この家の巨悪
結局、市販薬のODはできなかった。ぶっちゃけ、高い。値段が高い。これを買うの?じゃあお酒の方が安い。
と、お酒を飲んでしまった。酔わないまま、眠りも浅く、結果早朝に起きる始末。なにやってんだろ。肝臓が強い家系なのか、酔うことはない。二日酔いも経験したことがない。それはありがたいが、こう過ぎ去ってみると、ODのほうがよかったなって思ってしまった。
というのも、過去にもお酒に逃げて、結果服用している薬の効き目がよくなくなってしまい、悪循環になったことがあるからだ。
お酒はやはりダメだ。そもそも酔わないくせに、なにやってんだか。本当、なにやってるんだろうか。
以前、お酒に呑まれてドブのような生活していた時は、格安の100円で買えるカップ酒に、ストロングゼロを組み合わせて飲んでいた。どっちも一気に飲む。そうするとぐにゃぐにゃになって起き上がれなくなり、ふにゃふにゃで気持ちよかった。
なにもかも、どうでもよくなって、布団に横になって、通り過ぎる電車の音を聞いては、みんなしね、そんな感情を抱いて眠りについていた。
ドブのような、自殺未遂を考えては止めての東京にいた時の生活の話だ。ちなみにこんなことをやっていたら10キロ以上太った。お酒でめちゃくちゃ太った。他にも居酒屋に寄って帰っていたりで、酒浸りだったので、当然太る。東京にいたときは、お酒がないと明日が迎えられなかった。職場が辛いわけでもない、むしろホワイトだ。田舎の会社よりよっぽど福利厚生も、休んでもよくて、同調圧力もなければ、上司は良い人たちばかり。こんなクソADHDなのにミスしても怒られる、怒鳴られることもなく、「原因の追求、改善策を一緒に考えよう」という、何と素敵な対応か。
本当にいい会社だった。鬱になってどうしようもなくなった僕に対して、「辞めないでほしい、せめて週3でいいから来て欲しい」って言ってくれたくらい、いい会社だった。なんで辞めたんだろうな。今ならやめない。週3で働いてた。
しかも昼休みが自由に1時間勝手に好きな時に取る、という体制だったので僕はよく、公園に一人で遊びに行っていた。きっちり1時間じゃなくていいので、それもありがたかった。
公園に行って、ただぼーっとして。きっと無機物な中で山育ちの僕は苦しかったのかもしれない。人工的ながらも作られた川と木々。そんな中にいると落ち着いた。蚊がひどくてめちゃくちゃ刺されたが。
隣に座ったおばあさんが、ペットボトルが開けられなくて大変そうにしてたから開けてあげたこともあった。ありがとうって、言われて嬉しかった。たぶん、僕はめちゃくちゃ寂しかったんだと思う。あの時のおばあさん、元気ならいいな。ちゅんちゅんと足元を人懐っこく回ってた雀も元気ならいいな。
そしてぼーっとしながら考えた。
この家の、毒の巨悪についてだ。
母はたしかに毒親だった。でも、母も被害者だと気づいた。カサンドラになってしまって、結果ヒステリーで僕にダブルバインドを強いた。母もいまは前より怒らない。というのも、母も成長し、年を重ね、「この家」の父方の人々に諦めがついた、だそうだ。
母にされたことは傷だ。でも、母の気持ちがよくわかる。父方の家族のおかしさ、だ。
特に巨悪、「祖母」だ。
思い返せば祖母の毒のほうがひどかったんではないか?と今思うのだ。
ちなみに僕にとって父は「父」ではない。僕の父は父であることを放棄し、全部母へと任せた。だから、僕は父を父と思ったことがほぼ無い。同居しているおじさんって感覚だ。
父という定義は曖昧かもしれないが、テレビで見るような「お父さん!」と駆け寄っていき、抱きしめたり抱き上げたり、なんか僕の家族ではあり得なかった。今も父とはなんなのか、と考えたりする。
そして同時に世の中の「父親」というものに疑心暗鬼のままだ。さらに同時に、男性という大きなくくりに対しても良い印象がない。これはまさしく安全基地が形成されてない証拠だと思う。
僕の父に対する印象が、そのまま世の男性像になっているのだ。さらに僕の友人もあまり良くない人が多かった。いや、もちろん良い人もいたし、男性全てが悪のようなものではないと知っている。
僕の、安全基地の認知の歪みがあるのだ。そこは僕の問題だから、批判とは違う。僕の中の事実として書いておきたい。
「男性とは、女性を虐げるものである。女性を働かせ、女性を性的欲求の発散としかみていない。使えるものとしかみていない。道具としてしか、みていない。男性は可愛がって育てられるせいで、子供のままである。結婚してもパートナーを『母親』にしたがる自立できない人間たちである。見聞きしたことを酒の席でクダを巻く存在である。集団になれば猥談、モラハラ。強く出れば何を言っても良いと思っている」
僕は性別が無い人間だが、根底にはそういう嫌悪があるからかもしれないとも、考えている。母親への嫌悪、父親への嫌悪。安全基地の無さ。
そして巨悪、祖母。
祖母の話なのに父の話になったりとまさしく注意散漫な記事だが、今度こそ祖母の話をしよう。
僕は祖母が毒だと気づいたのは、母の後だった。
両親が毒親だということはわりと早くから気づいていた。というか、両親が、両親の役割を成していないことにまず不快感ばかり募っていた。
他の親なら、と考えたことはなかったが、まともな親ではない。それだけは気づいていた。
その分、逃げ場になったのは祖母だった。しかし、祖母は僕を全肯定してくれていたか?と考えると、今考えると、全くもって、してくれていなかったと気づいてきた。
祖母は押し付けがひどいメンヘラだ。
「やってあげたのに」が口癖で、ありがとう、と言われるためだけ、褒められるためだけに動いている。そして話が長くて自己中心的。オチのない悪口を延々と語る。最近は歳を取ったのもあってか、同じ昔話を何度もするようになってきた。これはしょうがないにしても、昔からそういえば、この人。
僕を肯定するふりをして自分を満たしてたな、と
やっと気づいたのだ。
というのも、僕が自立しようとなにもかも自分でやろうと動き始めてからわかったのだが。
なにをするにしても、祖母が邪魔なのだ。
僕は別にご飯をひとりで食べれるし、食べなくたって良い。コンサータでそもそもに食欲が無い。コーヒーで朝食と昼食が賄える。むしろ食べたくないのだ。
それにたいして憤激までいかないが、祖母がうるさくてしょうがない。
「食べない」と伝えると、事件です!並に「どうして!?!なんで!?具合悪いの!?」と騒ぎ立てる。うるさい。
僕がひとりでなにかをしていても、どうやっても我慢できないらしい。口出し手出しがやってくる。これはnoteに何度か書いているが、いまもとまらない。むしろ僕が自立し離れようとするのが怖いのだろう。悪化するばかりだ。
僕の祖母はとにかく、とにかく!とにかく(かなり強調するが)
口出し、手出しがすごいのだ。
関わらないと死ぬのかお前は、ってぐらいだ。
そもそも過干渉で、こういった、口出し・手出しは子供にとって「あなたはできない」というメッセージにしかならない。今思えば、母も口うるさい人で見守ることができない人だったが、祖母の方がひどかったと思い返せる。
「あなたはできない」
そのメッセージを受け続けた結果。祖父や父からのフォローも無い結果。
僕はプレッシャーに弱く、他人を一切信用できない人間になった。
図太いメンタルの自覚はあるが、それはメンヘラだからだ。メンタル自体は弱い。誰からの批判でも傷つく。通常の人は、誰からの批判でも傷つかないらしい。近しい人や親しい人、自分が信頼してる人からの言葉での攻撃だけが傷つくらしい。
だからといって、SNSでの攻撃はみんな傷つくと思うけど…。と、以前の記事でも同じことを書いた気がする。ただ、批判に強い人と弱い人がいるのは事実だ。
「ハッ僻みだな」と批判を流せる人もいれば、
「ごめんなさい私が変な発言をしました」と全然悪くないのに土下座並に謝る人もいる。
僕は後者だった。なにかあれば、何か他人を不快にしたならば土下座並に謝っていた。怖くて怖くて、被害妄想でいっぱいだった。
特にSNSは表情が見えない。僕は他人のすこしの表情の動きを見て、言葉を変えたり表現を変えたりしていた。
毒家族のおかげで、道化は得意なのだ。他人の顔色見ることだけは天下一品のような才能になってしまって、対面だと僕は強い。
特に昭和世代の人たちに「若いのになんて気が利く子なの。良い子ね。親の教育がとてもいいのね」と絶賛されるのである。少し誇張して書いているのは僕への皮肉でもある。
でも、実際にそう言われるのである。
ただ、ここで僕は助かっている部分でもある。僕の個性を滅多殺しにしながらも、ASDの気が利かないや、空気読めない、と言われてしまう社会に適応しづらい特性は緩和されているからである。
が、何度も書いているように、僕はこれで摩耗する。過剰適応である。その場の空気を読むため、必死に気を遣い、気を利かせ、ごまをする。道化になり、笑わせたり良い雰囲気になるように必死になる。
この、茶番。僕は茶番だと思う。
そして、どう生きても僕は生きづらかったのかな、とも思えてくる。
ただ、自立し始めて思うことは、
もっと他人を信用できたなら
これだ。他人が怖くないなら。他人が攻撃してこないと信用できたなら。他人が僕を嫌うのが当然で、いつも僕を下に見て、僕を嘲笑っている。そんな思い込みが無かったなら。
もっと幸せだったんじゃないか。
ひとりじゃなかったんじゃないか。
パートナーを作ろうとか思えたんじゃないだろうか。一周回って幼い子供みたいに「みんな僕が嫌いなんだ」なんてわざわざ言葉にしなかったんじゃないだろうか。嫌われてるとわかってるのに、他人に期待なんかして、勝手に落胆してを繰り返さなかったんじゃないだろうか。
幼少期の経験が人生を左右するのか、いま子供を持つ親はどれだけ認識できてるんだろう。
僕みたいな「生きてるの辛い」って人が減れば良いと思ってる。増えないでほしいと思っている。
巨悪からどんどんメッセージを受けて、毒だと自覚できるようになったのは、そのくらい僕が「僕」ってものになってきて、自立できてきたからだ。
とにかくメンヘラはだめだ。自分で解決できない問題を他人のせいにし続ける人間だ。自覚できてるならまだしも、自覚できない、僕の祖母のような人はそばにいてはいけない。
こんな書き方したくないが、祖母だって僕より先に死んでいく。と思う。僕が自殺しない限りは。
自殺したら騒ぐのは祖母だ。ぎゃーぎゃーと悲劇のヒロインになろうとするだろう。そして母が泣きたいのは私だ!とブチギレるだろう。想像がつく。
僕は祖母と距離を取るべきだと思う。
というか、実家から出た方がいいんだと思う。ただ、僕は生活能力が無いし、鬱だし、働けないので今すぐに出て行けるわけではないが。
毒家族とはすぐ距離をとれ!とみんなが言うが、やっと、僕もその通りだと思い始めた。
烏滸がましいが、毒家族も欲求を満たせば変わるんじゃないか、と思ったことがあったが。そんな記事も書いたが。
そもそもにメンヘラたちは自覚したら焼け死ぬ人たちなので(それを乗り越えて自覚しながらも自分と戦ってる人は偉い)
自覚できるわけもなければ、すべて他人のせいにして自分を守ることで精一杯なので、変わるわけがないのである。なにより自分が変わりたいと強く思ってないかぎり。口先だけで「変わりたい」って言っては言い訳してるメンヘラはたくさん見てきた。知り合いのメンヘラに、祖母もそうである。
祖母も、「私、だめよね」なんていいながら、ダメなところを改善しようとなんて一切しないし、指摘してみれば怒り、他人のせいにして言い訳三昧である。怒らない時も、とにかく言い訳。メンヘラは言い訳がすごい。自分を守ることで精一杯だからだ。
長々と書いたが、自分の気持ちが整理できた。
メンヘラは関わらない方がいい。
そして、僕は自立していく。辛くても、鬱でも、言い訳してるメンヘラでも、変わっていく。
きっと寒暖差などでまだまだ辛い時期は続くだろう。前向きな記事を書いても、すぐにダメになるだろう。それでも、なんとか、死なないでおきたい。やっぱり、死んではダメだと思う、僕。なんとか生きてれば。なんとか、自分を変え続ければ。
他人をいつか信用できるかもしれないし、ひとりじゃないかもしれないし、
もっと、開き直ってひとりが幸せでしょうがなくなる時がくるかもしれない。
あせって、答えや結果だけをもとめちゃだめだ。
形あるもので繕うのはだめだ。これこそメンヘラだ。自分のあるべき姿を見直そう。自分のままで、そして理想の姿を見つめて歩いていこう。
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