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「認知症世界」を私はおばあちゃんと歩けるかな

見えないものが見えてしまう。いない人がいるように感じる。体が思うように動かせない。ネガティブになり、落ち込みが激しい。

最近の祖母と過ごしていると、そういうことを言われます。見ていてもわかるし、叔母や母の言葉を聞いていても、そういう症状なんだともう目をそらすことはできません。

おばちゃんの家に行くと、いつももうひとり誰かいるような気がするらしい。そう聞いていて実際に遊びに行ったら、たしかに「妹はどこにいったの、一緒に食べなきゃ」などと言うのです。おばあちゃんは日常生活で、私の気配もよく感じるのだそうです。今の私だけではなく、幼い頃の私。遊び疲れて前髪をおでこに貼り付けて昼寝をしていた保育園時代の私。

誰かいるような気がするの。そう言われても、怒ったりはしていません。そっか、でも今日はいないよ、まゆだけ!と笑顔で接するようにします。おばあちゃんは怪訝そうな表情はしますが、そうか、、と言って自分のお茶碗に向います。

先日、ついに気になっていた『認知症世界の歩き方』が届きました。

祖母はどんな風に世界を見ているんだろう。祖母が生きる日常生活はどうなっているんだろう。少しでも分かれば何かの手がかりになるかもしれないと思って注文していたのでした。

自分の体が思うように動かせなくなったり、自分が何をしようとしていたか自体を忘れてしまったり、感覚が過敏になったり、そういう祖母に当てはまる症例は典型的なもののようでした。そして、いつかは自分も顔をわかられなくなってしまう、そう確信めいたものが生まれて切なくもなりました。

けれども、この本の特徴は、病気のゴリ押しをしてこないところです。世界の歩き方と言っているほど、旅をしている気分で世界の見え方、感じ方を教えてくれます。

80歳を超えたおばあちゃんがまだまだ自分の感情や今日あったことを言葉にして伝えられることは、すごいことなんじゃないかと思いました。他の祖父母が健在なので忘れていましたが、この年までそういった症状がなかった事自体がむしろすごいのです。おばあちゃんの記憶や感覚に混乱が生じて濁り始めているのは間違いありませんが、それで何でもできないと決めつけるのは違うのだとわかりました。

そして、おばあちゃんが私や妹たちの小さい頃の姿をよく目にするのは、その時間を大切に思っていたから、自分にはやらないといけないことがあると感じてしまうからなのかもしれないと思いました。認知症の症状の中には、過去にタイムスリップして自分にはやらなくてはいけないことがあると感じてしまう、それが結果徘徊につながったりするケースが有るのだそうです。過去の大変だった時、自分にとって大切なこと、そういった強い記憶に戻されてしまうんです。

祖母にとって私達がいつまでも幼い子供なのではなく、祖母自体が20年タイムスリップしてしまっているのでした。確かに私は0歳のときから保育園に預けられ、保育園の送り迎えも全て祖母がしてくれていました。母は会社員ですぐに職場復帰したから、1月生まれで保育園でもすぐ風邪をもらってきては寝込む私はほとんど祖母の家に入り浸っていました。私の最も古い記憶も、祖母との保育園の帰り道なのです。

その時の私の世話は、大変だったと思います。最初の孫で、食いしん坊で頑固で、でもすぐに風邪をひく。そんな時間に祖母が使命感を感じて今も戻ってしまうのだとしたら、私は祖母に感謝してもしきれないのです。

おばあちゃん、もう一度絵を描きたいと思わないかな。祖母は身長より大きいキャンバスに油絵を描くような人でした。私が今でも絵が好きなのは、祖母が好きなだけ描かせてくれて、そしていっぱい褒めてくれたからです。

おばあちゃんの今見ている世界を、絵にしよう。そんな風に言ったら嫌がるかな。一緒に絵がかけないかな。

衰弱している祖母を目の前にすると、そんな言葉が出てこなくなってしまいます。でも、祖母には楽しい時間が未来に向かっても必要だと思うんだけれどなあ。

きっとこれからも、模索の日々は続くんだと思います。私はまだ気楽で、叔母や母は、もっとずっと大変そう。どうしたらいいのかわからないけれど、目をそむけずに今の祖母との時間を大切できるか。それが私がしなくてはいけないこと、そしてしたいことです。




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