今日の僕を明日の君へ(01)

 いつもと同じように朝の八時に目が覚めたが、休日なので再び寝入った。粘着質の夢を見て、そこから抜け出そうともがいて現実に戻って来た。二度寝による軽い頭痛の中で、夢の異質さを反芻していたが、いったん空腹を意識してしまうと、もう仔細を思い出すことは叶わず、付随していた不快感だけが頭の芯に残る。
 ベッドから下りて電気ポットのコードをコンセントに差し込み、フライパンをコンロにかけて油をしき、冷蔵庫を開ける。朝昼を一緒にするので、二個の卵とウインナーを多めに取り出す。トースターの中に食パンを二枚並べ、温まったフライパンにウインナーを投入し、包丁で入れた切れ目が広がり出したところで、卵を割って落とし、蓋をして火力を弱める。夕食でも食べたサラダをテーブルに置き、沸騰したコンロからティーバッグが横たわるカップにお湯を注ぐ。片付けられることのない常設の鍋敷きの上にフライパンを載せて、焦げ目のついた食パンにバターを塗ってから蓋を開ける。焼けたウインナーの匂いのする湯気が立ち上る。
 人差し指を立ててクルクルと回すとスピーカーから当たり障りのないインストが流れたが、気持ちの歯車と合致せず、だけれどもジャンルを指定するにも思い付かず、天井に向けて開いた手のひらを閉じると、音楽が途絶えて部屋には冷たい沈黙が下りる。
 のんびりとした朝食を終え、汚れた食器やフライパンを食洗機に突っ込んでから歯磨きをしてベッドに横たわり、タブレットにインストールされたゲームを起動する。平日であれば、やめ時を見失ってダラダラと続けてしまうが、制約がないと逆に楽しむことが出来ず、三十分で飽きてしまう。漫画にしても小説にしても同じで、うつらうつらと眠気に襲われるが、寝溜めのおかげで意識が深く沈殿することはない。
 低い唸り声のようなサイレンが外で鳴る。雨音を聞きたくないので、ピースサインを掲げて左右に動かすと、ベランダサッシは雨戸に覆われて、外光が遮られたことで室内灯が灯る。枕元の携帯で時間を確かめると三時、少し早いが、体操をすることに決める。壁面のディスプレイにアニメを再生させ、床の上にマットを敷いてストレッチを始める。新しい運動法が流行ると、いくつかは試してみた。始めた瞬間は、もっともらしい理屈と新鮮さに魅入られたが、しばらくすると寮で覚えたオーソドックスな体操に戻る。浮気をしたことで本妻の良さを再確認したわけではなく、抜き差し難く一連の流れを記憶しており、なにも考えないでも動けることが、結局は楽。アニメにしてももう何度となく鑑賞しており、最早、心の琴線をわずかでも震わせることはなかったが、だからこそ重宝している。
 オープニングからエンディングまで、きっちり二話見終えて、汗ばんだ服を脱いで洗濯機に放り投げ、湯を張っておいた風呂につかる。「ちょっとよろしいでしょうか?」と言われたのでうなずくと、年齢に合った適切な運動量だと褒められた後、「今日は一言も声を発していません、声帯とメンタルの健康の為に、私と会話しませんか?」という提案を受けたので、「うるせーよ」と黙らせる。
 浴室から上がると、まだ早いなという罪悪感を覚えたが、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、指二本で雨戸を開けるよう指示する。雨が上がっていたので、濡れていないことを確認してから、ベランダに出る。水嵩の増した川の向こうには、夕日を浴びたオレンジ色の平べったい集合住宅が幾重にも並んでいる。すっきりとした無個性な建物の並びを見て、老政治家が、「古い現代アートのようだ」と評し、売出し中の若手評論家に、「昔なのか、今なのか、はっきりしろよ」と揚げ足を取られていた。
 一人暮らしを始めてからは、窓に明り取りと換気以外の機能を求めたことはなく、外の景色が隣の建物の外壁であっても、これがシャバなのだと苦もなく受け入れていた。窓に嵌め込んで偽の景色を写すディスプレイの存在を知った時は、なんてジジくさいと呆れた。
 部屋探しにおいて、眺望など条件には入れていなかった。だから、不動産屋から、見晴らしの良さについて語られても、まったくそそられなかった。客の要望を無視する強引な営業トークに辟易し、内心では、他の不動産に勧められた物件にしようと決めていたが、それだけに気楽な心持ちで、「見るだけは見ます」と伝えた。携帯に送られてきた住所に着いたことを不動産屋に告げると、リモートで玄関の施錠を解除してくれ、そのまま彼に指示される通りにエレベーターに乗って、部屋に入った。同じような家賃の物件より手狭で築年数も経っていたが、閉め切っていた雨戸が開け放たれた瞬間、動画で見せられても何の興趣もわかなかったのに、目の前に遮蔽物がない無防備さは心細くも、大胆な解放感を与えてくれた。初めて異性の前で全裸になったような不安と興奮に酔って、もっと上の階を見てみたいとお願いした。自分の思惑以上に客が喜んでいることは不動産屋も嬉しかっただろうが、空き部屋を検索し終えると、彼は渋い声で、「最上階しか空いてないですね」と言った。
 最上階からの眺望は堤防も眼下に収めて、より自由に広がった。窓枠に嵌められたディスプレイには決して映らないような、陳腐で貧相な川が流れていたが、これが毎日見られるのであれば、どんなに幸せだろうと思った。しかし、申し訳無さそうに不動産屋が示した家賃は当初の予算の倍、一気に鼻白んだ。そんな客の表情を受けて、不動産屋は、相場と比べて階下の部屋は掘り出し物であると盛んに主張したが、最高の景色を知ってしまった後では、そんなものは目に入りようがなく、さりとて分不相応の贅沢を選択する勇気はなかった。現実と理想に引き裂かれて何一つ決めることが出来なくなり、「とりあえず、今日は帰ります」と告げた。建物から出て、「お買い得なのは嘘じゃありませんから、早めに決めないと無くなってしまうかもしれませんので」と不動産屋が言ったのは、最初に案内してくれた部屋についてだろうが、それは呪いとして、常に頭を支配することになり、人の手に渡ってしまえば二度と自分には回ってこないだろうと恐ろしく、三日後、いっそ、もう決まってくれていたらと願いつつ不動産屋に連絡して、最上階の部屋を契約した。
 缶ビールが空になったので、いったん室内に戻る。新しく開けたビールに軽く口をつけてから、折りたたみ式のリクライニングチェアをベランダに広げ、タブレットを持って横たわる。ニュースや小説を読みながら、体をねじって地べたに置かれた缶ビールやつまみを拾う。読み物に飽きると立ち上がって、目を凝らして黒々とした水の流れを眺める。この建物の住民たちは、景色を目当てに割高な家賃を払っているはずだが、窓を開けてまで楽しもうとすることはないらしく、生活音が漏れ出てくることはない。家賃には清新な川風との触れ合いや、鼻をくすぐる水の匂いも含まれていると考えているので、窓枠に区切られた風景だけで満足出来るなど理解に苦しむ。
 外出することなど滅多にないので、廊下で住民とすれ違ったことは、数えるほどしかない。年齢はまちまちであったが、「若い人」はおらず、三十代後半以降、せっかくの外出ということで、全員が地味でも高そうな服を着ていた。
 知らないうちにリクライニングチェアの上で寝入ってしまったが、夜気に起こされる。空き缶や、残ったつまみを片付ける気にはなれず、手を付けずに部屋に戻る。歯を磨いてしまったことで、中途半端に体が覚醒してしまったらしく、布団に包まっても、なかなか寝付けない。何度も寝返りを打ち、体を疲れさせれば、スムーズに眠れるだろうかと、性器をしごいて射精に導いたが、やはり眠れない。明日は仕事なのに困ったものだと携帯で時間を確かめると、まだ十二時を回っておらず安堵する。
 これが今日の僕。

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