、「無理をする」な気がしている。体力がないのに、一般人のように。一般人のように、と、頑張りすぎる。一般人のように、とコミュニケーションを張り切って、合わせて。嫌いなことばかりに気を取られて、好きに変換すらできないまま。
最後は嫌いなことに突っ込んでいくことが、無理をしていることに該当するんだと思う。好きなことだけ見てて良いんだと思うよ。嫌いだ!に出会ったら、変換する。
特に、僕は嫌いに関してけっこうめんどくさい。気に食わないが多いくせに、自分では作れないから妥協することが多い。そして、その妥協で自分の首を絞めてる気がするのだ。
服装がいい例だ。僕はかなり服装に関してうるさいと自覚している。服を選ぶにしても、「ここの紐の位置がもっと2センチ違っていれば」とかが多く、納得のいかない服を買う。そしてその不満は別の服を買うことにつながる。
本当に好きな服、は、かなり少ない。でも、妥協した服、はかなり多い。そのせいで、自分の部屋は服だらけだ。
今年はこれも処分したいと思う。本当に好きだ!って服を2、3着あればいいだけな話なのだ。ただ、僕の場合TPOに合わないことがあるから妥協しないといけなくて、服が増えたという理由もある。今の仕事場も服装にルールがあるため、嫌々気に食わない服を着ているところもあるのだ。
だから、それからも解放される。そうすればまず部屋がすこしでも片付くのではないだろうか。
一番は服が作れれば文句がないのだが、僕にはその才能がないので、そこは我慢するしかないのだろう。
「本当の好き」を大事にすること。妥協をやめること。
全てに共通するのは、そう、
無理をしないことであり、我慢しないこと。
たぶん、3年ごとに大きな鬱を発生させるのもきっと我慢の爆発なのかもしれない。
もちろん、社会で生きる上では我慢しないといけないことは多い。特に僕みたいなとんがってる人間が、我慢するべきなんだと思う。
でも、今までの人生を振り返って、我慢で辛い思いをしてきた。楽しい人生だったと、振りかえれないこと。こういう人生をもうやめたいこと。
我慢によって、結局他人に迷惑をかけてるということ。というか、人間なにをしても誰かには迷惑がかかること。そう考えると、インドの教えじゃないけど、僕は他人の迷惑を許しながら、自分の我慢をしないということを許していきたいと思った。
アラサーである僕。今までの人生確かにあっという間だった。残り60年としても、約30年が2回しか経験できない。あっというま、が残り2回しかないのだ。というか、事故で死ぬ可能性もあるし、なにより自殺する可能性もある。
だったら、もう、解放されていいのではないだろうか、僕よ。もう、手放せ。いろんなことを、解放しよう。我慢しない。とにかく、頑張らない。好き放題にしてしまう。迷惑なんか、ひとまず置いておく。楽しそうに生きていれば、自然と人は集まるのだから、そこから学べばいい。
まず、僕は僕の人生を楽しもう。小さなことでいいんだ。今日食べた団子が美味しかった。それだけでいいんだ。
人生はかえってこない。
死ななくてよかった、と思えることも何度かあった。それは、死ななかったから、そう思えるのだ。
死んでいたら、終わりなのだ。終わらせたいなら、終わらせてもいいけど、せめて、ちいさなよろこびを味わえるようになってから死んだっていいと思う。
死ぬのはいつでもできる。
生きるのはいましかできない。それでも死にたい時は、死んでしまっていいんだ。そうだ、楽に考えるんだ。死にたい時には死ぬ。それでいい。
ただ、いまを。このいまを。大事にしよう。もう我慢しないで、ただただ楽しく。感情をきらきらさせておきたい。
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